外堀を埋めるがごとく
四月一日をエイプリルフール、四月馬鹿と名づけたのは誰なのだろう。なんとなくそんな事を考えてしまうのは、もしかしなくても、現実逃避なのかもしれない。目の前で展開されている状況を飲み込む事ができず、私は視線と思考を逸らせる事で心の平安を保とうとしていた。
「ほお。大和先生はあの高校の出身だったんですか」
嬉しそうに弾んでいる、父の声が聞こえる。
「はい。まさか佐川さんのお父さんが先輩とは思いもしませんでしたが」
いつもとは打って変わった穏やかな響きの声の主は、私の都合も聞かずに一方的に、今日の予定を空けておけと言った人。
「先輩と言っても、先生よりも三十年以上前ですからねえ。中退ですし」
「そんなお年にはとても見えませんから、正直驚きました。それに、ご家庭の事情でおやめになられたんですから」
よく言うよ、と心の中で密かに毒づく。実際の歳より若く見られる事が多いとはいえ、父は既に五十も半ばなのだ。
「大和先生は、お口が上手いですねえ」
まるで悪徳代官と越後屋だか桔梗屋だかの悪だくみのような会話が展開されるも、あくまでも私とは無関係だと思いたくて、手元の驚くほどに分厚い辞書をぱらぱらと捲っていく。大学の職員である父の持ち物なのだが、実は子供の頃から辞書好きな私は、特に目的もなく辞書を見ては時間を過ごす事があるのだ。
四月馬鹿の欄を見つけ、早速目を通していく。起源から別名までざっと目を通した私は、フランス語のポワソン・ダヴリルという呼び方がなんとなくお洒落でかっこいいな、なんて思った。四月の魚という意味らしいのだけれど、馬鹿よりも魚の方が響きがいいような気がする。
「姉ちゃん、なに他人のふりしてるんだよ」
弟の呆れたような声が頭の上から降って来た。顔を上げると、ビール瓶とグラスを持った弟がそこにいた。
「誰のために家族が揃ってるのか、分かってんのか?」
「う。わ、分かってるわよ」
「だったら、ほら」
ダイニングテーブルについていた私の目の前に、どん、と音を立てて瓶が置かれる。キッチンでは、母が忙しそうにおつまみと昼食の準備をしている様がうかがえた。
「さっさとこれ持って行って、酌の一つもしてくれば?」
「なんで、私が」
「それこそなんで俺が、父さんはともかく、姉ちゃんの彼氏に酌しなくちゃいけないわけ」
「あ、あう」
彼氏と言われて、何も言い返せない自分が悲しい。この場合、弟が言うところの「姉ちゃんの彼氏」とは、当然の事ながら来客である大和先生の事だ。いつの間にそんな話になったのか、実は記憶が定かではない。
それよりもなによりも。今日の予定というのが、まさかそれが私だけではなく父と母ついでに弟にまで及ぶ話だとは、予想もしていなかったのだ。
昨夜母の口から
「大和先生、明日は十時頃来られるらしいから、ちゃんと部屋を片付けておきなさいね」
と聞かされた時には、思わず我が耳を疑ったものだ。さらには父までもがうきうきと
「先生はビールでいいのか? それとも日本酒か焼酎の方がいいかな」
などと言いだしたものだから、私の混乱はますます度を増してしまった。
「ちょ、ちょっと待ってよ。確かに明日は先生と会うけど、私の部屋は関係ないでしょう。どうしてそこでお酒の話になるの? だいいち、お父さんもお母さんも明日は仕事でしょう?」
慌てて確認する私に、両親は揃って首を横に振った。
「二人ともお休みよ」
「先生から連絡があったから、有給を取ったぞ」
ぐらぐらと、地面が揺れたのではないかと錯覚するくらいに、眩暈がした。なにがどうしてこうなっているのか、皆目見当がつかない。
頭を抱えている私に母が簡潔に説明してくれたところによると、どうやら十日ほど前に先生から電話があり、できれば四月一日に折り入って話をしたいと言われたのだそうだ。これは一大事とばかりに、父と相談のうえ、年度替りで多忙な中わざわざ有給を取って出迎える事になったのだとか。先生がなぜそれを私に言わなかったのかは謎だが、前日になるまで黙っていた両親も相当なものである。
「そりゃあ、そうやって驚く姉ちゃんを見るのが面白いからに決まってんじゃん」
なぜか事情を察しているらしい弟が、さらに追い討ちをかけてくれたものだった。すっかりカエサルの気分だ。
ジーザス! 弟よ、お前もか!
そんなこんなで一夜明け、混乱したままの頭で玄関まで出迎えると、先生は憎たらしいくらいに晴れやかな表情をしていた。
「先生、これはいったい」
どういう事なのか、と問い質そうとしたのに、
「先生、ようこそいらっしゃいませ」
語尾にハートマークがつきそうなほどの勢いで、母に邪魔をされてしまったのだった。
そしてあれよあれよという間にリビングのソファで待つ父のもとに案内され、茫然としている私を無視した世界が展開されている、というわけなのだけれど。
じっとりと横目で男たちを睨みつけながら、弟から渡されたビール瓶とグラスをテーブルに置く。誰が酌などしてやるものかと無視をしていたら、父が先生のグラスにビールを注いでいた。
「先生、車でしょう?」
「いや、今日はお父さんから、車はやめておくように言われているから」
いったいどこまで打ち合わていたんだか。よくもここまで当事者であるはずの私を無視して話を進めたものだと、皮肉ながらも感心せずにはいられない。
「お父さん、うちじゃ誰もお酒の相手がいなくて寂しがっていたでしょう? だから先生が来てくれるのを、ほんとうに楽しみにしていたんですよ」
おつまみのオードブルを乗せた大皿を手にした母が、にこやかにそう告げた。けれどそれは、私も弟も未成年だし、母は少しの量でも倒れてしまうくらいにアルコールに弱いから、仕方がない事なのだ。
私は弟が持って来てくれた炭酸飲料のグラスに口をつけながら、やたらと機嫌のいい父を眺める。もともと陽気なたちだけれど、お酒が入るとさらに明るくなるのだ。そこまではいいのだが、さらにお酒が進むと、やたらと気が大きくなってしまう事がある。どこそこに行こう次はいつ会おう、などといった程度の内容とはいえ、翌朝にはそれを覚えていない事がままあるのだから、癖が悪い。さすがに午前中から深酒をしたりはしないだろうと思いつつも、一抹の不安がないわけでもなかった。
「これからは先生が相手をしてくれるそうだから、余計に機嫌がいいんだよな、父さん」
何気なくつぶやいた弟の言葉に、危うく炭酸を吹き出しそうになる。すんでの所で堪えたけれど、慌てて飲み込んだ水分が気管に入ってしまい、私は激しく咳きこんでしまった。
「おい、大丈夫か」
隣に座っている先生が背中をさすってくれるけれど、そう簡単には治まらない。
「だ、だいじょ、ごほげほ」
声を出そうとすると咳が出るので、仕方なく黙っている事にした。
好きなアルコールは何かと父が尋ねると、焼酎のお湯割りだと先生が答える。なんとも渋いというかオヤジ臭いなあと思うのは、父と好みが同じだからだろうか。
「いま、何気に失礼な事を考えただろう」
私の思考を敏感に察知したらしい。横眼で睨んでくる先生に、ひきつった笑顔で首を横に振った。
「あらあら。まるでずっと前から恋人同志だったみたいな、自然な雰囲気ねえ」
いや、だからなにを言い出すんですかお母さん。
「ああ。もうすっかり嫁に出すような気分だよ」
いや、だから嫁に出すも何も、まだ私と先生は恋人同士でも何でもないんですってば、お父さん。
「お二人とも、気が早すぎますよ。今日はまだ、交際のお許しをいただきに来ただけなんですから」
そのとんでもない言葉に、先生の顔を凝視する。交際? 交際って、誰と誰が?
「それに、実はまだ口説いていないんですよ」
いや、だから口説くも何も、って、両親を相手に何を言っているんですか、先生。
「おや。本当に真面目に年度が替わるのを待っていたんだなあ、母さん」
「さすが、私たちが見込んだだけの事はあるわね、お父さん」
私に分かるように話をする気がないのか、この人たちは。
「とりあえず父さんと母さんの関門突破、おめでとう。ってことで、じゃあ、こんな所で酒を飲んでいる場合じゃないんじゃないの、先生」
弟よ。あんたまで何を。
「それもそうだな。いや、一緒に酒を飲めると思うと嬉しくて、つい先走ってしまったんですが。やはり順序的に、そちらの方を優先するべきだったなあ」
いや、だからね、お父さん。
「そうと決まれば、先生と一緒に部屋に行きなさい。誰も邪魔しに行かないから安心してね」
うちの家族に、常識を求める私が悪いのだろうか。
「こっちは、夕食の時にまたつきあってもらえますか」
父が笑顔でグラスを掲げると、
「はい、喜んで」
と、にっこりと愛想笑いで答える先生。なんなんだろう、このいきなりなまでの仲の良さは。
今の話の流れからすると、先生はもしかして、うちで夕食を食べて帰るつもりなのだろうか。というか、それまでうちにいるつもりなのだろうか。
先に立ち上がった先生に促されるように背中を押され、家族全員に見送られながら、先生と私は二階にある私の部屋に向かったのだった。
「これはいったいどういう事なんでしょうか」
私の部屋にはソファなんて物があるはずもなく、必然的に二人して、センターラグの上に腰を下ろす事になった。
「言っておいただろうが」
「なにを、ですか」
「だーかーらー」
ぐいっと腕を引かれ、倒れこむように先生の胸にぶつかり、ほんのりと漂うお酒の臭いに顔をしかめる。
「今日が何月何日か、言ってみろ」
「四月一日、ですよね」
どきどきとうるさい心臓を宥めようとするけれど、当然のように無駄な徒労に終わった。異性として誰よりも好きな男性の腕の中にいて、平静でいられるはずなどないのだ。
「やっとお前が、俺の生徒じゃなくなった日だな」
四月一日なんて、エイプリルフールだという発想しか浮かばなかった私は、先生の言葉でようやく気付いた。高校にあった私の学籍は、昨日までで消えたのだという事に。つまり今日から二人は、先生と生徒という関係ではなくなっているという事で。
「うーむ」
唸ってみても状況が変わるわけでもなく、むしろ鼓動はますます激しくなり、眩暈と耳鳴りまで起こす始末だ。
「この間言っておいたが、お前の事だから忘れているかもしれん。いいか、今から言う事は、四月馬鹿の冗談なんかじゃないからな」
「あ、あう」
何を言われるのかは知らないけれど、反応に窮した時には四月馬鹿を口実に逃げようと思っていた考えを見事に読まれてしまい、さらには機先を制されてしまった。
「お前の英語のセンスのなさには、本気で呆れさせられた。大学受験なんて不可能だろうってくらいにはひどかったな。放課後、俺が毎日根気よくつきあってやったお陰で、なんとか形にはなったが」
思い出したくもない事を、なにも今言わなくてもいいではないか。そりゃあ、他の教科は一通り卒なくこなせる私にとって、英語だけが、鬼門と言ってもいいほど難解なシロモノだった事は確かだけれど。もしかして先生はそれを根に持っていて、腹いせに私をいじめようとしているのだろうか。
「だからお前は、俺に対して山ほどの恩があるわけだ」
それは、まあ。確かに恩義を感じているのだけれど、わざわざ押し付けがましく言わなくてもいいんじゃないかと思うわけだ。私としては。そこが大和先生らしいと言ってしまえば、それまでなのだけれど。
「どうでもいい奴なら、とりあえず補習につきあってやったとしても、適当なところで切り上げていたんだ。それがお前となると、途中で放り出すわけにはいかなかった」
「へ?」
「お陰でお前の両親にも好印象を与えられたみたいだし、今日まで我慢した甲斐があったってなもんだ。まあ、結果オーライってところか」
「はい?」
「て事で、お前、俺の物になれ」
「はいいいいいーっ?」
オレノモノ? オレノモノって、ナンデスカ?
「なんつー声を出すんだよ。まさか、気がついていなかったとか言わないよな」
いや、まあ、ね。あれだけ思わせぶりな言動を取られて、さらにはホワイトデーにはほんとうは本命だった義理チョコのお返しにって、とんでもない物をもらってしまってはいるのだけれど。むしろあの場合、押し付けられたと言った方が正確かもしれないけれど。
それでもまだ、まさかそんな事はないだろうとか、あれには深い意味はないんだとか、私の勘違い決まっているじゃないかとか、そんな事を考えずにはいられなかったのだ。
「で? なんで右なんだ」
抱きしめられていた体を離され、すくいあげられた私の右手の薬指には、あの時の輪っかが輝いている。どこで調べて来たんだか、ご丁寧にも私の誕生石であるペリドットつきの輪っかである。
「どうしてって言われても。どっちにはめろ、とも言われなかったじゃない、です、か」
さらに言うならば、中身が何なのかも分からずに押し付けられたのだ。その意味すらも伝えられないままで、どうして左手になんてはめる事ができようか。左手の薬指には、特別な意味があるのだから。
むっとしたように口元を歪めた先生は、私の手から指輪を引き抜いてしまう。
「こういう物に、他の意味があるとは知らなかったな」
言いながら今度は左手を捕られ、迷う事なく薬指にはめられた。悔しい事に、サイズがぴったりだったりする。
「先生、この指って」
左手の薬指。そこにはめられた指輪の意味を、知らない人なんてきっといない。
「だから、俺の物になれと言っているだろうが」
にやりと楽しげに歪んだ口元を、ただ茫然と見つめた。
「補習の、恩返し、ですか? 代償がこれって、高すぎません、か」
高いのは、指輪なのかそれともこの薬指なのか。血が上った頭では、冷静に考える事などできそうにはなかった。
「お前ね。惚れた男の心を手に入れておいて、それ以上何を欲しいって?」
「惚れ、って、だから、それは」
「今日なら、誰にも何も文句は言われる事もないんだから、いいかげんあきらめて認めろよ」
先生の事を好きだなんて、言葉にして伝えた事も態度で示した事もないはずだった。にもかかわらずずっと以前から見抜かれていたのは、きっと先生が私の事を見ていてくれたからなのだろう。教師と生徒という関係に縛られていた私は、先生自身に指摘されても、到底認める事などできなかったのだけれど。
「先生は? 先生は、私の事」
「惚れているに決まっているだろう。そうでなきゃ、誰がこんなまだるっこしい事をするんだ」
いつになく真剣な先生の目の下がほんのりと赤く染まっているのは、きっと目の錯覚ではないはずだ。じわりと目頭が熱くなり、慌てて何度も瞬きをした。
「壊滅的に英語ができなかったところも、惚れている相手に素直じゃないところも、全部ひっくるめて目が離せなかった」
ああ、もう。これ以上言われたら、ただでさえ激しく鼓動を刻んでいる私の心臓がもちそうにない。
「先生の、馬鹿」
顔を俯けて視線だけを先生に向け、恨めしそうな声音でつぶやいた。
「そういう顔が男を誘っているって、分かってやっているのか」
「さ、誘って、って」
思いがけない事を言われ、ぶんぶんと首を左右に振って否定する。子供なら拗ねた時に普通にする仕草だと思うのだけれど、それがどうして男の人を誘うなんて事に繋がるのか、私の頭では理解する事ができない。
「ま、言いたくなけりゃそれでもいい。確実に外堀から埋めてやるから、覚悟しろよ」
「外堀?」
「お前の両親には既に、お前との付き合いを認めてもらってあるからな」
い、いつの間に? もしかしてさっきの会話がそれだったの? ってーか、私とのお付き合い? なんですか、なんなんですか、それは。
「て事で、昼飯をごちそうになりに行くか」
どうやら夕食までに下に降りる、つまりそれまでは私の部屋にいるという話は、両親と先生との間で交わされた冗談だったらしい。お願いだからそんなややこしい冗談はやめてください、と、心の底からお願いしてみると、
「だったら、冗談じゃなくなってもいいのか」
と顔を覗きこまれてしまい、ついでに唇をぺろりと舐められてしまった。
「な、なにをするんですかーっ!」
慌ててざざっと後退ると、先生は楽しくて仕方がないという風に、くつくつと喉を鳴らして笑っている。
「お子様相手だからな。手加減はしてやるから、安心しろ」
何をどう加減してくれるつもりなのかは知らないけれど、安心などできるはずがない。
楽しげに肩を揺らしながら部屋を出て行く先生の背中と、左手の薬指の淡い緑色の石を見比べて、少しだけ考え込む。どうやら先生と生徒の関係から、なぜだか家族公認の恋人同士に、一足飛びに進んでしまったらしい。
ようやくその事を理解した私は、口元がにやけそうになるのを堪えながら、負け惜しみのように盛大な溜息を吐いた。