9・失くしたストラップ
ついてない日は、とことんついてない。
彰人さんが亡くなって、一生分の不運が降ってきたと思っていたのに。
昨夜はあんな酷い目に遭って、今も不運に見舞われるとは。神様はずいぶんと意地悪なようだ。
「あれっ……? あれ……っ!?」
──ない。
ストラップが、ない。
出勤前に忘れ物がないか、鞄の中身をチェックしていたら……。
紐がちぎれて一部が引っかかっているだけだった。
ダイニングテーブルの上に鞄の中を全部ひっくり返すが、ない。
「……うそ……」
紐の先が無惨にほつれているのを見て、絶望する。
「姉さん、どうしたの?」
「ストラップがないの……!」
「ああ、俺があげたやつ?」
律は、思ったよりも落ち着いていた。
それが余計に、私を焦らせる。
どうしよう。たぶん昨夜、転んだ時にちぎれたんだ。
もっと大切に扱えばよかった。
だって、あれには──。
「ストラップなら、俺がまた作ってあげるよ」
律の軽い調子の言葉に、思わず焦って口をついた。
「ダメよ! 彰人さんの指輪がついてるのに!」
言った瞬間、はっとした。
律の表情が、一瞬だけ固まる。
「…………」
黙り込んでしまい、その沈黙が長く感じられた。
胸がざわつく。
(……あ)
言いすぎた。
我に返って、慌てて言葉を継ぐ。
「ご、ごめん……。でも、心当たりはあるから……探してくる」
「どこ?」
「宝堂ビルの近く。そこで転んだから……」
律は昨夜のことを思い出したのか一瞬だけ眉をしかめた。
「俺も行く」
「でも、仕事は?」
律はスマホを取り出し、ちらりと時間を確認する。
「大丈夫、まだ時間あるから」
そう言って、何でもないことのように上着を手に取った。
律がせっかく作ってくれたものなのに。
彰人さんの指輪のことばかり気にしていた。
気持ちを無下にしてしまったようで、罪悪感が募る。
(ごめんね、律……)
私は律の背中を見ながらもう一度、心の中で謝った。
早めに家を出て、二人で宝堂ビルの前の歩道でストラップを探す。
この時間はまだ人がまばらで、出勤してくる人も少ない。
今日が天気のいい日で良かった。昨夜の水たまりは、すっかり乾いていた。
「俺、こっち探すから」
「うん」
律は、私から少し離れた場所までスタスタと歩いていった。
そんな遠くに行くほど飛んだとは思えないけれど……念のため、なのだろう。律は昔から、無駄なく動くことがある。
私は足元に目を落としながら、歩道の端をゆっくりと進む。
ビルと歩道の境目にある植え込みのそばに、何かが引っかかっているのが見えた。
(あっ……!)
きらりと光るのは、彰人さんの指輪だ。
「あった!」
「あったよ!」
同時に、少し離れた場所から律の声も重なった。
「えっ?」
私の手の中にあるのは、ストラップの本体と、彰人さんの指輪。
律が拾って持ってきたのは、緑色の石の部分だった。
どうやらここも取れてしまったらしい。
「ありがとう、律」
「壊れちゃったね。俺、直すよ」
律は親切心で言ってくれたのだろう。
でも、また壊れてどこかへ行ってしまったらと思うと、首を横に振っていた。
「いいよ、指輪も戻ってきたし。それに、また直させるの悪いし──」
「ダメだよ!」
思ったより強い声にびくっと肩が跳ねて、思わず顔を上げる。
いつも穏やかな律が、こんなふうに声を荒らげることはほとんどない。
どうしたんだろう。私、何か変なこと言った?
「あ、ごめん……」
律は一瞬、言葉に詰まったように視線を逸らした。
「これ、お守りだと思ってたからさ……。今度は切れないようにするから」
そこまで言うなら、と律にストラップを渡した。
鞄の中に入れるところを見届けると、律は鞄の肩紐をぎゅっと握った。
「……今度は……」
「……うん?」
聞き返した私の声に、律は応えなかった。
それにしても、律があんな大声出すなんて。
きっと心配してくれただけ。律は昔からそうだ。少し過剰なくらい、面倒見がいい。
それなのに、胸の奥に小さな棘みたいなものが引っかかる。
「どうしたの?」
顔を上げた律は、いつもの顔をしていた。
柔らかくて、穏やかで、私が知っている義弟の表情。
「ううん、なんでもない」
本当に、なんでもない。
そう言い聞かせて、私は律が仕事に向かう背中を見送った。
違和感は歩道の上にあった水たまりみたいに、もう消えているはずだった。
*
夜、布団に入っても今朝のことが頭から離れなかった。
律が声を荒らげたこと。あの一瞬、言葉に詰まった顔。
考えすぎだと分かっている。律は昔から、私のことになると少し必死になるだけだ。
それなのに、胸の奥に引っかかった棘が、まだ抜けきらない。
謝ったほうがいいのかもしれない。
今朝のダイニングでのことも、ストラップを探していた時のことも……。
気づけば、廊下に立っていた。
謝ろうと決めてここまで来たはずなのに、いざ扉の前に立つと、どう切り出せばいいのかわからなくなる。
ノックするべきか、もう少し考えるべきか。
律の部屋の前で深呼吸する。
(もう、仕事から戻ってるよね……)
意を決してノックしようとすると、中からぼそぼそと声が聞こえた。
起きている、と安心したのも束の間。耳に届いた言葉の調子に違和感を覚え、ノックするのをためらわれた。まるで、誰かを威圧するような声。いつもの穏やかな律の声ではない。
(え……? 律、だよね……?)
こっそりと、少しだけ扉を開けて、思わず聞き耳を立てる。
「……金の話は後にしろ」
部屋の奥から、そんな律の声はっきりと聞こえた。
仕事の話だろうかと、息を呑んで様子を窺う。
どうやら誰かと電話で話しているようだけど、さすがに相手の声までは聞こえない。
間を置いて、再び律の声が届く。
「……兄さんの話はするな」
彰人さんの話……? と思った瞬間、律の口から信じられない言葉が吐き出された。
「──反吐が出る」
思わず声が出そうになり、慌てて口を押さえる。
全身の血が一瞬で引いたような感覚だった。
しばらく会話を聞いていたが、その後も短く言葉を交わしたのち、通話を切ったようだ。
私は、そっと音を立てないように扉を閉め、足元がふらつくのを感じながら自室へ戻った。
今のは、どういうこと……?
お金の話。
彰人さんの話。
そして「反吐が出る」という言葉。
頭の中で何度も繰り返してみても、どこにも納得のいく答えは出ない。
やっぱり彰人さんの死に律が関係しているの?
……そんなはずないと、信じたいのに。
私は、震えながら布団の中に潜り込んだ。
鼓動がうるさくて、息がうまく吸えない。
暗闇の中で、律の声がこだまする。
その声は、私の知っている義弟のものではなかった。




