7・俺がいるよ
朝、コーヒーの香りで目が覚める。
それで、内村さんが来たんだ、といつも気配を感じている。
安心感に包まれながら寝返りをうつと、目の前に綺麗な寝顔があった。
「ひゃ……っ!」
悲鳴をあげそうになり、思わず口を塞ぐ。
そうだった、昨日、律と一緒に寝るって約束してしまったんだった……。
昨夜は疲れていたからお互いすぐに寝てしまったけれど、改めて間近で律の寝顔を見ると綺麗で見惚れてしまうくらいだ。彰人さんと、似てる……かな?
(まつ毛、長……)
私のシングルベッドに無理やり大人二人が横になれば、必然と距離は近くなってしまうわけで……。あまりの至近距離に、どきんと胸が鳴る。
いや、いやいやいや。小さい頃はよく一緒に寝ていたじゃないの。
義弟にときめくとか、ありえないから。
自分の反応に驚いて、慌てて枕に顔をうずめた。
律を、彰人さんと挟んで一緒に寝ていた頃を思い出す。
「ん……」
律が少しだけ動き、明るい色の前髪がはらりと流れる。
我に返って少しでも距離を取ろうとした、そのときだった。
律の腕が、私の背中に回ってきて──
「え、ちょ、ちょっと……!?」
ぎゅむ、と強めに抱き寄せられた。
驚きのあまり変な声が漏れそうになるのを、なんとか飲み込む。
律は目を覚ましている気配もなく、穏やかに呼吸している。
寝息が、私の首元にふわりと触れた。
くすぐったくて、思わず肩が跳ねる。
「律、ねえ、起きて……」
「……ん……ねえ……さ……」
完全に寝ぼけてる。
抱きしめられている体勢のまま身動きできず、どうしていいかわからない。
「起きてってば……!」
「んー……」
呼びかけても、起きる気配がない。
けれど、抱きしめる力が少し強くなった気がした。
律はただ私の肩に顎を寄せ、安心したように息を吐く。
(小さい頃も、そうだったな……)
私や彰人さんの服を掴んで離れなくて、彰人さんと二人で笑って、「しょうがないなぁ」って言っていた、あの頃。懐かしさで胸がきゅっとなる。
でも今は、あの頃とは違う。もう「しょうがない」で済む年齢じゃない。
律の鼻が、すり……と首筋を撫でる。
「ひゃ……っ!」
冷たさとくすぐったさで、今度こそ声が出てしまった。
「……律っ!」
名前を呼ぶと、律のまつ毛がわずかに揺れた。
ゆっくりと、薄く目を開ける。
「……あれ? ……姉さん?」
今度こそ、起きてくれると思ったが、
「……なんだ、夢か」
そう言って、今度は私の肩に顔をうずめる。
「もぉっ! 夢じゃないってば!」
意識が戻る気配と同時に、私の腰に回っている腕も自覚したらしい。
「……え?」
ゆっくりと顔を上げ、ぽかんとした顔。
そして、次の瞬間。
「……っ、あっ、ご、ごめん!」
慌てて飛び起きようとした律が、布団にもつれて余計に身体が密着してしまう。
「ちょ、ちょっと、落ち着いて!」
思わず私も起き上がろうと身をよじった瞬間、二人の額がごつんとぶつかった。
「いっ……!」
「痛っ……!」
お互い同時に額を押さえる。
「……ほんとだ、夢じゃない」
律は、涙目になりながら苦笑した。
*
朝食の時間。
ダイニングでは、内村さんがいつものように手際よく料理を並べてくれていた。
エプロンをつけて家事をしている姿を見ると、亡くなった母を思い出して胸があたたかくなる。
内村さんは、平日毎日朝早くに宝堂家にやってきて、朝食を作ってくれる。洗濯や掃除などの基本的な家事を済ませると、夕食を作り置きして、金曜日には休日の分まで冷蔵庫に入れてくれている。それが二十年以上続いているのだから、尊敬しかない。風邪をひいたなど、一度も聞いたことがない。
(……いつも私たちのために、全部やってくれてるんだよね)
何か、ちゃんと感謝を伝えたい。
そんな気持ちが芽生えた。
朝食を終え食器を下げていると、律がずいぶんとゆっくりとしている。
いつもは急いで家を出ていくのに。
「あれ? 律、今日はお休み?」
「うん。夜に配信があるだけ」
「そ、っか」
タイミング的にも今なら話せそうだ。
律も、何かを感じ取ってくれたのか、「どうしたの?」と訊いてくる。
「あ、あのね……相談が、あるんだけど」
「なに?」
「内村さんに、なにか感謝の気持ちを伝えたいんだけど……」
「それなら、今言えばいいじゃん?」
視線を向けると、内村さんが洗濯物をランドリー室に持っていくところだった。
「そうじゃなくって! ほら、内村さんって、私たちにとって母親みたいなものでしょ? だから、お休みをあげるとか、料理を代わってあげるとか……」
「……母の日、みたいな?」
「そう!」
私は、母の記憶は少しだけあるけれど、律はどうなんだろう?
律のお母さんは、すごく小さい頃に亡くなったと聞いている。
とにかく善は急げ。ランドリー室に入った内村さんに声をかける。
「そんな……休むなんて、どうしたら……」と戸惑いながらも、どこか嬉しそうな内村さんを休ませ、私と律で洗濯をしてから、夕飯を作ることになった。
彰人さんが亡くなってから、あまり使わなくなったエプロン。
久しぶりに身につけると、なんだか新鮮な気持ちになった。
「新婚時代を思い出す?」
「そ、そうね」
律のからかうような声に、曖昧に笑ってごまかす。
心の片隅に置いていた記憶が、揺れた。
余計なことは考えないでおこうと、包丁で玉ねぎを刻む。
律もいつの間にかエプロンを着て、楽しそうに鼻歌を歌いながら鍋を取り出してくれていた。
「いいなー兄さんは。姉さんのエプロン姿を毎日見られたわけでしょ?」
軽い調子のその一言に、指先がわずかに止まる。
「そんなことないわよ。彰人さん、帰りが遅い日の方が多かったから」
本当のことだった。
それ以上を続ける気にはなれなくて、私は黙って視線を落とす。
けれど、思っていたより動揺していたみたいで、包丁がわずかにずれた。
「いたっ……」
「えっ? 切ったの!?」
律がほとんど反射で飛んできて、手を掴んだ。
そのまま、ほんの数センチの距離で覗き込む。
「見せて。血が……」
「だ、だいじょ──」
言おうとした瞬間、律が指を持ち上げて、口元へ持っていく。
本能のように動きかけたその仕草に、慌てて手を引いた。
「ちょっ、ちょっと、なにするの!?」
「え、だって昔、姉さんが『舐めれば治る』って」
「いつの話よ!? だめよ、逆にばい菌が入るから!」
「ちぇーっ」
けれど、律はまだ心配そうに私の手を包んだままだった。
その距離の近さに気づいたのは、ほとんど同時だったと思う。
「…………」
「…………」
言葉が途切れ、ほんの一瞬、間が落ちる。
息が、触れそうなほど近い。
まずいな、と思った。
このままだと、何かを意識してしまいそうで。
「……と、とりあえず、水で流すねっ!」
半ば逃げるように蛇口の方へ向かうと、すぐ後ろから律がついてくる。
「待って、俺がやる。ほら動かさないで」
有無を言わせない調子で、手を取られた。
水で傷を洗い絆創膏を貼るまで、律は丁寧に手当てしてくれた。
……昔から、こういうところは変わらない。
「……気をつけてよ。姉さんが怪我したら困る」
「う、うん……ごめん」
絆創膏を貼り終えても、律はすぐに手を離さなかった。
見上げると、視線が一瞬だけ合って逸らしてしまう。
「……あのさ」
「ん?」
律の心配そうな顔を見て、なるべく言葉を選ぶ。
「手、もう離して?」
「あっ……」
慌てたように、律がぱっと手を離す。
その拍子に見えた耳が、うっすら赤い気がした。
そして、二人で協力して作ったシチューが出来上がった。
夕飯の時間になり、内村さんは「まあ」と目を丸くしてから、嬉しそうに食べてくれた。
何度も頷きながら「懐かしい味ね」と言ってくれて、それだけで心があたたかくなった。
律も、おいしそうに食べてくれている。三人で食卓を囲んで、久々に家族の食事ができた気がする。
やがて内村さんは帰っていった。
仕事で遅くなる養父の分は、ラップをして冷蔵庫に入れておいた。
二人で食器を下げていると、律がぽつりと言った。
「今日のシチュー、兄さんが好きだったやつだよね」
その声は、少しだけ寂しそうで。
振り返ると、律はシンクの縁に寄りかかり、どこか所在なさそうな表情をしていた。
「……うん」
彰人さんが亡くなってから、このメニューを作ることはなかった。
そもそも家に戻ってきてからは、内村さんが全部やってくれていたし、私自身、料理をする余裕もなかった。
「兄さんは、もういないのに……?」
ぽつりと落とされた律の言葉に、息が止まった。
返す言葉が見つからず、私は思わず視線を落とす。
しまった、という顔をした律が、慌てて口を開きかける。
「……ごめ──」
「律も好きでしょっ?」
被せるように言って、私は無理やり笑顔を作った。
あまり考えないように軽く、いつも通りみたいに。
「う、ん……。好き……」
律の言葉に私は小さく頷いて、返事の代わりにもう一度だけ笑う。
そうしないと胸の奥に溜まったものが溢れてしまいそうで。
ごまかすように振り返って、洗い物を始める。
蛇口をひねると、水の音が一気に広がった。
食器同士が触れ合って、かちゃりと音を立てる。
それに紛れるように、私は小さくため息をついた。
大丈夫。泣いてなんか、いない。
ただ、指先が少しだけ冷たくて。
水の温度がわからなくなっただけだ。
律が貼ってくれた絆創膏が剥がれかけている。
直そうと手を止めた瞬間、背中にぬくもりが触れた。
律の手が、後ろからそっと伸びてきて、抱きしめられた。
「……俺がいるよ」
耳元で静かな声が響いた。
「ありがと、律」
反射的に、そう返していた。
慰めてくれているのだと思ったし、その言葉がありがたかったのも本当だ。
「俺が……いるから……」
もう一度、言葉が重ねられる。
「律……?」
呼びかけると、律は答えなかった。
抱きしめ方が、どこか不安そうで。
……寂しいのは、私だけじゃない。
彰人さんがいなくなったこの家で、律もまた、同じ空白を抱えているのかもしれない。
そう思うと、無理に振りほどくことができなかった。
私は洗い物を続けながら、律の腕の中にいる自分をそのままにしていた。
その温もりが、今はただ少しだけ、切なかった。




