5・まだ、秘密
カーナビに入力して案内された場所は、居酒屋風の創作和食のお店だった。
個室に通され、改めて先生に日記を読んでもらう。店員の元気な声や、グラスで乾杯する音が、喧騒として店いっぱいに広がっている。騒がしくて話どころではないかもと思ったけれど、逆にこの喧騒が私たちの声をかき消してくれて、気兼ねなく込み入った話ができた。
料理を注文して待っている間、軽井沢さんはテーブルの上に日記を置く。
「……菜月ちゃんは、これを見てどう思った?」
「考えたくはないですが……。彰人さんは事故死ではなかったのかも、と……。彰人さんは、生前いつも言っていたんです。『弁護士という職業は、恨まれることもある』って……だけど……」
うつむき加減でテーブルの下、膝の上でぎゅっと手を握る。
「律が関与しているかも、なんて、考えたくないんです……。私、どうしたら……」
ようやく吐き出せた自分の気持ちに、涙腺がゆるむ。
言葉が途切れると、頭の上にふわりと何かが乗った。
軽井沢さんの、手のひらだった。
「菜月ちゃん。俺の考えを言おうか」
顔を上げると、彼は不安を包んでくれるように微笑んでいた。
「正直、警察が事故死って言ってるなら、放っておくのもひとつの手だと思う」
「……そう、ですか」
「でもな。もし菜月ちゃんの勘が当たってて、ほんとに事故じゃなかったとしたら──」
「なかったと、したら……?」
「面倒だよ。宝堂家ってだけで恨みを買うこともあるから」
「え……?」
耳を疑うような言葉に、心臓が、ドクンと一つ大きく鳴った。
「つまり、狙われてるのは彰人くんだけじゃないかもってこと」
私や律、それにお父様──宝堂家、全員が……?
背筋がぞわりとした。
なぜ、その可能性を今まで考えなかったのだろう。
宝堂グループは、世界中に名を知られる巨大企業。だからこそ、敵もまた──数え切れないほどいるのかもしれない。軽井沢さんの言うとおりだ。彰人さんと結婚して得た幸せに、私は甘えていた。見たくない現実から、意図的に目を逸らしていたのかもしれない。
「って、ごめんごめん! 怖がらせたかったわけじゃないんだ。でもまあ、用心するのに越したことはないと思うよ」
そう言いながら、軽井沢さんは両手をひらひらさせ、明るく振る舞ってくれた。
「でも、宝堂家全員が狙われているなら、この言葉の意味は……?」
日記の最後に書かれた、例の文言を見ながら、再び考える。
私はこれを見て、一瞬、律を疑ってしまった。けれど──
「……そうか。そうなると、意味は変わってくるな……。いや、俺はてっきり、律くんに菜月ちゃんを取られたくなくて『気をつけろ』って言ってるものとばかり」
「んぇっ!?」
変な声が出てしまった。
「……とすると、これはもしかして、次に狙われるのは律くんであることを示しているのか……? いや、でもな……」
軽井沢さんは、腕を組んで考え込んでしまう。
そのうち注文した料理が運ばれてきた。
食べている間も、軽井沢さんは「うーん」とか、「でもなぁ……」とか、独り言のように言っている。
私は、軽井沢さんのさっきの言葉が気になって、そればかり考えてしまう。
だって、律をそんな風に意識したことなんて……なかった。
いつまでもかわいい義弟で、ちょっといたずらが過ぎるだけで……。
『俺は、いつまで義弟でいればいい?』
あの時の、律の言葉が脳裏をよぎって、かぶりを振る。
あれは、あの言葉の意味は、やっぱりそうなのだろうか。
(……考えすぎよね)
きっと、律のいつものいたずらだ。からかわれただけ。
そう自問しながらも、食事はいつのまにか終わりに近づいていた。
お皿の上に残った最後のひと口を運び、私はようやく軽井沢さんと視線を交わす。
彼はナプキンで口を拭いながら、何かを思いついたように声を弾ませた。
「これ、保科くんにも見てもらおうか?」
「なぜ保科さんに?」
「いやぁ、彼なら喜んで協力してくれると思って」
軽井沢さんは、誤魔化すように頭の後ろをかく。彼はおそらく、保科さんの気持ちを知っている。
先日の、保科さんとの食事を思い出す。
結婚指輪をしていた左手に、手を重ねられた。
あれは多分──そういうことだ。
「いえ……今はまだ、二人だけの秘密にしておきたいんです」
自分や律に気持ちが向いている人には、まだ相談できない。
しない方がいいだろう。
もっと客観的に見てくれる人の意見がほしかった。
だから、軽井沢さんの帰還は、正直ありがたかった。
しかし、当の彼はというと……。
「……ふたりだけの、か。いいね、それ」
冗談まじりに笑う。
本当に、こういうところは昔から変わっていない。
「……先生、冗談やめてください」
「ごめんごめん」
軽く謝りながらも、口元には笑みが残っていた。
やっぱり、本気なのか冗談なのか、つかみどころがない人だ。
「菜月ちゃん、これ、しばらく借りていいかな?」
「いいですけど……絶対にまだ誰にも見せないでくださいね? お父様にだって秘密です」
「本当は警察に調べてもらった方がいいんだろうけど……」
「だめです」
「だよなぁ」
律の名前が書いてある以上、律が疑われてしまう。
万が一、宝堂の人間が事件に関係があると報じられれば、世間の格好の的となってしまう。宝堂グループの信頼は揺らぎ、そうなれば経済そのものに影響が及ぶかもしれない。
それだけは避けなければならなかった。
軽井沢さんの鞄に日記が仕舞われるのを見ながら、私はこれからのことに一抹の不安を抱いていた。
***
夜、港区の高層マンションの一室。
リビングの照明は仄暗く、窓の向こうには眠らない街の灯が滲んでいた。
「律〜〜。待ってたわよ」
甘く湿った声に、いつもながら吐き気がする。
ロングヘアの女は、ソファに横たわるようにして片脚を高く組んでいた。
黒のキャミソールに、艶めく肌。黒い布が太ももをわずかに隠すだけで、その下から伸びる白い脚線が際立って見えた。
年齢不詳の美貌。華奢なのに曲線的で、どこか肉感のある身体つき。
そして何より、笑みの奥に覗く底なしの欲──。
律は無言で近づき、茶封筒を差し出した。
「……ほら、今月の分」
「ありがと〜〜っ。ほんっとうに、律はいい子ね」
指先が封筒に触れたのと同時に、女の白い手が律の手の甲を撫でるように滑った。
「さわるな」
否定の声に、女はわざとらしく口を尖らせる。
「あん! なによぉ。アタシにそんな態度取っていいわけぇ?」
律は奥歯を噛みしめた。こいつはわかっていてやっている。
女は、自分が律にとって〝切れない鎖〟であることを、心から楽しんでいた。
睨み返しても意味はないとわかっている。
この部屋では、理屈も正しさも役に立たない。
「そうだ。今月、もうちょっと足りないのよねぇ……」
「もう、充分だろ。これ以上は──」
「お姉さんがどうなってもいいの?」
くっきりとした紅を引かれた唇が、嫌なほど動く。
その一言が、律の動きを封じる。
皮膚の下に、冷たい血が逆流するような感覚。
女の笑みは、まるでそれを計算していたかのように深くなった。
この女の存在は、ただの足枷でしかない。
毒に満ちた女の口から、菜月の名前が出ることすら耐えられない。
女はソファにもたれながら、脚を組みかえる。
その動きすらも腹が立つ。
律は拳を握りしめ、視線を逸らした。
その足元に、何も知らない菜月の未来が、ゆっくりと絡め取られていくようだった。




