4・協力者
待ち合わせの場所である懐石料理屋に入ると、出汁の香りがふわりと漂ってきた。
こういう店に来るのは、どれくらいぶりだろう。私には少し場違いに思えるけれど、今夜の相手は、そういう場所が似合う人だった。
奥の半個室に案内されると、御影先生はもう席についていた。
仕立てのいいスーツに身を包み、背筋を伸ばして座っている。
こちらの姿を確認すると、先生はわずかに口元を緩めた。
「やあ、菜月くん。忙しいところ、悪いね」
「いえ……こちらこそ、お誘いいただいて恐縮です」
先生の向かいに、緊張しながら腰を下ろす。
彰人さんと一緒に何度か同席したことはあるが、こうして一対一で向き合うのは初めてだった。
御影昌志先生──。
御影法律事務所の所長であり、宝堂グループとは長い付き合いのある敏腕弁護士だ。
その一方で、所内では派閥争いが絶えず、御影先生はいわゆる『御影派』の筆頭。
顧問弁護士である軽井沢先生とは、仕事上こそ連携しているものの、考え方や人脈はまるで正反対だと聞いている。
彰人さんも私も、どちらかといえば軽井沢先生寄りだった。
だから今日のこの食事の誘いには、少しだけ戸惑いがあった。でも、葬儀のときにも色々と気遣ってくださった方だ。そう簡単には断れない。
料理が置かれ軽く乾杯した後、御影先生が切り出した。
「最近の宝堂グループは、どうだね」
私は、手にした箸を持ったまま一瞬動けなくなった。
「……あまり詳しいことは……。私は、内部までは関与しておりませんので」
言葉を濁すと、先生は笑みを崩さずに盃を口に運んだ。
「彰人くんが亡くなってから、大変だろう。彼は跡継ぎだったし、かなり重要なポジションにいたから」
心配するような口ぶり。でも、それをそのまま善意として受け取れない自分がいた。
(もしかして、探られてる……?)
葬儀のときも、確かに気を遣ってくれた。けれど、今日のこの雰囲気は少し違う。
彰人さんがいなくなった今、御影先生は私を引き込もうとしているのかもしれない。
そんな気配を、私はかすかに感じ取っていた。
断りきれないお酒を、誤魔化すように舐める。
逆に御影先生を利用して、彰人さんの日記や律のことを相談するのはどうだろうか?
けれど、御影先生は律と面識がない。葬儀の時に顔を合わせたことがある程度だ。
できれば、昔から彰人さんや律のことをよく知っていて、気兼ねなく相談できる相手がいい。
でも、そんな相手なんて……。
そう思っていた矢先、御影先生がスマートフォンをちらりと見て、思い出したように言った。
「そうそう。軽井沢くんが明日、日本に帰ってくるそうだよ」
「軽井沢先生が?」
そうか、海外の案件をやっと終えたんだ。
長らく日本を離れていた軽井沢さんが戻ってくる。それだけで、心の中に張りつめていた糸がふっとほどけるような気がした。
「残念だな。軽井沢くんがいない間に、少しでも君の気を引こうとしていたんだが」
本気とも冗談とも取れない言いぶりに、私は苦笑を持って返した。
御影先生は、スマートフォンの画面を数回タップしたかと思うと、「チッ」と小さく舌打ちする。
「……保科くんは空いてないか。菜月くん、すまないが、明日彼を空港まで迎えに行ってくれないか」
「私が、ですか?」
「不本意だが、君しかスケジュールが空いてなくてな。頼んだよ」
「は、はい……」
そうだ、軽井沢さんなら……。
お父様の友人であるあの人なら、律のことも、彰人さんのことも、宝堂家の内情もすべて知っている。
なにより、嘘をつく人じゃない。
(明日……相談してみよう)
御影先生の言葉を上の空で聞き流しながら、懐石料理に箸を伸ばす。
美味しいはずなのに、緊張と明日のことで味はあまりわからなかった。
でも、軽井沢さんならきっと、私の疑念を笑ったりしない。
一人では抱えきれなかった問題に、ようやく一筋の光が差し込んだ気がした。
*
成田空港、国際線到着口。午後三時。
人混みの向こうから姿を現した軽井沢さんは、数年の海外勤務を経ても、まったく変わらない穏やかな表情だった。スーツケースを引いて、こちらへ向かってくる。
「やあ、菜月ちゃん。わざわざありがとう。道、混まなかったかい?」
「いえ、大丈夫です。先生こそ、お疲れでは?」
そう言うと、軽井沢さんは首を傾げて「うーーん」と唸った。
「やっぱり慣れないなぁ。菜月ちゃんの〝先生〟呼び」
「何言ってるんですか。私が御影事務所に入ってから、何年経ったと思ってるんですか?」
軽井沢俊之──宝堂家の顧問弁護士。
養父・龍樹の旧友であり、国際法務の世界では名を馳せる存在だ。
軽井沢さんは、私と彰人さんの結婚式にも出席してもらっている。そのあと、海外にある宝堂グループの問題解決のために単身で出張していた。約三年間、彼は向こうの弁護士たちと共に問題解決にあたり、今ようやく帰って来れたのだ。
私にとっては父のような人だけど、どこかいつも「他人」でいてくれる距離感が、ありがたかった。しかし、当の本人は口を開けば──。
「前みたいに、〝おじさま〟って呼んでくれていいのに〜」
口を尖らせて、拗ねたフリをする。こういうところは、相変わらずだった。
「呼びません。先生方は、すべて平等に接します」
「はいはい。菜月ちゃんは真面目だなぁ」
こんなやりとりも久しぶりで、微笑ましくなった。
車を出して高速に乗ると、走行音が静かに流れる。
しばらく走った頃、軽井沢さんが運転する私をチラリと見て言った。
「菜月ちゃん……大丈夫かい?」
心配する風、という感じでもなく、ただ沈黙に耐えきれなくなったように。
軽井沢さんの口ぶりは、優しい感じがした。
もう、その言葉を周りから何度言われただろうか。
彰人さんのことに関しては、くよくよしていられない。
正直言えば、もう放っておいてほしい。
けれど、彼に切り出すいいきっかけになった。
「軽井沢先生……実は、少し相談があるんです」
高速を降りて信号待ちで車が止まる。私はカバンの中から、一冊の冊子を取り出した。
彰人さんの日記だ。信号が青になりかけて、無言で軽井沢さんの前に差し出す。
「……これは?」
「彰人さんの日記です」
軽井沢さんは眉をわずかに寄せた。
「日記……?」
「まだ、私しか見ていません。警察にも、律にも……父にも、話していないんです」
しばらくの沈黙のあと、軽井沢さんは日記を開く。
そして、数ページほど読んだところで、小さく息を呑んだのがわかった。
日記を持つ手が、わずかに震えている。
「これは……」
「な、何か感じますか?」
軽井沢さんの鋭い視点から、何か見つかるかもしれない。
期待と不安が入り混じる。
「うん……彰人くんが、いかに菜月ちゃんを愛しているかわかったよ。ごちそうさま」
そう言いながら、日記をパタンと閉じた。
「そ、そこじゃありませんっ!」
「いてっ!」
運転中なので前を見ながら、軽井沢さんの膝をぺちんと叩く。
ああ、もう……。
軽井沢さんは凄腕の弁護士なのに、時々こうやってふざけてくるから困る。
「私が気になっているのは、最後のページなんです……」
「……亡くなった日の前日に、普通に書いているね」
「その、先です」
「先……?」
軽井沢さんは、少し首を傾げながら、再びページをめくる。
そこには、あの時と変わらず、あの文字が書かれていた。
《律には気をつけろ》
一瞬、彼の息を呑んだような気配を感じ、前方に気をつけながら、ちらりと横目で見る。
顎に手を当てて考えてはいるが、さすがは軽井沢さんというか。
私と違って冷静に見える。
「う、ん……なるほど」
「先生は、どう思いますか?」
「普通に考えれば、言葉通りの意味だと思うけど」
「なんというか……内容ではなくて……」
「どうしてこんなことを書いたのか?」
「そう! それです! しかもわざわざ別のページに!」
軽井沢さんは思索の迷路に入り込んでいるのか、膝の上で持つ日記の角を指先で叩いていた。
「菜月ちゃん、時間はあるのかい?」
「はい、今日は直帰してもいいって」
「じゃあ、どこかで食事でもして話そうか。内容が内容だから、個室があるところがいいな〜」
軽井沢さんは、普段のように軽いノリでそう言って、スマートフォンでお店を検索し始めた。




