3・外せない結婚指輪
御影法律事務所──宝堂グループのビル内にある、落ち着いた雰囲気の法律事務所。所長の御影先生をはじめ、数名の弁護士が在籍し、宝堂グループの顧問事務所となっている。中でも彰人さんは、宝堂グループの企業内弁護士として働いていた。
四十九日が過ぎた今も、私はまだ、彰人さんの面影を追いかけてしまう。
ここを辞めようか悩んだこともある。でも私は、彰人さんが遺した日記にあった、あの違和感の正体を突き止めるまでは、逃げないと決めたのだ。
だけど、私一人の力では限界がある。
誰かに相談できたらいいのに……そんな思いが、胸をよぎる。
「おはようございます」
事務所の扉を開けると、二人の声が返ってきた。
「おはようございます、菜月さん」
「菜月ちゃん、おはよう」
声の主は、同じ事務所で働く保科湊也さんと三浦真子さん。
保科さんは、彰人さんの先輩にあたるベテラン弁護士だ。朗らかで、誰にでも分け隔てなく優しい。今は、彰人さんが生前に請け負っていた案件を、他の弁護士たちと手分けして処理していて、とても忙しくしている。
真子さんは、保科さんの助手を務めるパラリーガル。
パラリーガルとは、法律に関する専門知識を持ち、弁護士の指示のもとで調査や資料作成を行う、いわば〝縁の下の力持ち〟のような存在だ。彼女の丁寧で的確な仕事ぶりは、事務所でも一目置かれている。
このふたりなら……何か話せるかもしれない。
そう思っていると、真子さんの方から話しかけてきた。
「あれ? 菜月ちゃん。そのストラップかわいい。どうしたの?」
私のバッグの持ち手に揺れているのを見つめて言った。
「あ、今朝、律にもらって──」
「えっ!? リッくんに!?」
真子さんは、大げさなほどガタッと椅子を揺らす。
「お守り代わりに作ってくれたみたいで。ほんと、心配しすぎですよね」
苦笑しながら言うと、真子さんはさらに身を乗り出した。
「しかも手作り!?」
真子さんの勢いに、私は思わず一歩引く。
「菜月ちゃん! それ、いくらで譲ってくれる!?」
「ええっ!?」
そんな私たちの様子を見て、保科さんがくすくすと笑う。
「真子さん、朝から全開だね」
真子さんは「だってぇ!」と地団駄を踏んだ。
「リッくんの手作りですよ!? むしろタダで持ってる方が罪です!」
『リッくん』とは、律のことだ。
真子さんは律の大ファンで、彼が配信する動画も欠かさずチェックしているほど。
彼女の姿を見て、改めて「推し」という言葉の威力を思い知る。
そんな空気を切るように、保科さんがパン、と手を叩いた。
「……ところで。二人とも、そろそろみんなで飲みに行きませんか?」
「あ……いいですね!」
正直、そんな気分にはなれなかったけれど、彰人さんが亡くなって以来みんなで集まる事も自粛していた。気を遣って提案してくれたのだろう。
真子さんへ視線を送るが、彼女は少しバツが悪そうに頭をかいた。
「あ、あぁ〜……私、今日はいいや。二人で行ってきて」
「え、でも……」
みんなで一緒の方が楽しいと思ったのだけれど、真子さんは小さく笑って首を横に振る。
「ごめん、用事があるのよ」
「用事って……」
「やだ、訊かないでよ! リッくんのライブ放送に決まってるじゃない!」
そういえば、今朝本人も「配信やるから」って言っていたことを思い出す。
どうやら今夜、真子さんにとっては私たちと出かけるよりも、画面の向こうの律の方が何倍も大切らしい。
保科さんと二人きりなのは気まずいけれど、律が関わっているかもしれない日記のことを相談するなら、保科さんだけの方がいいかもしれない、と思い始めた。
*
仕事が終わって向かったのは、事務所近くの落ち着いたレストランだった。
白いテーブルクロスに、控えめな灯り。周囲の席からは静かな笑い声が聞こえてくる。
「なにか、飲みますか?」
メニューを差し出す保科さんに、私は小さく手を振る。
「私、お酒はあまり……」
「少しだけ、付き合ってくれませんか?」
優しい声でお願いされ、私はちょっと迷って承諾した。
「じゃあ、少しだけ」
運ばれてきたグラスに口をつけると、甘さの奥にわずかな苦味を感じた。
じんわりと喉を通って、すぐに頬が熱くなる。
食事を終えて談笑していると、保科さんの目線がテーブルの上に落ちた。
「……まだ、されてるんですね」
「え?」
「結婚指輪」
言われて、左手を見る。私の薬指には、今も彰人さんと交換した指輪がある。
「あ……ああ。そうですね。おかしい……でしょうか? 亡くなった夫をずっと想い続けているなんて」
気を遣わせないように、軽い感じで言ったつもりだったけれど、声が少し震えてしまった気がする。
「そんなことは……」
保科さんが言いかけた言葉を、私は予想していた。
誰かに、そう言ってほしかっただけなのかもしれない。
テーブルの上で、保科さんの手が私の左手に、そっと重なる。
驚いて、わずかに目を見開いた。
「あなたはもう、自由になってもいいんじゃないでしょうか?」
胸が痛くなった。寂しさと、悲しさと、ほんの少しの怒りが湧く。
混ざり合った感情が波のように押し寄せて、私は咄嗟に手を引いた。
「……保科さんも、お父様と同じことを言うんですね」
「龍樹さんと……?」
指輪をしている左手を、右手で包み込むようにして、ぎゅっと握る。
「これは、私が自由に決めた道なんです。ずっと彰人さんの妻でいると。それじゃ、ダメなんでしょうか……?」
声が震えた。涙がにじむのを止められなかった。
保科さんは、座ったまま深く頭を下げた。
「すみません……軽率でした」
謝られて、私はただ、黙って首を横に振るしかなかった。
店を出た後、夜風に当たるとほんの少し酔いが回ってきた。
ヒールのせいかお酒のせいか、足元がふらついて「あっ」と声が出そうになった。
「菜月さん!」
保科さんの声と同時に、腕が伸びてくる。
でも、その腕が私に届く寸前、別の力が私の肩をぐっと掴んだ。
「大丈夫? 姉さん」
「律……!」
「律くん!?」
目の前にいたのは、紛れもなく義弟の律だった。でも、いつもの律ではなく、パーカーのフードを深くかぶり、伊達メガネをかけている。
「どうしてここに……? 配信があるって言ってたじゃない」
「配信はもう終わったよ。ジムに行こうとしたら、姉さんの姿が見えたから」
あっけらかんとした声で、ビルの上を指差す。
そこには、スポーツジムの看板が光っていた。
私は思わず目を瞬く。
「保科さん、姉がお世話になっています。……でも、あとは俺と一緒に帰るので、大丈夫ですよ」
私の肩に触れていた律の手の力が、ぐっと強くなった気がした。
保科さんは一瞬だけ戸惑った顔をしたけれど、すぐに頷いた。
「あ、ああ……律くんが一緒なら安心だ」
律の肩越しに見える保科さんの目が、何か言いたげに揺れた気がした。
けれど、私はその意味を確かめる余裕もなく、律に支えられながら歩き出した。
保科さんと別れるや否や、律は私の手をぐいっと取って、まるで逃げるように歩き出した。
足早というより、半ば引っ張られるような勢いだ。
「ちょ、ちょっと待って律! 早いってば……!」
小走りになりながら、やっと声をかけると、律は足を緩めずにぽつりと呟いた。
「姉さん、危機感なさすぎ」
「……は?」
思わず立ち止まりそうになった。けれど、手を離してくれない律に引っ張られる形で、私はそのまま歩き続ける。
「なによそれ。保科さんとは、別にそんなんじゃないし」
「でもお酒、飲んだでしょ?」
「す、少しだけよ。ほんの一口……」
律の背中越しに言い訳がましく呟くと、彼の歩みがぴたりと止まった。私はその背にぶつかりそうになって、あわてて足を止める。
「姉さん……自分が酒癖悪いの、わかってる?」
ぴしゃりと言われ、言葉に詰まる。
……そう、私はお酒を飲むと、どうやら絡み上戸になるらしい。甘えた声で誰かに寄りかかったり、泣き上戸にもなったりするらしい──というのを、数年前に痛いほど思い知って以来、お酒はなるべく控えるようにしていた。
「わ、わかってるわよ……。だから少しだけにしたんじゃない……」
精一杯の抗弁をしても、律の背中は拗ねた子どものように、わかりやすく怒っている。普段はどこか達観したようなところのある律が、こうして感情をむき出しにすることを、私は義姉として嬉しいと思っていた。けれど、気のせいかもしれないけど、彰人さんが亡くなってから律はなんとなく私に対して、過保護な気がする──。
***
律の部屋は、宝堂家の二階の一番奥にある。
スタイリッシュなインテリアに囲まれた空間の奥、壁際には大型のコルクボードが設置されていた。
「あーあ。ついに保科さんが動いたか……」
律はキャスター付きの回転椅子に座って気だるそうに呟きながら、手に持ったダーツの矢を軽く振る。コルクボードには数枚の写真がピンで留められている。その中の一枚──保科の顔写真めがけて、ダーツの矢を鋭く投げた。
グスッ、と音を立てて、矢が保科の眉間を正確に射抜く。
「あの人、昔から姉さんのこと好きだったよね。バレバレだったもん」
椅子をくるくる回しながら、軽く笑った。愉快というよりも、やや苛立ち混じりの笑みだった。
「どうやって姉さんを守ろうかな〜……」
呟く声は軽い調子を装っていたが、瞳の奥は不自然なほど冴えていた。指先でマウスをクリックすると、机の上の三台のモニターが一斉に明るくなる。
そこには、菜月の部屋がありとあらゆる角度から映されていた。
律の視線は、部屋の中でのんびりと過ごす菜月の姿を追う。ベッドに座って本を読む横顔に、一瞬だけ柔らかい表情を浮かべる。
画面の端で、菜月のバッグの持ち手が揺れた。
そこにぶら下がるストラップを見て、律はホッと息を吐く。
──ちゃんと、持ってる。
律はマウスから手を離し、机の端に置いていたスマートフォンへと視線を移した。
画面の地図上にある小さな赤い点が、ゆっくりと点滅している。
それを確かめると、何事もなかったように画面を伏せ唇の端をわずかに上げた。
だが、その笑みはすぐに消える。
画面の中の菜月が左手に光る指輪を触ると、律の目つきが鋭く変わった。
「……まだ、外してないんだ」
手元のマウスを指で叩く音が、部屋に小さく響く。
画面の中で笑う菜月は、〝義姉〟でありながら、律にとっては〝大切なもの〟でもあった。
「──誰にも触れさせないよ」




