20・終わりの始まり(菜月視点最終話)
目を覚ました時、白い天井が揺れて見えた。
脇腹が痛い。体が重い。微かに「ピッピッ」という音がする。
視線を少し横に向けると、点滴が一定のリズムを刻んで落ちている。
(病院……?)
あれからどうなったんだろう? ナイフが刺さって、律が、泣いてて。
意識が沈んで、そこから覚えていない。
どれくらいの時間が経ったのかも、わからない。
首を巡らせるが、時間がわかるものもない。
扉が開いた音がして、そちらへ視線を向けると軽井沢さんが入ってきて目を大きく見開いた。
「菜月ちゃん……!」
ベッドに近寄ってきて、わずかに動く手を握ってくれた。
「良かった……。俺がわかるか?」
ほっとした柔らかな笑顔に、私も安心して小さく頷く。
「……律は……お父様は……?」
軽井沢さんは、少し言いづらそうに眉を下げた。
「龍樹は……マスコミに色々嗅ぎつけられて対応してる。ああ、安心して。御影先生と茉莉乃さんは逮捕された」
安心……。安心なんて、どこにあるのだろう。
「律くんは……」
軽井沢さんは、いいよどむ。
あの時の光景が、途切れた記憶の隙間からよみがえる。
「君を刺したことを、悔やんでて……。ここには来ない」
「……そう、ですか……」
傷口と、胸の奥がぎゅっと痛んだ。
私は生きているのに。
律は、自分を責めている。
「結構、危なかったんだよ。……輸血もしてね」
「輸血……」
ぼんやりと腕に視線を落とす。いくつもの白いテープで留められた箇所が、痛々しい。
「私……どのくらい意識を失ってたんですか?」
「三日くらい、かな」
「三日も!?」
その間に、律や養父はどんな思いをして過ごしたのだろう。
私だけ倒れているわけにはいかないと身を起こそうとするが、上半身を起こしただけでふらりと目が回った。
「まだ安静だよ。輸血したとはいえ、貧血状態だ」
「でも……!」
「気持ちはわかるよ。でも、今は自分の身体を第一に考えること。退院したら、ちゃんと説明してあげるから」
軽井沢さんの言葉に、少しずつ気持ちを落ち着ける。
「じゃあ、俺は行くけど……。着替えとかは内村さんに頼んであるから」
「ありがとうございます……」
立ち去ろうとする背中を見送ろうとして、けれど、そのまま黙っていられなかった。
「軽井沢さん」
呼び止めると、軽井沢さんは足を止めて、こちらを振り返る。
「私が目を覚ましたこと、律に伝えてください」
本当は、もっと言いたいことがあった気がする。でも、それ以上は言葉にできなかった。
軽井沢さんは何も問い返さず、ただ一度頷いて、病室を出て行った。
あれから二週間。私は傷の癒えないまま退院した。
御影法律事務所は、御影先生の逮捕により閉鎖された。
御影派だった先生方は散り散りになり、軽井沢派だった先生方も軽井沢さんについていく人や、他の事務所に移籍する人など、様々だった。
つい昨日まで一つ屋根の下で働いていた人たちが、まるで潮が引くように姿を消していく。
その光景は、どこか胸にぽっかりと空洞を残した。
そんな中で、私と軽井沢さん、保科さん、そして真子さんは──。
「えー、では。菜月ちゃんの退院を祝って」
「かんぱーい!」
がらんとした御影法律事務所で、私の退院祝いをしてくれていた。
軽井沢さんが音頭を取り、グラスが触れ合って乾いた音が響く。
ここに残った先生方も、私の無事を祝ってくれた。
みんなの笑顔を見てようやく、生きて戻ってきたという実感が湧いてくる。
「……そういえば、リッくん。最近、配信で見かけないよね……」
真子さんが、何気ない調子でそう言った。
私は、無言でグラスに視線を落とす。
律がいない理由を、ここで話すつもりはなかった。
「えー、残念ながら御影先生がいなくなったので、この事務所は引き払おうと思う。この人数では広すぎるしな」
軽井沢さんの言葉に、室内が一瞬静まり返った。
「じゃあ、ついに軽井沢先生、独立ですか? 〝軽井沢法律事務所〟に?」
真子さんが、からかうように両手の人差し指で軽井沢さんを差す。
「……いや」
軽井沢さんは、目を伏せて少しだけグラスを揺らした。
「知っての通り、俺は宝堂グループの海外案件で事務所を空けることが多い。所長には向いてない。だから……」
そう言って、隣に立つ彼の肩をぽん、と叩いた。
「保科先生。後はよろしく頼んだ」
「……へ?」
保科さんは、オードブルを口に運んだまま固まった。
口元が、徐々に開いていく。
「え、ええええええっ!? 僕が、ですか!?」
「いよっ! 保科所長!」
周囲の先生方までが囃し立て、瞬く間に拍手が広がる。
保科さんはまだ状況が飲み込めていないようだったけど、それでも照れたように頬を染めた。
こうして、御影法律事務所は幕を閉じ──
私たちの新しい拠点、〝保科法律事務所〟として生まれ変わったのだった。
数日後の早朝。
まだ街が眠っている時間帯に、私はひとり新しい保科法律事務所の扉を開けた。
事務所としては正式オープン前だけれど、時々こうして書類の整理に来たりしている。
誰もいないと思っていたのに、薄い朝日がブラインド越しに差し込んで、誰かを照らしていた。
「軽井沢先生!」
そこに立っていたのは、軽井沢先生だった。
逆光で表情がよく見えないけれど、そこにいるだけで安心する。
「おはよう、菜月ちゃん。早すぎないかい?」
「先生こそ」
軽井沢さんは、スーツケースを足元に置いている。
「今から出発ですか?」
「ああ」
「また数年……。会えないんですね」
言葉にして初めて、胸のうちに広がっていた寂しさを自覚した。
「……一緒に来るかい?」
不意打ちのように告げられ、思わず息を呑んだ。
「えっ……?」
「俺も、優秀な助手がほしいと思っていたところでね」
肩をすくめて、軽井沢さんは眉を上げる。
ビジネスパートナーとして、私を必要としてくれることは素直に嬉しい。
でも、私は首を横に振った。
「いえ、私は日本でがんばります。それと……」
胸の奥で、長いあいだ絡まり続けていた糸を、そっとほどくように言葉を継いだ。
「ここを、辞めようと思ってるんです」
「……そうか。決めたのか」
「はい」
宝堂の名を捨てること。
彰人さんの遺した「自由に生きてほしい」という想いを、ようやく自分の意志で選ぶこと。
その選択を、私はようやく真正面から受け止めた。昨夜、養父にも話して許可を得た。
「困ったことがあったら、いつでも言ってくれよ。すぐに飛んでいくから」
「ありがとうございます、おじさま」
私が言うと、軽井沢さんは目を丸くして。
すぐに目尻を下げて、ふっと微笑んだ。
「あ〜〜。いいなぁ、やっぱり」
「ふふっ」
軽井沢さんらしい、照れ隠しのようなやり取りに、思わずこちらも微笑んでしまう。
やがて軽井沢さんはタクシーで空港へ行ってしまった。
数時間後、誰もいない事務所を掃除していると、窓辺に淡い空を横切っていく、小さな飛行機が見えた。
(あの飛行機かな……)
ぽつりと、胸の内だけでつぶやいて飛行機を見送る。
まっすぐに伸びた飛行機雲が、ゆっくりと空にほどけていく。その軌跡を、私はしばらく目で追い続けた。
所長の机に戻ると、最後の仕事のように丁寧に布でひと拭きする。
そして、封をした退職届を置くと、今までの出来事が走馬灯のように広がっていく。
いろいろなことがあった。傷ついたことも、傷つけてしまったことも。
それでも私たちは、確かに真実へ辿り着いた。その事実だけが、かすかな救いのように背中を支えてくれる。
自分自身を納得させるように、ひとつ深呼吸をした。
「お世話になりました」
静まり返った室内に、自分の声が響いた。
踵を返し、ゆっくりと出入口に向かって、
これまでの私の人生に一区切りを告げるように、パタンと優しい音を残して扉を閉めた。
部屋に残るものは、ほとんどなかった。
必要なものをまとめ、最後にスーツケースの中へと彰人さんの遺影を収める。
フレームが割れないように、洋服の間に挟んだ。
大きなスーツケースを引いて、宝堂の家を出た。
門を出た先の通りは、クリスマスのイルミネーションが飾られている。
楽しげな色彩が、今の私には全然似合わなくて。
寒さを凌ぐように、コートの前をぎゅっと握った。
地面を転がるキャスターの音が大きく聞こえて、思わず足が早まってしまう。
「姉さん、待って!」
後ろから、必死な声が聞こえた。
振り返らなくても、どんな顔をしているか想像がつく。
「ひどいよ、何も言わずに出ていくなんて」
「うん」
そのとおり、私はひどい人間だ。こんなに慕ってくれる律を置いていくなんて。
「どうしてわかったの?」
「姉さんのことなら、なんでもわかるよ……」
「……そう?」
胸の奥が詰まる。早くここを離れなければ。
いつもそうだ。律の顔を見ていると、全部許しそうになってしまう。
スーツケースの取手を、強く握る。
「ごめんね、律。私は独りで生きていく」
「俺も行く」
「だめよ。早く義姉離れしなさいって言ってるでしょう?」
「そんなの……カンケイない……っ」
その瞬間、律が私を強く抱きしめた。
胸の中のあたたかさを、感じてしまう私がいる。
「……離して」
言うと、意外にもすんなり離れてくれた。
私は、そっと律の頬に触れる。
今までの想いをすべて込めて、唇を重ねた。
これは、きっと私が一生背負っていく、罪と罰。
知らずと、涙が頬を伝った。
固まってしまった律から数歩離れ、片手で乱暴に口を拭う。
「……借り、返すね」
律は目を見開いたまま、動かない。
瞳だけが、大きく揺れている。
「さよなら、律」
背を向けて、スーツケースを引いて歩いていく。
「ま……待って!」
律の声が引き止める。
「ずるい……そんなの、反則だ。だって……俺からじゃない……!」
ゆっくり振り返ると、律はいつもの笑顔を崩して泣き出しそうな顔をしていた。
「姉さん、宝堂から一緒に逃げよう」
「私が愛してるのは、彰人さんだけよ」
「兄さんの代わりでもいい。ただ、そばにいてくれれば。宝堂の名を捨てなきゃ……きっと、ずっとこの繰り返しだ」
それは、今回の件で嫌というほど理解した。
だから私は、独りで行こうとしていたのに。
なのに、次の瞬間には思わず口をついていた。
「……ついてきてもいい」
これは救いじゃない。わかっているのに、手を伸ばしてしまった。
距離を置くべき相手だと分かっているのに、なぜかこの一歩だけは拒めなかった。
それでも──
「だけど、律が私に触れたら……私は死ぬわ」
空気が凍りつく。
律の息が止まる気配がした。
これは脅しではない。本心だ。
もう、私には何もない。空虚が心を支配してしまう前に、すべてを終わらせてしまってもいい。けれど、ほんの少しの希望があるとしたら。
──律。
あなたが私に生きてほしいと願うなら。
それに縋ってみても、いいのかもしれない。
「……わかった」
律は、ゆっくりと近づいてきて。
少し小走りになって、私に追いついた途端、手を握る。
「言ってるそばから」
「姉さんが逃げないように、俺がつかまえてる」
律は目を潤ませながら、無理にでも笑おうとする。
触れたら死ぬと言ったのに。
それでも、律は手を離さなかった。
私も、振り払うことができなかった。
通りの向こうで、イルミネーションが淡く瞬いている。
誰かの幸せを祝う光が、私たちの影だけを長く引き延ばす。
どこへ向かっているのかはわからない。
けれど──
これは、私にとって新しい罰の、始まりなのかもしれない。




