2・指輪のついたお守り
「……なんてね」
「えっ?」
律がふっと口元を緩め、私から一歩離れた。
さっきまでの迫力が嘘のように、軽い調子で笑う。
「俺は姉さんが戻ってきてくれて嬉しいよ。またよろしくね」
「あ……うん……」
緊張していた肩の力が抜ける。
冗談……だったの……?
私は拍子抜けして、うまく笑い返すこともできなかった。
「そうだ、ひとつだけ」
律は自分の部屋へ入ろうとすると、ぴたりと止まってこちらを振り向く。
「俺の部屋には入らないでね。配信の機材とかあって、触られたくないから」
にっこりと笑う顔は、さっきよりずっと柔らかいはずなのに。
その言葉だけは、冗談に聞こえなかった。
*
彰人さんの夢を見た。
かつてのように淡く笑って、手を差し伸べてくれる。
その手を取ると、二人で歩き出す。時々、彰人さんが何かを言って。何を言っているのかはわからないけれど、もう二度と聞けないと思っていた心地のいい声。
返事をしようとした瞬間、光が差し込むように夢が薄れていく。
──目を覚ますと、いつもと違う天井が目に入った。
ああ、そうだ。私、戻ってきたんだ……この家に。
子どもの頃はくっきりしていた天井の模様も、今ではすっかり色褪せている。
懐かしい実家の匂い。家政婦の内村さんが洗濯してくれたシーツの匂いも、昔のままだ。
あと五分だけ、彰人さんの笑顔の余韻に浸っていたい。もう少しだけ……。
変わらない香りに包まれながら、もう一度まぶたを閉じた時──
ふと、頬に一瞬なにか柔らかいものが触れた。
温かく、濡れたようにやさしい感触。
「おはよう♡」
甘えたような声が耳元で囁かれ、ぱち、と反射的に目を開ける。
視界のすぐ横に、律の整った顔があった。
にこにことイタズラっぽく笑っている。
「姉さん、朝だよ」
現実を飲み込むまでに、一秒とかからなかった。
「き……きゃあああああああっ!!」
反射的に跳ね起きた。
律は無邪気な笑顔で、ベッドのマットの上に顎を乗せている。
さっきの柔らかいものは……もしかして、キ、キ、キス……!?
まだ感触が残っている右頬に手を当てる。
言葉がうまく出てこない。心臓がドラムのように打ち続ける。
目的のために実家に戻ってきたというのに、律に調子を狂わされそうだ。
そして……せっかく見ていた彰人さんの夢が、霧のように消えていった。
「律さんは相変わらずですねえ」
ダイニングに降りると、家政婦の内村さんが目尻を下げて笑う。もう二十年以上も宝堂家に仕えている内村さんは、私や律にとっては母親のような存在だ。
そう、そうだった。律は昔からこういったイタズラが大好きだった。彰人さんの布団に潜り込んだり、内村さんのエプロンのポケットにカエルのおもちゃを忍び込ませたり、お父様の部屋のアラームをこっそりと大音量にしたり……。思い出したら、軽く頭痛がしてきた。
私と彰人さんが結婚して家を出てからは、落ち着いたと聞いていたのに。
ここは義姉として、ビシッと言っておかないと──!
「あのね、律──」
「……ごめんね、姉さん」
しゅんとした顔で、叱るより先に謝られてしまった。喉まで出かかっていた言葉が、一瞬にして奥に引っ込む。私は、律のこの顔に弱い。しかもちゃんと謝っているものだから、いつも許してしまう。他の人だってそうだ、なんだかんだ言っても、律に絆されて許してしまう。
諦めてため息をつきながら、席についた。食卓には、すでに朝食が並べられている。
パンとベーコンの香ばしい匂いが、食欲を起こす。
「お父様は?」
話題を変えるように訊くと、内村さんはコーヒーを手にしながら答えた。
「旦那様は、もう会社に向かわれましたよ。今朝も五時半には起きておられて」
養父は昔から仕事熱心な人だったけれど、彰人さんが亡くなってからは、さらに拍車がかかっている。後継者がいなくなったことが原因なのか、あれ以来、養父の姿を家で見る時間が本当に減った。
「父さんも相変わらず、仕事の鬼だよね……」
律は、先ほどのことなんてなんでもなかったように、黙々と朝食を食べている。
気まずく思ってるのは私だけ? あれは律のイタズラなんだから、気にしないようにしないと。
向かいに座った律の皿を見て、思わず目を瞬く。
「律、それだけ?」
律の前にはチキンたっぷりのグリーンサラダと、小さめのロールパンが一つだけだ。
「うん、今度CMオーディションがあるから、絞りたくて」
サラダにノンオイルのドレッシングをかけながら、律はあっさりと答えた。
今のままでも充分なのに、ずっと体型にも気を配らなければならないなんて、モデルも大変だ。
私はというと、パンとサラダにベーコンエッグ、シリアルの入ったヨーグルト。
……せめて、コーヒーに砂糖は入れないでおこう。
「大変なんだね、モデルって」
そう呟くと、律はパンをちぎりながら、どこか照れたように笑った。
「ま、テレビCMはまだ出たことないしね。セリフ、下手だから」
「そうなの?」
「うん。なんか、棒読みになるって言われる」
そう言って苦笑する律を見て、意外と抜けてるところもあるのだな、と心の中で笑ってしまう。朝食を終えると、律はさっさとナプキンで口元を拭いて立ち上がった。
「あ、そうだ。今日は夜に部屋で配信やるから、姉さんも静かにしててね」
「わかったわ」
律はモデル業の傍ら、動画配信もしている。主にファッションやダイエット、美容の話題が多く、私も時々のぞくことがある。女の私よりずっと真面目にスキンケアをしていて、見ていると悔しくなるくらいだ。
静かにしててねとは言われたけれど、夜にはどうせ私と律しか残っていない。内村さんは夕方には帰ってしまうし、お父様は毎晩遅くまで仕事なのだ。
玄関へ向かいかけた律が、ドアノブに手をかけたところで、思い出したように足を止めた。
「あ、忘れてた」
振り返りながら、上着のポケットを探る。
小さな音を立てて何かが引き出された。
「これ、持ってて」
手に持たされたのは、緑色の小さな石の飾りがついたストラップだった。
そしてもう一つ──見覚えのある銀色のリングが付いていた。
内側に、〝N to A〟の刻印。間違いない、彰人さんの指輪だ。
もう、見つからないと思っていたのに。
耳の奥が、キーンと鳴った気がした。
「どうして……」
「姉さん、兄さんの最期、見てないでしょ? だから、俺が預かってた」
壊さないように優しく両手で包む。
お礼を言いたいのに胸がいっぱいで、声が出ない。
「お守り代わりに持ってて。デザインも悪くないでしょ?」
「律が作ってくれたの?」
「……うん」
「……ありがとう……」
ようやく、お礼の言葉を絞り出せた。
「じゃ、行ってくる」
律は満足そうに笑うと、ダイニングをあとにした。
私もカップに残ったコーヒーを一口飲み、スーツの上着を羽織る。
そして、ストラップを鞄の金具に取り付けた。小さなアクセサリーだけれど、手にするだけで、彰人さんと律の存在がそばにあるように感じられた。
今日は月曜。御影法律事務所は週明けから立て込みそうだ。
だけど今の自分には、少しくらい忙しい方が都合がいい。
「菜月さんも、お気をつけていってらっしゃいませ」
玄関まで見送りに来た内村さんが、変わらない穏やかな笑みを浮かべてそう言った。
「いってきます」
扉を開けて外に出たとき、朝の風が、どこか懐かしい香りを運んできた気がした。
それは、いつか彰人さんと並んで歩いた朝の匂いと、少し似ていた。




