19・まだ、終われない
軽井沢さんも律も驚いている。
先頭に立っていたのは御影先生だった。その一歩半歩後ろに、養父がいる。
並んで立っているはずなのに、立場ははっきりしていた。主導権を握っているのは、間違いなく御影先生の方だ。
嫌な予感がして、胸の内がざわりと嫌な音を立てる。
──どうしてここに?
二人に問おうとすると、御影先生が、うなだれた養父を一歩前に立つよう促す。
養父はこちらを見ようとしない。おおらかで豪快な、いつもの表情じゃない。
明らかにおかしいと感じた時、養父が、床に膝をついた。
ありえない光景に、思わず目を見開く。
「……すまん、菜月……!」
震える声で。深く、深く頭を下げる。
宝堂グループのトップとして、いつも背筋を伸ばしていた人が、床に額がつくほどの土下座をしている。
「何も聞かずに、御影先生と結婚してくれないか……!」
一瞬、言葉の意味が理解できなかった。
「……え?」
視界が、ぐらりと揺れる。
結婚?
御影先生と?
彼を見ると、不敵な微笑を浮かべていた。
(どうして……?)
養父は、少し前まで言っていたはずだ。「菜月には、自由に生きてほしい」と。
無理に何かを背負わせるつもりはない、と。
なのに。
「お父様……どうしたんですか? 急にそんな……」
震えそうになる声を、必死で抑える。
「頼む……。なにも、聞いてくれるな……」
養父は顔を上げないまま、かすれた声で言った。
先ほどのタイミングでの、御影先生からの電話。
彰人さんがいなくなった直後から急かされていた、後継者の話。
その流れで、唐突に持ち上げられた私との結婚話──。
偶然で片づけるには、出来すぎている。
養父の姿を見て、確信に近い違和感が胸に広がる。
これは、本人の意思じゃない。
私はゆっくりと御影先生へ視線を移し、その薄い笑みを一度だけ確かめてから再び養父に向き直った。
「……もしかして」
言葉を選ぶ必要は、もうない気がした。
「何か、弱みを握られているのではないですか?」
空気が、一瞬で凍りつく。
養父の肩が、びくりと跳ねた。
御影先生の口元の笑みが、わずかに歪む。
私は、はっきりと告げる。
「お父様──二十年前の、事故のことではないですか?」
「……!」
養父がゆっくりと顔を上げる。
その目は、驚きと恐怖と、そして諦めが入り混じっていた。
「菜月……おまえ……知って……」
私は、こくりと頷いた。
逃げずに、視線を受け止める。
「……悪い。俺が話した」
「俊……!」
養父が、信じられないものを見るように軽井沢さんを見た。
けれど軽井沢さんは屈んで養父と目線を合わせ、その胸ぐらを掴んだ。
「話して正解だったろうが! 現におまえは、こうしてそれをネタに脅されてる。二十年も抱え込んで、隠し続けて……ツケが回ってきたんだよ!」
御影先生はなおも微笑んだまま、二人のやり取りを眺めている。
彼の狙いはおそらく──。
けれど私はもう、何も知らないまま従う立場ではいられなかった。
二十年前──。
一組の夫婦が乗った自家用車と、男性会社員の運転する自家用車が衝突した。
……結果、一組の夫婦が死亡。それが、私の両親だった。
父と母は取引先を回る途中で事故に遭い、そのまま帰らぬ人になった。幼かった私は、誰に説明されても理解できず、ただ泣くしかなかった。
両親の車に衝突したのは、当時宝堂グループの関連会社に勤めていた男性社員だったという。
その日は徹夜明けで、ろくに休まずに車を走らせていたらしい。居眠りか、あるいは注意力の欠如か……。いずれにせよ故意ではなく、ただの過失だった。だが、その過ち一つが、私の人生を決定的に変えた。
夫婦の乗った車は衝撃で大破し、二人とも即死に近い状態だったという。一方で、彼は軽傷で済んだ。
よく聞く交通事故の構図。だが、その先が問題だった。
当時、宝堂グループは資金繰りの悪化や取引先の離反で揺れていた。
そこに飛び込んできた「社員が引き起こした死亡事故」の知らせ。
報道されれば、企業全体が揺らぎ、再建どころではなくなる。
養父はかなり迷ったらしい。このままでは、社員も路頭に迷ってしまう。
事故は、細かな過失は伏せられ、男性社員は早急に配置転換され、事故記録も必要最低限のものだけが残された。
「もみ消し」と呼ばれて当然の処置だった。
平穏のために真実を隠し、誰か一人に重荷を背負わせる。それが正義かどうか、私にはいまでもわからない。
養父は、罪滅ぼしのように私を引き取った。
しかし、事故の詳細を私に知られることを恐れ黙っていることにした。
事故を起こしたのが、両親の命を奪ったのが、宝堂グループの社員と知られれば、その上事故をもみ消したことを知られれば、きっと恨まれると。
二十年前から胸の奥に沈んでいたものが、ようやく形を持った気がした。
「すまない、菜月ちゃん。これに関しては俺も同罪だ。当時、宝堂グループを助けるために、いろいろ龍樹と根回ししたからな……」
軽井沢さんは、運転しながら前を見て謝罪して。
向こうの方にある、過去という遠い遠い記憶を見つめているようだった。
「……両親の事故の詳細が聞けてよかったです」
私も、彼と同じ方向を見た。
幼い頃の自分の姿が、浮かび上がってくるようだった。
「確かに、もみ消したことはいいことではないのかもしれません。でも……」
幼い頃の記憶は、ところどころ欠けている。
事故の前のことも、両親の顔も、もうはっきりとは思い出せない。
覚えているのは、泣いていた私の手を、軽井沢さんが黙って引いてくれたこと。
大きな家に連れていかれて、「大丈夫だよ」と言われたこと。
理由も事情もわからないまま、ただ生きる場所だけが、先に与えられた。
「それで宝堂グループは助かった。お父様は助かった。それで、いいんだと思います」
「菜月ちゃん……」
「だって、両親もお父様も、どっちも助からなかったら、身寄りのない私はどうなっていたかわかりません。今まで育ててもらった感謝こそすれど、恨む筋合いなんて、まったくないです」
お父様、彰人さん、律、内村さん。宝堂家のみんなは、私をあたたかく迎えてくれた。
彰人さんが亡くなったことを除けばこの二十年、私は何不自由なく幸せに暮らしてきた。
「お父様も、軽井沢さんもバカですよ……。ほんと」
二十年分の後悔も、罪も、恐れも。
それをすべて抱え込んで、私を守ろうとしてくれた人たちがいた。
ならば今度は、私が覚悟を決める番だ。
視線を上げる。
過去ではなく、目の前に立つ男へ。
「そういうわけで、御影先生。あなたの脅しには、私も養父も屈しません」
この話を聞いていて良かった。
軽井沢さんの予想が大当たりしてしまった。
彰人さんが〝狙われた〟とすれば、次に危ういのは私だと。
そして、この情報をネタに取引を持ちかけてくる人物が、これから現れるかもしれない、と。
早速、現れてしまったのだ。
御影先生を強く睨むが、彼は何事もなかったかのように冷静な表情だった。
「……脅し? 菜月くん、誤解だよ。私はただ、宝堂グループにとって最善の道を行こうと言っているだけなんだ」
「最善の道……?」
「そうさ。君は実に聡明だ。法律事務所の助手に納まるべきじゃない。私が彰人くんの代わりにグループを継ぐ。そして君は私の妻となり右腕になる。そうすれば、グループの未来も安泰じゃないか!」
まるで当然のことのように、御影先生は両手を広げ高らかに笑う。
この状態で笑えることが、信じられない。
すると、いきなり別方向から甲高い声が飛んできた。
「ちょ……っと……! 約束が違うじゃない!」
田口茉莉乃だった。彼女はすでにロープを解かれ、手錠をかけられている。
そんな状態で、御影先生に詰め寄っていった。
「言うことを聞けばヨリ戻してくれるって……! 律を認知してくれるって言ったじゃない!」
「な、何を言っている……!?」
御影先生は、彼女を突き飛ばした。
倒れそうになったところを出口さんが受け止め、それでもなお飛びかかろうとする彼女を制している。
「あんたが! 指示通りにやればって言ったんでしょうが! しらばっくれてもだめよ。あの時の会話は、ちゃんと録音してあるんだからね……!」
「このアマ……!!」
ギリっと奥歯を噛み締める音が聞こえた。
手を振り上げようとしたところを、出口さんが振り払った。
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってくれ! ヨリを……戻す……!?」
立ち上がった養父が目を見開く。
「それに……指示通りにやれば、って……」
「まさか……」
律の、本当の父親で……彰人さんを死に追いやった黒幕が……。
周囲がざわめいた。みんなは御影先生を見ていたけれど、私は律に視線を向ける。
律は声も上げず、ただ一瞬だけ視線を伏せた。
御影先生に視線を戻すと、いつもの紳士な表情が崩れていた。
「御影先生……! どうして……!!」
「どうして? 決まっているだろう。俺はずっと宝堂グループを狙っていた」
いつもと違う、荒れた言葉。
押し殺した怒りが、奥底から泡立つように漏れ始める。
「……ずっとだ。ずっと俺が整えてやってきたんだ。何十年も、誰にも気づかれないように。全部、全部俺が……」
言葉が途中で途切れた。
皆の視線が、御影先生に集まる。
張りつめた空気を叩き割るように、声が爆ぜた。
「律!!」
名指しされた律が、はっと顔を上げる。
「おまえが! さっさとこの娘と結婚していれば!! こんな遠回りする必要は! なかったんだよ!!」
部屋がびりびりと響いた。
目は血走り頬は引きつり、理性の色はどこにもなかった。
「……御影さん」
出口さんは手錠を取り出し、御影先生に近づく。
叫ぶだけ叫んで観念したのか、抵抗はしなかった。
──その時、そばで低くしぼり出すような声がした。
「……やっぱり排除しておくべきだった」
それが律の声だと気づくまで、数秒かかった。
「……律?」
振り返ると、律の手には何かが握られていた。
「こんなやつ……っ、最初から……!」
律の視線は、御影先生とその背後で血の気を失っている田口茉莉乃に向けられていた。
光が反射して、それがナイフだとわかったとき──私は反射的に飛び込んでいた。
「律……っ!!」
考えるより先に。
ただ、律を止めたくて。
勢いで律の前に飛び出した瞬間、熱いものが、腹から吹き出した。
「あ……」
痛みよりも、息ができない。
律が目の前で固まって、顔色が真っ白になっていく。
「……ぁ……ねぇ……さ……」
律の指先が震えている。
ナイフが床に落ちる音が、やけに遠く聞こえた。
「律!」
「律くん!」
律は軽井沢さんに押さえられた。
「ちが……う……俺は……俺は、姉さんを守るために……!」
「なつきっ!!」
誰かが叫んだ。
誰が叫んだのか分からない。
体が崩れ落ちる。
抱きとめられた腕の温度で、私はまだ生きているんだと知る。
「救急車!! 早く!!」
「菜月! 菜月、しっかりしろ!」
視界が、霞む。
律の泣き声が聞こえる。
「やだ……やだ……姉さん……いなくならないで……っ」
その声が、子供みたいで。
あの頃と同じで。
だから、笑いたかった。
(り、つ──)
──私はまだ終われない。
ここで私が死んでしまったら、あなたを闇に押し込めてしまう。
そんな未来は、絶対に許さない。
声にできないまま、意識だけが薄れていった。




