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【大賞作品長編化】執着系義弟の甘い罠は壊れるほど狂おしく〜未亡人の私、愛されすぎて逃げられません〜  作者: 草加奈呼


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18/20

18・初めての怒り

 養父は、御影先生からの電話に出たまま、戻ってこなかった。

 玄関に靴がないところを見ると、そのまま外へ出たのだろう。

 律が危険かもしれないというのに──それでも離れなければならないほど、差し迫った用件だったのか。

 考えても答えは出ないまま、私たちは車に乗り込んだ。

 天気予報は、こんな時に限って外れない。

 雨に濡れた路面を滑るように、高速道路へ入った。

 フロントガラスを往復するワイパーが、規則正しい動きで水滴を弾いていく。


「菜月ちゃん……さっき、言おうとしてたんだけどね」


 そういえば、軽井沢さんがやけにそわそわしていたのを思い出す。

 

「……なんでしょう?」

「こうなったら、もう君自身も危険だと思った方がいい」


 先ほどよりも一段と落ち着いた声で、軽井沢さんは言った。

 

「私が……宝堂の人間だから、ですか?」

「そうだ」


 運転席の軽井沢さんが、前を見たまま力強くうなずく。

 

「これからいろんな人が、菜月ちゃんに近づいてくると思う。だから……」


 言葉を切った軽井沢さんは、大きく深呼吸する。

 ハンドルを握る指先に、わずかな力がこもるのがわかった。

 

「俺は今から、親友を裏切る」


 裏切る──その言葉の意味を考える余裕なんて、なかった。

 

「菜月ちゃんにとって大事なことを話す。君の……両親のことだ」


 心臓が大きく跳ねる。

 本当は、今じゃなくてもいいはずだった。律のことで頭も心もいっぱいで、これ以上何かを抱え込める余裕なんてない。それでも、逃げ場を探す前に耳が自然と次の言葉を求めてしまう。

 軽井沢さんの横顔には、いつもの冗談も軽口も一切見えない。「今を逃せば取り返しがつかない」とでも言いたげな、張りつめた表情だった。

 彰人さんのこと、律のこと、私自身のこと──問題が、容赦なく膨れ上がっていく。

 雨足が強まり、車体を打つ音が大きくなる。軽井沢さんが話してくれた両親の話は、雨の音と混じり合いながら、しっかりと私の耳に届いた。

 

 

  *


 

 田口茉莉乃のマンションは、随分と立地のいい場所にあった。

 駅からも近く、人通りの多い通りに面している。その外観からは、ここで起きようとしている事態など想像もできない。

 

 途中で軽井沢さんが出口さんに連絡を入れてくれていたため、エントランスで合流することができた。

 一連の経緯を簡潔に説明し、彰人さんの録音データも聞いてもらうと、出口さんは状況を整理するように、静かに何度かうなずいた。

 

 エントランスを抜け、律の指定した部屋の前で立ち止まる。

 念のため玄関のインターホンを押すが、返事はなかった。

 耳を澄ませても、室内から物音は聞こえない。

 ドアの取手に手をかけると、小さくカチャリと音を立てて開いた。

 鍵はかかっていない。


「……俺が先に入る」


 職業柄、慣れているのだろう。出口さんが一歩前に出た。

 息を殺し、背中越しにもわかるほど神経を張り詰めさせている。

 無言で周囲に目を配り、何かに備えるような間を置いてから、そっとドアを開けた。

 廊下はしんと静まり返り、冷えた空気がわずかに外に流れ出た。

 生活の痕跡はあるのに、異様な静けさだった。

 突き当たりの白いドアの向こうに、わずかに人の気配がする。


 出口さんが警戒体制で白いドアを開ける。

 そこには──椅子に縛り付けられた女性と、律がいた。

 律は女性のそばに立ち、女性は口にガムテープが貼られ、必死に何かを訴えようと身をよじっている。

 

(この人が、田口茉莉乃……)


 彰人さんに指示を出して、非常階段から転落させた張本人。

 名前だけで何度も胸をえぐられた存在が、今、数メートル先にいる。

 でも、本人を目の前にして、怒りとか、憎悪とか、絶望とか、そんなものはなかった。

 ただ、真実がわかってホッとしている自分がいる。

 もちろん、彰人さんがいなくなったことは悲しい。けれど、この人に対して何かしてやろうとか、そういう気持ちは一切湧かなかった。律の怒りとは裏腹に、私は随分と冷静でいられた。

 律が、ゆっくりとこちらを向く。

 

「姉さん……やっと来てくれたね」

「律……」

 

 律は、表情も声も穏やかだった。

 けれど、どこか焦点が合っていない。感情が抜け落ちたような、そんな顔をしている。

 

「ああ、軽井沢さんと出口さんも来てくれたんだ。ちょうどいいや。この女、兄さんを殺した犯人だよ。排除しちゃってよ。出口さん、警察官でしょ?」


 軽い口調で、律は笑った。

 ほんの僅かに口角を上げただけの、作り物のような笑みだった。

 それを聞いた彼女は、椅子をガタッと揺らし抵抗しようとする。


「犯人を捕まえてくれたことには感謝するが……やりすぎだ」


 出口さんは、田口茉莉乃の前に立ち、ガムテープだけを剥がす。

 途端、彼女は大きく息を吐き、こちらを鋭く睨む。

 

「なによこれ! 警察が来るなんて聞いてないわよ!」


 甲高い声が部屋中に響く。電話で聞いた、あの声だ。

 

「俺が呼んだんだよ。観念しなよ」


 律は、彼女を見下すように視線を落とす。

 その目には、もはや親子の情は微塵もないように思えた。

 

「まっ……待ってよ、律。アタシたち、たった二人の親子じゃない」


 さっきまでの強気な態度とは打って変わって、縋るように言葉が震えている。

 

「俺は、一度もあんたを母親だと思ったことはない」

「殺すつもりなんて、なかったのよ……。ちょっと言い合いになって、それで……」


 言い訳めいた言葉が、次々とこぼれ落ちる。

 この状況では嘘も通用しないと悟ったのか、あっさりと自白した。

 それでも、殺意があったことは否定するらしい。

 

「捜査結果では、争いあった形跡もないとされている。それに、直前までの通話内容はすべてクラウドに保存されていた。……おそらく、常に身の危険を感じていたんだろうな」


 出口さんが、淡々と告げる。

 

「録音されていた会話には、犯人から彰人くんへの細かい指示があった。御影法律事務所のあるフロアから、普通に非常口に出ろ、とな……。それに、通話履歴から判明した架空の企業名。個人を特定しないためのフェイクだ。ここまで用意周到だと、計画殺人と言わざるを得ない。減刑は無理だろうな」


 やれやれ、と軽井沢さんは小さく肩をすくめた。

 二人の言葉を聞いた途端、田口茉莉乃の顔がスッと青ざめる。

 

「でも、警察はどうしてこの録音を見逃したんでしょうか? 回収して、調べたんですよね?」

 

 私は、出口さんに視線を向ける。


「詳しいところまでは把握していないが……。事件性が低いと判断された場合、そこまで深掘りはしない。それと、回収された端末は一台だけだ」

「……えっ?」

 

 うちに戻ってきたスマホは、シルバーの彰人さんの個人用スマホ。

 黒の仕事用は……事務所に直接戻されたはず。

 総務の職員も、はっきりと言っていた。


 《仕事用スマホなら、警察の方に渡されました。どうすればいいか御影先生に確認したところ……『もう使わないから、解約して構わない』と言われたので、解約しましたが……》


 警察には、二台あったはずだ。なのに。

 出口さんの言葉は、それを根底から覆してくる。

 混乱が整理されるよりも先に、乾いた笑い声が部屋に響いた。

 

「あっはははは! しょうがないわね、教えてあげる。あれはね、アタシが回収したの」

「なんだと?」

 

 出口さんが、眉を顰める。

 

「彰人くんが死んだのを確認してから、アタシが回収して、内ポケットに入っていた個人用と入れ替えたの。わかる?」

 

 悪びれた様子もなく、田口茉莉乃は肩をすくめる。

 まるで、ちょっとした手品の種明かしでもするかのような口調だった。


「でも、警察が持ってきたって……!」

 

 思わず口を挟む。

 それでは、総務の職員の証言と食い違ってくる。

 

「知り合いの男に頼んで持って行ってもらったのよ。スーツを着ていればわかんないでしょ?」


 警察が見逃したのではない。

 最初から、なかった(・・・・)のだ。

 

 警察と名乗る男から、遺留品の返却だと言ってスマホを渡された。なんの疑問も感じなかった総務の職員は、当然のように所長にスマホをどうすればいいか訊ねる。そして、もう使わないから解約──結果、自分の手を煩わせることなく証拠が隠滅される。この一連の流れに、私は戦慄を覚えた。それは、律も同じだったようで──。

 

「できすぎてる……。本当にあんたが考えたのか……?」

「さあ……?」

 

 彼女は唇の端を上げるだけで、答えようとしない。

 その態度に、律はさらに深く眉間に皺を寄せる。


 もうひとつ、確かめたいことがあった。


「どうやってビルに入ったんですか? あそこに入るには、社員証が必要なはずです。非常階段もビル内だから、例外ではありません。あなたは、あのビル内の企業に勤めているのですか?」


 宝堂の本社ビルは、関係者以外が簡単に出入りできる場所ではない。グループ企業や提携先が入居しているとはいえ、入館時には必ず社員証をかざす仕組みだ。


「ハッ……。そんなわけないじゃない」

 

 吐き捨てるような声。

 

「あんたはいいわよね。宝堂のお嬢様っていうだけでチヤホヤされて、みんなに守られてさ」

 

 彼女からは、私に対して明らかな敵意が滲んでいた。

 

「おもしろかったわ……。彰人くんも律も、あんたの名前を出してちょっと脅せば言うこと聞くんだもの……ああ、おかしい」


 くくっ、と喉を詰まらせるように笑いを堪えながら喋る彼女を、私はしばらく理解できずに見ていた。何を言っているのか、言葉の意味が頭に入ってこない。

 けれど、その笑い声が耳に残ったとき。そこでようやく、はっきりとわかった。

 胸の奥が抉られるようだった。誰かの死も誰かの苦しみも、すべてを駒のように扱う声音に、私は初めて怒りを覚えた。

 いや、彼女にではない。これは多分、不甲斐ない私自身に対してだ。

 拳を握りしめても、何もできない、自分。

 追い打ちをかけるように、彼女は唇の端を歪ませた。

 

「……この際だから教えてあげる。あんたを車で狙うように言ったのはアタシ」

「なんでそんなことを……!」

 

 律が、衝動を抑えきれないように田口茉莉乃の胸ぐらを掴む。

 掴んだ手が、わずかに震えていた。

 出口さんが、反射的に一歩踏み出す。

 

「ちょっと脅しただけよ! ……温室育ちのお嬢様が、少し痛い目を見れば良かったのよ!」


 そんなやりとりのそばで、軽井沢さんが青い顔をして呟いた。

 

「ちょっと待て。社員じゃないのにビルに入った……?」


 その言葉に、ハッとする。


「まさか……。このビルに出入りする誰かが、共犯ということですか!?」

「……おい! 誰なんだ!」


 律が、再び田口茉莉乃に詰め寄る。

 しかし、彼女はツンとした顔で顔を背けた。

 

「フン、知らないね」

「おいおい……。宝堂グループに提携企業、合わせて何人いるんだよ……」


 出口さんが頭を抱える。

 

 社員証を持つ人間。

 このビルに正当に出入りできる誰か。

 田口茉莉乃は、追い詰められているはずなのに、どこか落ち着いていた。

 その違和感が、何か引っかかる。


 そのとき、扉が開き誰かが入ってきた。

 

「御影、先生……お父様……?」

「どうしてここに……?」


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