18・初めての怒り
養父は、御影先生からの電話に出たまま、戻ってこなかった。
玄関に靴がないところを見ると、そのまま外へ出たのだろう。
律が危険かもしれないというのに──それでも離れなければならないほど、差し迫った用件だったのか。
考えても答えは出ないまま、私たちは車に乗り込んだ。
天気予報は、こんな時に限って外れない。
雨に濡れた路面を滑るように、高速道路へ入った。
フロントガラスを往復するワイパーが、規則正しい動きで水滴を弾いていく。
「菜月ちゃん……さっき、言おうとしてたんだけどね」
そういえば、軽井沢さんがやけにそわそわしていたのを思い出す。
「……なんでしょう?」
「こうなったら、もう君自身も危険だと思った方がいい」
先ほどよりも一段と落ち着いた声で、軽井沢さんは言った。
「私が……宝堂の人間だから、ですか?」
「そうだ」
運転席の軽井沢さんが、前を見たまま力強くうなずく。
「これからいろんな人が、菜月ちゃんに近づいてくると思う。だから……」
言葉を切った軽井沢さんは、大きく深呼吸する。
ハンドルを握る指先に、わずかな力がこもるのがわかった。
「俺は今から、親友を裏切る」
裏切る──その言葉の意味を考える余裕なんて、なかった。
「菜月ちゃんにとって大事なことを話す。君の……両親のことだ」
心臓が大きく跳ねる。
本当は、今じゃなくてもいいはずだった。律のことで頭も心もいっぱいで、これ以上何かを抱え込める余裕なんてない。それでも、逃げ場を探す前に耳が自然と次の言葉を求めてしまう。
軽井沢さんの横顔には、いつもの冗談も軽口も一切見えない。「今を逃せば取り返しがつかない」とでも言いたげな、張りつめた表情だった。
彰人さんのこと、律のこと、私自身のこと──問題が、容赦なく膨れ上がっていく。
雨足が強まり、車体を打つ音が大きくなる。軽井沢さんが話してくれた両親の話は、雨の音と混じり合いながら、しっかりと私の耳に届いた。
*
田口茉莉乃のマンションは、随分と立地のいい場所にあった。
駅からも近く、人通りの多い通りに面している。その外観からは、ここで起きようとしている事態など想像もできない。
途中で軽井沢さんが出口さんに連絡を入れてくれていたため、エントランスで合流することができた。
一連の経緯を簡潔に説明し、彰人さんの録音データも聞いてもらうと、出口さんは状況を整理するように、静かに何度かうなずいた。
エントランスを抜け、律の指定した部屋の前で立ち止まる。
念のため玄関のインターホンを押すが、返事はなかった。
耳を澄ませても、室内から物音は聞こえない。
ドアの取手に手をかけると、小さくカチャリと音を立てて開いた。
鍵はかかっていない。
「……俺が先に入る」
職業柄、慣れているのだろう。出口さんが一歩前に出た。
息を殺し、背中越しにもわかるほど神経を張り詰めさせている。
無言で周囲に目を配り、何かに備えるような間を置いてから、そっとドアを開けた。
廊下はしんと静まり返り、冷えた空気がわずかに外に流れ出た。
生活の痕跡はあるのに、異様な静けさだった。
突き当たりの白いドアの向こうに、わずかに人の気配がする。
出口さんが警戒体制で白いドアを開ける。
そこには──椅子に縛り付けられた女性と、律がいた。
律は女性のそばに立ち、女性は口にガムテープが貼られ、必死に何かを訴えようと身をよじっている。
(この人が、田口茉莉乃……)
彰人さんに指示を出して、非常階段から転落させた張本人。
名前だけで何度も胸をえぐられた存在が、今、数メートル先にいる。
でも、本人を目の前にして、怒りとか、憎悪とか、絶望とか、そんなものはなかった。
ただ、真実がわかってホッとしている自分がいる。
もちろん、彰人さんがいなくなったことは悲しい。けれど、この人に対して何かしてやろうとか、そういう気持ちは一切湧かなかった。律の怒りとは裏腹に、私は随分と冷静でいられた。
律が、ゆっくりとこちらを向く。
「姉さん……やっと来てくれたね」
「律……」
律は、表情も声も穏やかだった。
けれど、どこか焦点が合っていない。感情が抜け落ちたような、そんな顔をしている。
「ああ、軽井沢さんと出口さんも来てくれたんだ。ちょうどいいや。この女、兄さんを殺した犯人だよ。排除しちゃってよ。出口さん、警察官でしょ?」
軽い口調で、律は笑った。
ほんの僅かに口角を上げただけの、作り物のような笑みだった。
それを聞いた彼女は、椅子をガタッと揺らし抵抗しようとする。
「犯人を捕まえてくれたことには感謝するが……やりすぎだ」
出口さんは、田口茉莉乃の前に立ち、ガムテープだけを剥がす。
途端、彼女は大きく息を吐き、こちらを鋭く睨む。
「なによこれ! 警察が来るなんて聞いてないわよ!」
甲高い声が部屋中に響く。電話で聞いた、あの声だ。
「俺が呼んだんだよ。観念しなよ」
律は、彼女を見下すように視線を落とす。
その目には、もはや親子の情は微塵もないように思えた。
「まっ……待ってよ、律。アタシたち、たった二人の親子じゃない」
さっきまでの強気な態度とは打って変わって、縋るように言葉が震えている。
「俺は、一度もあんたを母親だと思ったことはない」
「殺すつもりなんて、なかったのよ……。ちょっと言い合いになって、それで……」
言い訳めいた言葉が、次々とこぼれ落ちる。
この状況では嘘も通用しないと悟ったのか、あっさりと自白した。
それでも、殺意があったことは否定するらしい。
「捜査結果では、争いあった形跡もないとされている。それに、直前までの通話内容はすべてクラウドに保存されていた。……おそらく、常に身の危険を感じていたんだろうな」
出口さんが、淡々と告げる。
「録音されていた会話には、犯人から彰人くんへの細かい指示があった。御影法律事務所のあるフロアから、普通に非常口に出ろ、とな……。それに、通話履歴から判明した架空の企業名。個人を特定しないためのフェイクだ。ここまで用意周到だと、計画殺人と言わざるを得ない。減刑は無理だろうな」
やれやれ、と軽井沢さんは小さく肩をすくめた。
二人の言葉を聞いた途端、田口茉莉乃の顔がスッと青ざめる。
「でも、警察はどうしてこの録音を見逃したんでしょうか? 回収して、調べたんですよね?」
私は、出口さんに視線を向ける。
「詳しいところまでは把握していないが……。事件性が低いと判断された場合、そこまで深掘りはしない。それと、回収された端末は一台だけだ」
「……えっ?」
うちに戻ってきたスマホは、シルバーの彰人さんの個人用スマホ。
黒の仕事用は……事務所に直接戻されたはず。
総務の職員も、はっきりと言っていた。
《仕事用スマホなら、警察の方に渡されました。どうすればいいか御影先生に確認したところ……『もう使わないから、解約して構わない』と言われたので、解約しましたが……》
警察には、二台あったはずだ。なのに。
出口さんの言葉は、それを根底から覆してくる。
混乱が整理されるよりも先に、乾いた笑い声が部屋に響いた。
「あっはははは! しょうがないわね、教えてあげる。あれはね、アタシが回収したの」
「なんだと?」
出口さんが、眉を顰める。
「彰人くんが死んだのを確認してから、アタシが回収して、内ポケットに入っていた個人用と入れ替えたの。わかる?」
悪びれた様子もなく、田口茉莉乃は肩をすくめる。
まるで、ちょっとした手品の種明かしでもするかのような口調だった。
「でも、警察が持ってきたって……!」
思わず口を挟む。
それでは、総務の職員の証言と食い違ってくる。
「知り合いの男に頼んで持って行ってもらったのよ。スーツを着ていればわかんないでしょ?」
警察が見逃したのではない。
最初から、なかったのだ。
警察と名乗る男から、遺留品の返却だと言ってスマホを渡された。なんの疑問も感じなかった総務の職員は、当然のように所長にスマホをどうすればいいか訊ねる。そして、もう使わないから解約──結果、自分の手を煩わせることなく証拠が隠滅される。この一連の流れに、私は戦慄を覚えた。それは、律も同じだったようで──。
「できすぎてる……。本当にあんたが考えたのか……?」
「さあ……?」
彼女は唇の端を上げるだけで、答えようとしない。
その態度に、律はさらに深く眉間に皺を寄せる。
もうひとつ、確かめたいことがあった。
「どうやってビルに入ったんですか? あそこに入るには、社員証が必要なはずです。非常階段もビル内だから、例外ではありません。あなたは、あのビル内の企業に勤めているのですか?」
宝堂の本社ビルは、関係者以外が簡単に出入りできる場所ではない。グループ企業や提携先が入居しているとはいえ、入館時には必ず社員証をかざす仕組みだ。
「ハッ……。そんなわけないじゃない」
吐き捨てるような声。
「あんたはいいわよね。宝堂のお嬢様っていうだけでチヤホヤされて、みんなに守られてさ」
彼女からは、私に対して明らかな敵意が滲んでいた。
「おもしろかったわ……。彰人くんも律も、あんたの名前を出してちょっと脅せば言うこと聞くんだもの……ああ、おかしい」
くくっ、と喉を詰まらせるように笑いを堪えながら喋る彼女を、私はしばらく理解できずに見ていた。何を言っているのか、言葉の意味が頭に入ってこない。
けれど、その笑い声が耳に残ったとき。そこでようやく、はっきりとわかった。
胸の奥が抉られるようだった。誰かの死も誰かの苦しみも、すべてを駒のように扱う声音に、私は初めて怒りを覚えた。
いや、彼女にではない。これは多分、不甲斐ない私自身に対してだ。
拳を握りしめても、何もできない、自分。
追い打ちをかけるように、彼女は唇の端を歪ませた。
「……この際だから教えてあげる。あんたを車で狙うように言ったのはアタシ」
「なんでそんなことを……!」
律が、衝動を抑えきれないように田口茉莉乃の胸ぐらを掴む。
掴んだ手が、わずかに震えていた。
出口さんが、反射的に一歩踏み出す。
「ちょっと脅しただけよ! ……温室育ちのお嬢様が、少し痛い目を見れば良かったのよ!」
そんなやりとりのそばで、軽井沢さんが青い顔をして呟いた。
「ちょっと待て。社員じゃないのにビルに入った……?」
その言葉に、ハッとする。
「まさか……。このビルに出入りする誰かが、共犯ということですか!?」
「……おい! 誰なんだ!」
律が、再び田口茉莉乃に詰め寄る。
しかし、彼女はツンとした顔で顔を背けた。
「フン、知らないね」
「おいおい……。宝堂グループに提携企業、合わせて何人いるんだよ……」
出口さんが頭を抱える。
社員証を持つ人間。
このビルに正当に出入りできる誰か。
田口茉莉乃は、追い詰められているはずなのに、どこか落ち着いていた。
その違和感が、何か引っかかる。
そのとき、扉が開き誰かが入ってきた。
「御影、先生……お父様……?」
「どうしてここに……?」




