17・脅迫
あれほど胸につかえていたものが、ほんの少しだけ軽くなった気がした。けれど、応接室の空気は相変わらず重い。問題が山積みで、まだわからないことだらけだ。
「そうだ。お父様、軽井沢先生」
思い出して、彰人さんの遺品であるシルバーのスマホをテーブルの上に置く。
「録音データを、一緒に聞いてほしいんです」
「ああ、そうだったな」
私は再生ボタンを押して、最初から音声を流す。
二人とも背筋を伸ばし、緊張した表情で耳を澄ませていた。
養父の口から、ぎりっと奥歯を噛み締める音がする。
いつもは途中でふざけてしまう軽井沢さんも、こればかりは黙って聞いていた。
やがて、さっき私が部屋で聞いていたところまで戻ってきた。
『それで、どうすれば?』
『アタシの言う通りに動いてちょうだい』
ここから先は、私も初めて聞く部分だ。
『このまま、電話をしながら非常口から出て。扉を完全に閉めてから、電話を切らずにしばらく会話をして』
彰人さんが非常口から出た理由──
茉莉乃さんが、指示をしていたのだ。
彰人さんは何かの理由で脅されていて、断ることができなかった。
しばらく沈黙が続く。なんとなく環境音のようなものが聞こえるけれど、彰人さんの様子はまったくわからない。茉莉乃さんに悟られないようにか、息遣いまで殺しているようだった。
キィ、と金属が軋むような音が聞こえた。
おそらく非常口を開けたのだろう。すぐにバタンと扉が閉まる音がして、足音が少しだけ反響している。
この先に、彰人さんがどうなったのか──真実がある。
ごくりと唾を飲み込み、画面を凝視して耳を澄ませる。
その緊張を断ち切るように、向かい側の手がスマホをさらった。
(えっ……?)
顔を上げると、軽井沢さんが停止ボタンを押していた。
「先生……?」
「菜月ちゃん、これ以上は……」
ああ、そうか……ここからは、きっと彰人さんの最期──。
おそらくその音声が残っている。
軽井沢さんは、それを私に聞かせまいとして止めてくれたのだ。
養父も、隣で首を振っている。
「でも、聞かないと……」
「気持ちはわかるが、犯人はわかったんだ。無理はしない方がいい」
……犯人。
その言葉を聞くだけで、胸が締め付けられるようだった。
律が彰人さんの死に関わっていないとわかった時は、本当にほっとした。事故だったのだと信じられるだけで、どれほど救われたか。
けれど、真実に近づけば近づくほど、事故という言葉の輪郭はぼやけて、代わりに〝事件〟という影が形を持ち始めた。──もう、認めなければならない。
彰人さんは殺された。
転落が故意だったのか、計算された結果なのか、まだわからない。
でも、あの場所に追い込まれたのが偶然ではないことは、もう否定できなかった。
「犯人がわかった」と言われても、すべてが腑に落ちるわけじゃない。
むしろ、わからないことがまた増えていく。
彰人さんは、何を脅されていたのだろう。どんな気持ちで非常口の扉を開けたのだろう。
胸の奥にはまだ霞がかかったままだ。
真実がわかったようで、わからない。
ただ、彰人さんが追い詰められていたという事実だけが、残酷なほど明確だった。
悔しさと、やり場のない思いが混ざって、視界がにじむ。気づけば、爪が食い込むほど拳を握りしめていた。
「菜月……」
「菜月ちゃん」
二人の声が重なる。
堪えていたものが決壊し、涙があふれた瞬間──ふわりと、あたたかいものが肩に触れた。養父がすぐに私の横へ来ていた。
その腕が背を支え、そっと抱き寄せてくれる。
温かくて、大きくて、子どもの頃から変わらない香りがした。
「つらかったな……すまん。こんな思いをさせて」
声がわずかに震えている。
それがまた胸に刺さって、涙が止まらない。
向かい側では、軽井沢さんが目を伏せていた。
ただ、静かに、私たちの様子を受け止めるように見守ってくれている。
その距離が、逆に優しかった。
「……菜月。つらいところ悪いが、どうしても気掛かりがある」
養父は私の背中をさすりながら、苦い顔で続けた。
「律だ。……あいつ、茉莉乃のところへ行ったんじゃないか?」
その言葉に、軽井沢さんがはっと顔を上げる。
「たぶん、そうだろう。龍樹、茉莉乃さんの住所は?」
「あれ以来、会っちゃいないよ。今頃どこにいるか……」
「えっ? じゃあ、律くんは茉莉乃さんと連絡を取り合っていたってことか?」
軽井沢さんの疑問に、養父は困惑したように眉を寄せる。
律と茉莉乃さんが実の親子なら、連絡を取り合っていてもおかしくはない。
けれど、律の境遇を知ってしまった今では、それがもう当たり前ではない。
録音で彼女の声を聞いた時の態度、そして、さっき律が家を飛び出したときの、剣幕な様子。二人の間に、何かがあったことは明白だ。
過ぎたことの真実よりも、今は── あの子がどこにいて、何をしようとしているのか。
その方が、ずっと危険かもしれない。
「律に、電話してみましょうか……」
今、どこにいるのか。もし茉莉乃さんのところでなくても、心配なことに変わりはない。
その時、養父のスマホが突然震えた。
画面を見た養父の表情が、みるみる強張る。
「……御影先生だ」
小さく呟く声が、どことなく硬い。
急用にしても、タイミングが悪すぎる。
「すまない、これは出ないとまずい。ちょっと席を外す」
「え……?」
養父は立ち上がり、扉の向こうに消えた。
部屋には、私と軽井沢さんだけが取り残された。
話すこともなくなり、しんと静まり返る。
軽井沢さんが、手を組み替えてそわそわし出した。
何か言いかけた時、私のスマホが震えて、びくりと肩が跳ね上がる。
画面に表示された名前に、嫌な予感が脳裏をよぎる。
軽井沢さんにも聞こえるように、私は慌ててスピーカーに切り替えた。
「律……! 今、どこにいるの!?」
『姉さん……』
返ってきた声は掠れていて、ひどくくぐもっていた。
電話越しでも、まともな状態じゃないことがはっきりとわかる。
『今すぐ、ここに来て……』
その直後、電話の向こうから何かを引きずるような音と、うめき声にも似た音が聞こえた。
電波が悪いのか、距離があるのか、はっきりとは聞き取れない。
それが余計に、胸をざわつかせる。
『田口茉莉乃をつかまえた……。一緒に、兄さんの仇、取ろ?』
「律!?」
言葉の意味が頭に届く前に、血の気が一気に引いた。
「おい! 律くん、早まるんじゃないぞ! 俺もそっちに行くから!」
軽井沢さんが立ち上がり、声を荒げる。
『住所はね──』
律は淡々と住所を告げる。一呼吸おいて、
『待ってるね』
と、弱々しく、それだけ言って通話を切ってしまった。
「……律!? 律!!」
呼びかけてもすでに返事はない。
ただ耳に残るのは、最後の『待ってるね』の言葉。
さっきまで自分の痛みに浸っていたのに、もうそんな余裕はどこにもなかった。
頭の中で、最悪の想像ばかりが膨れあがる。
「……行かなきゃ」
立ち上がる足は震えていたけれど、止まる気はもうなかった。
軽井沢さんも同時に席を蹴る。
「車だ。すぐ向かうぞ!」
空気が、一気に張り詰めた。
息を整える間もなく、何かが動き出す。
──律を止めなければ。
その確信だけが、今の私を前に押し出していた。




