16・律の秘密
重苦しい応接室が、しんと静まり返る。
私はソファに座ったまま、思わずテーブルを両手で叩いていた。
湯呑みに残っていたお茶が、わずかに揺れる。
「律が、宝堂家の人間じゃないって──どういうことですか!?」
自分でも驚くほど声を荒げてしまい、養父と軽井沢さんは困った表情で顔を見合わせる。
「菜月ちゃん、龍樹の奥さん……玲奈さんが亡くなったことは、知ってるよね?」
「はい。私がここへ引き取られる前に、病気で亡くなったと」
そこまでは聞いていた。けれど、なぜ今その話が出るのか。
小さく首を傾げていると、軽井沢さんは養父をチラリと見て、眉を下げた。
「龍樹はねぇ……その後に再婚してるんだよ」
「え……」
思いもよらない回答に、今度は養父に視線を向ける。
養父は、バツが悪そうに頭をかき、つぶやくように言った。
「その相手が、田口茉莉乃。玲奈の友人で、律の──母親だ」
「え……えっと……」
意味はわかるのに、頭の中にうまく落ちてこない。
「つまり、律くんは茉莉乃さんの連れ子だったんだよ」
軽井沢さんが補足してくれるが、言葉が見つからない。
ただソファの上で固まったまま、口の中が乾いていく。
「……知りませんでした……だって、誰も何も……」
彰人さんは当然知っていただろうし、内村さんも知っているはず。
私だけが知らなかったことに少しだけ疎外感を抱く。
けれど、同時にほっと胸のつかえが取れた。
名前で呼び合っていたのは、そういうことだったんだ……。
「まあ、あえて言うことでもないからね。それに、別れ方がめちゃくちゃだったし」
「俊! そこまで言う必要はないだろう」
養父の声が、わずかに荒くなる。知られたくない過去なのだろう。
けれど、〝田口茉莉乃〟の名前を聞いた時の、律のあの態度は尋常ではなかった。
それに、彰人さんを脅すような会話……。
ここまできたら、もう、曖昧なままではいられない。
「お父様」
姿勢を正して、養父に向き直る。
「こうなったら、全部話してください」
「いや、聞いて面白い話でもないし……」
「お父様っ!」
ダンッ! と、先ほどよりも力強くテーブルを叩いた。
掌にじんわりと痛みが伝わってくる。けれど、今はそんなことは気にしていられない。
「茉莉乃さんが、事件に関わっているかもしれないんですよ!? 私は……彰人さんの妻として、知る権利があると思います……!」
目を潤ませ、唇を噛み締める。
軽井沢さんが養父の肩に手を置いて、「龍樹……」と、促してくれた。
少しの沈黙の後、養父は重い空気の中、観念したように口を開く。
「茉莉乃と結婚したのは……玲奈が他界して数年経った頃だ。私もあの頃は玲奈がいなくなって落ち込んでいてな。親身になってくれたのが、茉莉乃だった」
「──で、コロッと騙されたんだよな?」
軽井沢さんが、冗談めかしてニヤリと笑う。
場を和ませようとしているのか、ただの皮肉なのかは判断しづらい。
「茶化すんじゃない」
養父が苦い顔をするが、軽井沢さんは肩をすくめただけだ。
「はいはい」
まるで全然気にしていないように、お茶を一口啜る。
「騙された……?」
私が聞き返すと、軽井沢さんがすぐに言葉を継いだ。
「彼女の狙いは、〝お金〟だったんだよ」
「お金……」
宝堂という名前が、こんなふうに利用されてきたのだと思うと、どこか他人事ではいられない。
「玲奈と茉莉乃は、学生時代からの親友だったと聞いている。家にも何度か来たこともある」
その〝親友〟が、亡き人の夫に近づき、そして律を連れてきた──。
言葉にならない不快感が、胸に沈む。
「実際、会社ではいろいろ噂もあったよ。『玲奈さんの死を待っていたんだろう』『財産目当てなんじゃないか』って。まさか、本当に噂どおりになるとはね」
「庇うわけではないが、最初はそんなことはなかったんだぞ。家事もきちんとして、彰人にも優しく接していた。だが、だんだん家を空けるようになって……。内村さんがいたから、家事に関しては問題なかった。私も仕事で忙しくて、発覚が遅れたんだ」
「まあ、早い話が、外で遊ぶようになっていったんだな。元々、派手な人だったから」
軽井沢さんが補足する。
「気づいた時には、会社の金を使い込んでいてな……。二年で離婚した」
「そ、そうだったんですか……」
養父は淡々と語っているけれど、その声には疲労がにじんでいるように聞こえた。
口を開くたびに、ため息が漏れている。
「いやぁ、あの時の茉莉乃さんはすごい剣幕だったよ。『別れたくない、別れるなら一生呪う』ってね。正直、裁判寸前まで揉めたんだ。養育費をつり上げてきたり、宝堂の名を使って外部に吹聴すると脅されたり……」
軽井沢さんが苦笑まじりで言う。
茉莉乃さんに会ったこともないのに、なんとなく想像できてしまう。
「でも……律はここに残ったんですね?」
おそるおそる訊ねると、養父と軽井沢さんは頷いた。
「うん……茉莉乃さんが連れて行こうとしたんだけどね」
「律が、彰人と離れたくないと言って聞かなかったんだ」
「そう、だったんですか……」
私がここに来たのが二十年前。その頃、律は六歳。
養父と茉莉乃さんが離婚したのが、その少し前──。
律は、そんな小さな頃から孤独を抱えていたのだろうか。
「それに、ここにいた方が律のためになると思った。結婚する前から、育児放棄されていたみたいだからな……」
心がずきりと痛む。
律の距離が異様に近いのは、どこか満たされないものの名残なのかもしれない。
彼の執着のような優しさと、時折見せる不安定さ。
その理由の一端に触れた気がした。
「あの……聞いていいかどうか、わからないですけど……。律の、本当の父親って……?」
二人が一瞬だけ視線を交わす。
養父は眉をひそめ、ゆっくり口を開いた。
「それは──わからない」
「わからない?」
「茉莉乃さん……結婚、してないんだよね。律くんは婚外子になる。菜月ちゃんも知ってると思うけれど、婚外子の場合……」
「父親が認知していなければ、戸籍に名前が載らない……」
自然と言葉をついていた。法律事務所で働いているうちに、何度も遭遇した事案だ。
軽井沢さんが、「その通り」と真剣な顔でうなずく。
律自身は、どこまで知っているのだろう?
自分が宝堂家の血筋ではないこと。父親が別にいること。
そして、本当の父親の名前すら空白であるという事実を。
もし知らないのなら、いつか知る日が来るのだろうか。
知っているのなら……律は、その苦しみを胸のどこにしまい込んで生きてきたのだろう。
「……それと、これも言っておかなければならないが」
少しためらってから、養父は続けた。
「私も、律を認知しているわけじゃない。宝堂姓を名乗らせているが、法律上は〝宝堂家の子〟ではないんだ」
「え……」
まさかの事実に、息が詰まる。
たとえ再婚相手の子であっても、認知という手続きがなされなければ、法の上では親子とは扱われない。戸籍に名前を連ねても、同じ屋根の下に暮らしていても、それだけでは家族の証明にならない——そんな仕組みが、この国にはある。
「だから後継の話になると、どうしても不都合が出る。律が悪いわけじゃない。全部、大人の事情だ」
胸の奥がひりついた。
律の名字は宝堂でも──血縁でも、法律でも繋がっていない。
何故、と聞きたかった。事情があったことは理解している。
それでも胸のどこかが落ち着かなかった。
その問いを形にする前に、養父の声が続いた。
「だが、宝堂の血じゃなくても……私たちは、あいつを家族にすると決めた」
その一言が、胸のざわつきを緩やかに塗り替えていった。
どんな事情より、血でも戸籍でもなく、ずっと家族として愛されてきたという事実の方が——今の自分には、はるかに大きかった。
気づけば、「何故」の問いはすっと喉の奥で消えていた。
「ただ、法律上の扱いは……定まっていない」
その言葉が、律という存在をどこか心細く揺らすようだった。
「……まあ、おまえを引き取る前に、そんなことがあったわけだ」
養父は息を吐きながら、ゆっくりとソファに背を預けた。
長い話を終えたというより、長年抱えていた荷物を少しだけ降ろしたような感じに思えた。
「お父様は、すごいですね」
「ん?」
「律を引き取ったり、行き場のない私を引き取ってくれたり……。普通ではできないことです。本当に、感謝しています」
自分で言いながら、少しだけ胸が熱くなる。
養父は不器用に視線を逸らし、照れたように頬をかいた。
「や……いや、まあ……」
その様子を見て、軽井沢さんがニヤニヤと笑う。
ただ残念ながら、後継問題の話はまったく進まず、続きはまた後日ということになった。
——後継の話をしていたはずなのに。
今日一日で、私は知りすぎてしまった気がした。




