15・交換条件
二人で私の部屋に入り、扉を閉める。
パタン、と小さな音がして、それだけで世界から切り離された気がした。
しん……と、外の気配が遠のいていく。
監視の目は消えたはずなのに、少しだけ緊張する。
「……どれ?」
「このアプリ」
ベッドに並んで腰を下ろす。
距離が近いけれど、今はそんなことを言っていられない。
「よ……よし。再生、するわね……」
私は深く息を吸い、震える人差し指を画面へと伸ばした。
「姉さん」
「ん?」
「姉さんも、俺のお願い聞いてくれる?」
律が、潤んだような目でこちらを見てくる。
顔が近い。嫌な汗が背中を伝う。
今は、そんな話をしている場合じゃないのに。
「なに? 後でなら──」
「キスしていい?」
一瞬、呼吸が止まった。
「こ……こんな時に、冗談やめてよ!」
逃げようと身を引いた私より早く、律の手が肩に触れた。
軽く押されただけなのに、ベッドに背中が沈む。
「──きゃっ!」
抵抗らしい抵抗もできないまま倒された自分に、嫌気がさした。
「冗談じゃないよ」
律の影が覆いかぶさる。
視界いっぱいに、律の顔がある。
「姉さん、俺たち、血のつながりはないんだから」
律の声はいつものように優しいのに。
それが余計に怖い。
「ほんと、危機感なさすぎだよね」
律は微笑みながら、私の頬を撫でる。
背筋を、ぞわりと寒気が走った、その時。
『はい、宝堂です』
スマホから、彰人さんの声が流れた。
どうやら、はずみで再生ボタンを押してしまったらしい。
けれど律は一瞥すらせず、ただまっすぐに私を見ていた。
「姉さん……」
顔がさらに近づく。
「……っ」
動けない。逃げられない。
こんな、つもりじゃなかった。
私は、律の気持ちを甘く見ていたのかもしれない。その思い上がりごと、今押し倒されている。
でも、真実のためなら……。覚悟を決めて、ぎゅっと目を閉じた。
吐息がかかる距離。
お互いの唇が触れそうになった直前──
『……久しぶりね、彰人くん』
甘く、撫でつけるような声。
耳の奥に残る香りまで立ち上るような、艶のある女性の声だった。
ギシ……とベッドの軋む音がして、律の気配が遠のいた気がした。
覚悟していたはずの先が、いつまで経っても訪れない。
固く閉じていた瞼をおそるおそる開くと、目の前で律がこちらを見ている。
さっきとはまるで別人のように、血の気の引いた顔──。
この世の終わりを突きつけられた人間の、絶望そのもののような表情だった。
「この、声……!」
『茉莉乃さん……?』
「田口、茉莉乃……ッ!」
彰人さんの震えるような声と、律の締めつけるような声が重なった。
次の瞬間、律は弾かれたように上体を起こし、駆け出すように部屋を飛び出した。
「えっ、ちょっと……!」
わけがわからず、私は律を追いかける。
玄関で、律が靴を乱暴に足へねじ込んでいるところに追いついた。
「律、どうしたの!? なにが──」
「姉さんは来るな!!」
今まで聞いたことがないほど荒く、鋭く、剥き出しの感情だった。
その怒鳴り声に、足が固まる。
律は靴の踵を踏んだまま、外へ飛び出していった。
スマホからは、まだ彰人さんと女性の声が流れ続けている。
だけど、頭に入ってこない。
私は玄関に立ち尽くしたまま、しばらく動けなかった。
(でも……助かった……)
ようやく思考が戻ると、身体が遅れて震えた。
律にキスされそうになっていたのだと、今さら理解する。
現実味がなくて、まるで自分を遠くから見ているようだった。
どっと疲れが出て、ゆっくりと壁にもたれかかる。
彰人さんが救ってくれたような気がして、スマホをぎゅっと握りしめた。
それにしても、律のあんな顔、初めて見た。
再びベッドに腰を下ろし、スマホを両手で包む。
あの女性の声を聞いた途端に──
「たぐち、まりの……」
口に出してみるけれど、覚えのない名前だった。
誰なんだろう?
彰人さんも、律も知っている女の人。
私だけが、知らない人……。
さっきの続きを聞かなければ。
律がいなくても、なんとか一人で。
もう一度、最初から再生する。
『はい、宝堂です』
彰人さんの、落ち着いた声。
少し懐かしくて、胸が締め付けられる。
『……久しぶりね、彰人くん』
『茉莉乃さん……?』
彰人さんの声は、なんとなく戸惑っているような気がする。
名前で呼び合うような関係なんだ……。なんだかモヤモヤする。
そういう仲だった? ……いいえ、彰人さんに限って、そんな。
でも、『久しぶり』と言うなら……過去に接点があったのは間違いないだろう。
元恋人の可能性も、拭いきれない。
『ちょっと頼まれてほしいんだけど』
『はぁ……またですか』
(また……?)
口ぶりから察するに、元恋人……というわけでもなさそうだ。
『断れば、どうなるかわかってるわよね?』
『……ええ』
なんだか物騒な感じに、ヒュッと息が細くなる。
彰人さんは、脅されていた……?
『ふふ、相変わらず真面目ね』
『それで、どうすれば?』
『アタシの言う通りに動いてちょうだい』
その時、玄関の扉が開く音が聞こえた。
律が帰ってきたのだろうか?
一旦再生を止めて出迎えると、養父と軽井沢さんだった。
「お父様……軽井沢先生!?」
「今、律くんとすれ違ったけど、なにかあったのかい? やけに慌てていたけど」
「それが……」
先ほど、アプリの通話内容を聞いた途端に律が出て行ってしまったことを伝える。
「電話の向こうの女性の声を聞いて……急に」
「女性……?」
「〝田口茉莉乃〟と。そう言っていました」
名前を聞いた瞬間、養父が目を逸らした気がする。
「ちょっと見てくる」
「俊!」
「すぐ戻る」
養父が呼び止めたけれど、軽井沢さんは脱ぎかけたコートを再び羽織り出ていった。
バタンと扉が閉まる音に私と養父だけが取り残されたようで、部屋の空気が急に重くなる。
沈黙に耐えかねたように、養父が口を開いた。
「菜月……茶を頼めるか?」
「はい……」
「おまえにも同席してほしい」
促され、私はお茶を用意して応接室へ向かった。
養父と二人きりになるのは久しぶりで、少しだけ気まずい。
防犯カメラの礼を伝えると、養父はただ一言「そうか」とだけ言ってお茶を口にした。
おかげで、いくつか点と点がつながり始めている。
真実に、手が届きそうな気がした。
しばらくして、軽井沢さんが戻ってきた。
考えてみれば、私は養父よりも軽井沢さんと一緒にいる時間の方が、長い気がする。
仕事上のことだけではない。私がこの家に初めて来た時も、弁護士として軽井沢さんが付き添い人だったし、何かあると忙しい養父よりも連絡のつきやすい彼に相談していた。
それは私だけでなく、彰人さんや律もそうだった。そういうわけで、養父と二人きりよりも軽井沢さんがいてくれた方が、ほんの少し、この気まずい空気が和らぐ。
「ダメだ。もういなかった」
「そうか。悪かったな」
「あの、どうして軽井沢先生がうちに?」
訊ねると、養父は深くため息をついた。
「……御影先生に、後継のことをせかされてな。相談で来てもらった。おまえも、何か意見があったら言ってほしい」
「……はい」
律のことは心配だけれど、さっきの剣幕──
『姉さんは来るな!!』
あんな律、初めて見た。
追いかけなくていいの? でも……どこへ行ったか、わからない。
そんな私の気持ちとは裏腹に、養父と軽井沢さんは宝堂グループ重役の履歴書等をテーブルの上に広げ、話し進めている。
「副社長の高城さんは?」
「優秀だが、トップを任せるとなるとまた話は別だ──」
養父と軽井沢さんは、彰人さんの代わりを探している。
それは当然のことだし、仕方のないことなんだけれど……。
彰人さんの存在した場所が、どんどんなくなっていくようで、心の中にモヤモヤが広がっていく。
重役の中には、過去に私がお見合いをした人物も数人いた。それでも、ほとんどが名前を聞いたこともない、知らない人ばかりだ。
同席してほしいとは言われたけれど、私がここにいる意味はあるのだろうか?
二人の会話を聞きながら、私はふと疑問を抱いた。
「あの……ちょっといいですか?」
「なんだ?」
「律を後継にしないのですか? たしかに律はグループの仕事には関わっていないけれど……。それはこれから覚えていけばいいだけで」
もちろん、本人のやる気の問題もあるが。
でも、それでも二人の口から、律の名前が一切上がらないことが不思議だった。
養父と軽井沢さんは顔を見合わせる。
「龍樹、もしかして菜月ちゃんに言ってないのか」
「……あえて言うことでもないだろう」
「まあ、言いづらいのはわかるが」
二人の態度にきょとんとする。
なにか、おかしなことを言ってしまっただろうか?
養父が意を決したように、口を開く。
「菜月。律は──宝堂の人間ではない」
「──え?」
「おまえと同じ、養子なんだ」
「えっ? えっ……?」
思考がかき乱される。
律が……養子……? 私と同じ……?
えっ……? だって、私がこの家に来た時に、律はいて。
彰人さんの弟だと紹介されて……。
混乱していると、養父は重々しく口を開いた。
「律の母親の名は──田口茉莉乃」
その名前は、先ほど律が言ったものと同じ。
私の脳裏に、律が叫んで飛び出して行った後ろ姿がよぎった。




