14・彰人の言葉
通信会社の建物から出ると、すっかり日が暮れていた。
軽井沢さんと出口さんにお礼と別れを告げて、私と律は群青色の空の下を帰路につく。
──結局、クラウドに通話録音が残っているかもしれない、という話は出たものの、そこにアクセスするには手続きと時間が必要。それでも、暗号化されている可能性が高く、解読不可能な場合もある。結局、彰人さんが使っていた録音アプリから聞く以外に、方法がない。
「せめて、兄さんの使っていた録音アプリがなんなのかわかればなぁ」
頭の後ろで手を組みながら、律が隣で言う。
「でも、仕事用スマホは解約されていたし……」
早く真相を知りたいのに。
それでも、ほんのわずかでも前に進めていると、信じたい気持ちはあった。
それ以上、会話は続かなかった。しばらく黙って歩いていると、律がこちらを見た。
「姉さん。手、出して」
「手?」
言われるまま、律のほうに手を差し出す。
「はい、今日がんばったご褒美」
掌に乗せられたのは、彰人さんの指輪がついたストラップだった。
緑の石も、外れていた飾りも、すべて元通りになっている。
壊れていた姿が嘘みたいだ。
「こんなに早く直してくれたの?」
「うん。今度はちゃんと、切れないように細いチェーンにしてみた」
触れると、以前よりもひんやりとした感触があった。
「ありがとう……」
そう言いながら、私は一瞬だけ迷って、ストラップを鞄の中にしまった。
また失くしてしまったらと思うと、今すぐどこかにつける気にはどうしてもなれなかった。
律は何も言わなかった。
気づいていないのか、気づかないふりをしたのかは、分からない。
鞄の中で、小さく金属が触れ合う音がした。
彰人さんが見守ってくれている。そんな風に思えた。
家に帰り、律と部屋の前で別れた。
なんとなく律の顔にも疲労が見えていたから、黙って背中を見送った。
ベッドに大の字になって仰向けになり、思考に耽る。
「……仕事の電話、だったのよね」
彰人さんは仕事用スマホで着信を受けて、法律事務所から出て、非常階段に行って──そのまま……。
非常階段に向かった理由が、まだわからない。
御影法律事務所はビルの八階にある。いつもはエレベーターを使うのに。エレベーターの点検や故障も聞いていない。健康志向で階段を使っている素振りも見たことがない。
あの日、あの時だけ……。思考が空回りする。
「スマホ…………スマホか……」
それが鍵になる気がして、思わずつぶやく。
「そういえば……」
起き上がって、机の引き出しを開ける。
遺留品である、彰人さんのシルバーのスマホ。
もう解約しているけれど、初期化はされていない。
電源を入れると、ロック画面が現れる。
(パスワードは……)
彰人さんの誕生日。
違う。
私の誕生日。
違う。
じゃあ──結婚記念日?
四桁の数字を入力すると、制限がかかってしまった。
「……どれも違う?」
どうして……? 彰人さんのことだから、この三つのどれかだと思っていたのに。
家族の誰かの誕生日……? その後、制限が解除されてから養父、律、内村さん、亡くなった玲奈さん、全ての誕生日を入力してみたけれど、ダメだった。
(もしかしたら誕生日じゃないのかも……)
制限と解除を繰り返し、車のナンバー、法律事務所の電話番号下四桁、いろいろな番号を入力してみたけれど、全部違う。
「ああ、もう!」
これ以上間違えると数時間待たなければならなくなる。
スマホをベッドの上に放り、もう一度ベッドに身体を沈めた。
「彰人さん……なにかヒントはないの……?」
幽霊になって現れてくれたらいいのに、なんて。
手を伸ばして、空をつかむ。
でも、もしそばにいても彰人さんの言葉は聞こえなかったりして。
亡き夫の面影を思い出して、くすりと笑う。
(……彰人さんの、言葉?)
ガバッと起き上がる。
今度は引き出しから彰人さんの日記を取り出した。
ここには、彰人さんの言葉が綴られている。
ヒントがあるとしたら、もう、これしかない。
縋る思いで、日記を開く。
最初に見つけた時は正直、まともに読めなかった。
ページをめくるだけで胸が締めつけられて、流し見ることしかできなかった。
でも今は、あの頃より少しだけ前に進めている気がする。
だから、ちゃんと向き合いたい。
彰人さんが残した言葉を、ひとつ残らず。
唇を噛み締め、目を潤ませながら読んでいく。
《20XX年 6月 6日
今日から日記をつけていこうと思う。
始まりの今日が、俺と菜月の結婚記念日だ。新居で二人きりは緊張するが、式を終えて、やっと一息つける。菜月は、もうベッドで寝息を立てている。大人になってからの寝顔を、初めてちゃんと見た。かわいい》
そういえば、律や軽井沢さんにもこの日記を見られたことを思い出し、途端に恥ずかしくなる。
《20XX年 7月23日
菜月が初めて、俺の前で料理を失敗した。
焦げた卵焼きを見せながら「ごめん……」と小さくうつむいていた。味は正直……まあ……アレだったが、失敗した時の菜月の顔を思い出すと、今でも微笑ましい。》
彰人さん、こんな些細なことまで書いていたの?
クスッと笑ってしまう。その後も、毎日の小さな出来事が綴られていた。
読み進めていくと、途中で1ページびっしりと文字の埋まったページがあった。
《20XX年 9月10日
俺の帰りが遅くなる日、菜月は必ずリビングの電気をつけて待っている。
テレビをつけながら、ソファでうたた寝していた。ブランケットをかけたら、小さく「……おかえり」と呟いた。その一言が、仕事で疲れた心を全部ほどいてくれる。
これを〝幸せ〟と言うんだろう。
だが、俺は今でも菜月と結婚して良かったのかと、思うことがある。》
(──え?)
《宝堂の名前を背負うこと……それを菜月にまでさせていいのか、と。プレッシャー、義務、周囲の期待……それらに押し潰されそうになってきたのは、俺自身よく知っている。
菜月はそんな場所とは無縁の世界で生きてきた。自由で、真っ直ぐで、あたたかい。
その彼女を、俺は〝宝堂〟という檻に連れてきたのではないか、とふと怖くなる瞬間がある。
彼女が背負うはずのなかった荷物を、俺と結婚したせいで抱かせてしまっているのではないか。》
「そんなこと……」
彰人さんはいないのに、思わず答えていた。
《それでも。
菜月がソファで眠る姿を見つめていると、やっぱり思う。
この人と生きていきたい、と。
この人の隣で歳を重ねたい、と。
どれだけ悩んでも、答えはそこに行き着いてしまう。
だからせめて、彼女の負担を少しでも減らせるよう、俺が強くならなければいけない。
宝堂の名に俺が潰されるわけにはいかない。彼女を巻き込んだ以上、なおさらだ。》
「彰人さん……」
最初に読んだ時以上に、涙が頬を伝った。
文字が滲んで読めなくなり、指で何度も拭った。
《20XX年 12月31日
初めて二人で迎える年末。
二人で年越しそばを作って食べた。
菜月といると、なんてことのない日が、全部特別になる。
来年も、再来年も、その先も。どうか、このままで。》
《20XX年 1月13日
今日は朝から雪が降っていた。珍しい。
他には、これといって書くような出来事はない。けれど、この日だけは忘れたくなくて、記しておく。
十七年前の今日——菜月と出会った日だ。あの時も雪が降っていた。
軽井沢さんが連れてきた小さな女の子は、肩にうっすらと雪を乗せたまま、人形をぎゅっと抱きしめていた。そんなことまで、よく覚えている。
父が突然、「今日から家族になる。名前は菜月だ」と告げた。
あの頃の俺は、父の行き当たりばったりなお人好しに呆れるばかりだったが、それで菜月と出会えたのも事実だ。
あの日のことを、俺は一度だって忘れたことがない。
毎年、この日だけは、どうしても特別に思えてしまう。》
──1月13日?
なんとなくその日付が気になって、日記を読み進めるのを止める。
この家に来た日は、たしかに雪が降っていた。でも私は、日付までは忘れていた。
彰人さんにとって、特別な日になっていたなんて──。
きゅっと胸が苦しくなる。
その時、私の中でひとつの可能性が浮かんだ。
(まさか……)
ページの続きを視界から外し、半信半疑でスマホに入力した。
《0113》
パスワードが、解除される。
「やった……!」
彰人さんとの想いが通じたような気がして、思わずスマホを抱きしめた。
私との出会いを、こんな形で残してくれていたなんて。覚えていてくれたことが、嬉しい。
けれど開いたからといって、私に見つけることができるだろうか。
警察は、問題ないと言っていたのに。
そもそも、警察はどこまで調べてくれたんだろうか?
詳しい内容は聞いていない。
着信履歴やメール、メッセージを調べるが、確かにこれと言っておかしなものはなかった。
DM以外では私や律、養父、内村さん、昔の友人……見知った名前ばかりだ。
カレンダーのスケジュール機能や、メモ帳アプリなども開いてみる。
これといって問題ない。
アプリの一覧をスクロールしていくと、ゲームなどのアプリもあって、思わずクスリと笑う。
彰人さんでも隙間時間にゲームするんだって、微笑ましくなった。
すると、下の方に見慣れないアイコンがあった。
「通話……録音アプリ?」
ガバッと画面を顔に近づける。
『いちばんいいのは、兄さんがなんのアプリを使っていたか、わかることかな』
通信会社で言っていた、律の言葉を思い出す。
もしかして……もしかしたら──縋る思いでアイコンをタップする。
アカウント連携で簡単に開くことができた。
クラウド上に、データが残っている。
録音時刻は──九月の、あの日。
心臓がひときわ大きく跳ねた。
この向こうに、真実があるの──?
これでわかるかもしれない。
そう思うと、指が震えた。
「律……!」
気づけば、律の部屋の扉を強く叩いていた。
中からごそごそと人の気配がして、扉が開く。
頬にシーツの跡をつけたままの律が、顔を出した。
「姉さん、どうしたの? そんなに慌てて」
「お願い、一緒に聞いて……!」
彰人さんのスマホを両手で握ったまま懇願する。
クラウドに通話の録音が残っているかもしれない──そう説明すると、律は目を見開く。
一人で聞く勇気がなかった。
このデータには、何が録音されているのか。
もし、それが──私が踏み込んではいけない真実だったら。
けれど、聞かなければ前に進めない。
進まなければ、ずっとあの日のまま、止まってしまう。
息を震わせながら、喉に力を込めもう一度言う。
「……お願い、律」
律は、すぐには返事をしなかった。
ただ、私の顔と、スマホを握りしめた手を見て、ほんの少し目を細めた。
「ん……わかった」
本当は律に頼るべきじゃないのかもしれない。
私も、本来なら毅然と自分の足で立っていなきゃいけないはずで。
それでも、一人であの日に向き合う勇気は、どうしても出なかった。




