12・真実への一歩
翌日、御影法律事務所の給湯スペースで、私と軽井沢さんは並んでコーヒーを淹れていた。
いつもなら、私が淹れて席まで持って行くのだけれど、最近は日記の話もあり、こうした隙間時間で会話をすることが多くなっている。
日記の一文を書いたのは律だったと報告すると、軽井沢さんは隣でマドラーをくるくる回していた手を止めた。
「えっ? 律くんだった!?」
「はい……」
お互い神妙な面持ちでいると、向こうから声が飛んできた。
「えっ? 今、リッくんの話した!?」
衝立の向こうから、真子さんが勢いよく身を乗り出してきた。
相変わらず、律の話になると耳がいい。
「リッくんの新しい情報!?」
「はいはい、三浦さんはごめんね。これは姉弟に関する大事〜な話だから」
軽井沢さんが真子さんの両肩を持って、回れ右させる。
「えぇ? なんでですか。ところで、なんで菜月ちゃんは〝ちゃん〟付けなのに、私は名字に〝さん〟付けなんですか!」
「ん? 真子ちゃんって呼んでほしい?」
軽井沢さんがニヤリと口角を上げると、真子さんは肩を震わせる。
「……いえ、結構です!」
真子さんと軽井沢さんが揃うと、まるで漫才を見ているようで事務所の空気が和む。
*
「それにしても、なんで律くんが……」
依頼人のところへ向かう車の中で、ハンドルを握ったまま、軽井沢さんが独り言のようにこぼした。
助手席の私は、軽井沢さんの横顔を見ながら言葉を探す。
そうだった、それを説明しなければ。
でも……昨日のことを話すのは、正直憚られる。
律の、あの目。張りついたような笑み。義弟としての顔しか知らなかった私に向けられたあの狂気にも似た感情を、軽井沢さんに話してもいいものかどうか。
私自身、まだ整理できていないのに。
黙っている私を、軽井沢さんは追及しなかった。代わりに、少し口調をやわらげる。
「でも、これで〝他人が書いた〟ってことは証明できたわけだ」
「そうですね……でも」
声が細くなりながらも続ける。
「律は、書いただけでした」
私の言葉に、軽井沢さんは少しだけ眉を上げる。
「イタズラ……ってこと?」
イタズラ、で済む話ではないのかもしれない。けれど、説明するのにこれ以上の言葉が見つからなかった。
「……そんな、感じです」
心のどこかでわかっている。
いつか必ず、律の気持ちと向き合わなければならない日が来る。
知らなかったふりでは、もう進めないところに私は立っているのだ。
「でも、これで日記の違和感は消えたんだ。良かったね、菜月ちゃん」
「いえ、それが、その」
口ごもる私に、軽井沢さんがちらりと視線を寄越す。
信号が赤になって止まり、エンジンの音だけが静かに響く。
「昨日、律とも話していたんですが、やはり事故じゃないのかも、って……」
「それはまた……どうして?」
「そもそもなんですが、非常階段にいたこと自体がおかしいんです。警察は遺留品も防犯カメラも問題なかったと言っていましたが……」
一度、息を整える。言葉にするほど、不安は輪郭を持ちはじめる。
「私の目で、防犯カメラを見てみたいんです。軽井沢さん、なんとかできませんか?」
「さすがに、俺にその権限はないから、龍樹に相談するしかないな」
「お父様……」
養父は、彰人さんの死についてほとんど語ろうとしなかった。
『事故だった』と、わずか一度だけ。それ以上を、拒むように。
真実に触れることは、たぶん傷を広げることになる。
けれど、もう引き返せない。私は知らなければならない。
彰人さんが、どうして非常階段にいたのか。どうして、事故になったのか。
信号が青になり、車は再び走り出した。
***
宝堂グループ本社ビルの社長室。
ソファに腰をかけて向かい合っているのは、宝堂龍樹と御影昌志だった。
龍樹は、御影が苦手だった。脚を組んだまま微笑を浮かべ、その笑みは柔らかい。しかし、どうしても龍樹には御影が棘を含んでいるように見えるのだ。今日の空気は、いつにも増して重い。
「法務に関しては私が彰人くんの後を継ぐとして……宝堂の後継はどうなされるおつもりで?」
御影の問いは雑談の延長を装っていたが、その目は核心に踏み込ように鋭く光っていた。
「いや……まだとても、そこまでは」
龍樹は苦笑いでごまかすしかなかった。
四十九日を過ぎても、まだ息子の死を引きずっている。
それに現実問題、能力的に彰人の代わりになる者がいなかった。
企業内弁護士は仕方なく御影に任せるとしても、グループのトップとなると、また話は別だ。
黙っていると、御影が小さくため息をついた。それは、失笑のようにも聞こえた。
「もう四十九日も過ぎているというのに、随分とゆっくりですな。書類関係のこともありますし、なるべく話を進めておいた方がいいのでは?」
「そうですね……頭では、わかっているんです」
本心を言えば、龍樹は軽井沢に企業内を任せたかった。しかし、軽井沢は国際案件に手慣れており、基本は海外を任せている。他に彰人ほど仕事を任せられる者は、現時点では御影しかいないのだ。
「ちなみに、菜月さんと律くん、どちらに継がせようと思ってるんです?」
そこまで突っ込まれた質問をされると思ってなかった龍樹は、目を瞬く。
嘘はつけない。かといって、深入りもされたくない。
「いや、さすがに二人は彰人ほどグループのことを理解しておりません。律は経営に興味がなく、全く関係のない職ですし……。強いていうなら、グループのことをよく理解している人物と、菜月を結婚させるかですかね……」
「ほう……」
当たり障りのない回答をすると、御影は薄く笑い、なにかを考える風に顎に手をやった。
「しかし、彰人を亡くしたばかりで菜月もまだ……。それに、菜月には自由に生きてほしいんです」
湯呑みの茶に反射する、自分の顔を見つめる。
菜月には申し訳ないことをした。彰人と結ばれやっと幸せになってくれると思っていたのに。
自分は父親の代わりになれただろうか。
そんなことばかり考えてしまう。
「それは、罪滅ぼしのつもりで?」
「は……? それは、どういう……」
虚をつかれた質問に、龍樹は顔を上げる。
「たしか、菜月さんはご両親を亡くされて養女になったとか」
その言葉に、龍樹の眉がぴくりと動く。
「なにが言いたいんです?」
先ほどまでとは変わって、声が低くなる。
御影は表情を変えず、ただ指先で肘掛けをとん、と叩いた。
「いやなに。ちょっと小耳に挟みましてね。二十年前の、事故のことを──」
空気が変わった。
龍樹の胸の奥に、忘れたはずの影が、不意に息を吹き返す。
***
依頼人との打ち合わせを終えて、私と軽井沢さんは宝堂ビル最上階の社長室へ向かった。
ドアをノックし中へ入ると、先客がいた。
「おや、軽井沢先生と菜月くんじゃないか。どうしたんだ?」
「御影先生……」
軽井沢さんの眉が、一瞬動いた気がした。
「お父……社長に、お話がありまして」
御影先生の前では、話しづらい。
その空気を感じ取ったのか、御影先生は軽く笑って立ち上がった。
「ああ、いいよ。私の用は済んだからね。では、宝堂社長……いいお返事をお待ちしております」
そう告げると、振り返ることもなく部屋を後にした。
御影先生が出ていく時に、軽井沢さんが御影先生を睨んだ気がした。
やはり、派閥問題は深刻なのだろうか。
「龍樹、御影先生の話ってのは……」
「ああ、彰人の後任だ。自分がなると言っている」
養父は、やれやれと言った感じで首と肩を回す。
あの御影先生を相手にすると、養父ほどの人でも消耗するらしい。
(──また、後継の話……)
何度も何度も、彰人さんの死を引きずり出されて、並べられて。
怒りより先に、言いようのない疲労が込み上げてくる。
「ところで、電話じゃできない話とはなんだ」
養父は、秘書にお茶を片付けさせて、こちらを向いた。
私たちもソファに座ると、新しいお茶が並べられた。
「お父様。防犯カメラを見せてもらいたいんです」
「防犯カメラ?」
「彰人さんが、亡くなった日のものです」
私が言うと、養父はわかりやすくため息をついた。
「菜月、なにを考えている? 彰人は事故だった。そうだろう? 探偵ごっこなら余所でやりなさい」
「探偵ごっこじゃありません!」
思わず声が強くなってしまう。
その時、扉がノックされた。
返事も待たずに入ってきたのは、律だった。
「父さんこそ、世間体を気にしているんじゃないの?」
「律! どうしてここに?」
動揺のあまり立ち上がる。
昨日のこともあり、少し気まずくて目を合わせるのが怖い。
でも、律はいつも通りだった。
「多分、姉さんと同じ理由だよ」
律は迷いなく養父と軽井沢さんの間に歩み出る。
〝世間体〟という言葉が気に障ったのか、養父の表情がぴりついた。
「なんだと、律?」
「まあまあまあ、落ち着いて」
軽井沢さんが宥めに入る。
養父は、私たち三人を見くらべるようにしてから、軽井沢さんへ話を振った。
「なんだなんだ、三人でよってたかって。俊、おまえの見解はどうなんだ?」
「減るものじゃなければ、何度見たってかまわないと思うけどね」
軽井沢さんは肩をすくめて、苦笑した。
「まったく……」
そう言って、養父は机の引き出しから一枚の紙を取り出した。
その上にペンを滑らせる。サインと判子だ。
防犯カメラ閲覧の許可証だった。
「今日中だ。今日中になにも見つからなければ、諦めろ」
「ありがとう、お父様」
社長室を出ようとすると、養父が軽井沢さんだけを呼び止めた。
「待て、俊。おまえはここに残ってくれ」
軽井沢さんの視点も欲しいところだったけれど、お父様の表情があまりにも真剣だ。
きっと込み入った話なのだろう。私は諦めて、律と共に管理室へ向かう。
「──話がある」
扉を閉める前に、養父の真剣な声が背中に届いた。




