11・狂い始めた歯車
「……うそ……」
「……あれを書いたのは、俺だよ」
律の言葉に、息が止まった。
彰人さんの日記に残された《律には気をつけろ》──あの走り書き。
それが、律本人の手によるものだったなんて。
けれど、文面からして律はありえないと思っていた。
「ど、どうやって……彰人さんの日記に書き込んだの……?」
クローゼットの奥深くにしまい込んであったのに。
隠し場所を知っていなければ、できることではない。
それに、彰人さんが亡くなってから律が新居へ来たのだって、数回だ。
その間に私の目を盗んで書くなんて、できるはずがない。
「簡単なことだよ。俺、合鍵を持っていたから」
あっさりと答えた律の声が、信じられなかった。
合鍵なんて……渡した覚えはない。
「いつの間に……」
「教えてほしい?」
返事を待たずに、律は話し始める。
私と彰人さんが新居に住み始めてしばらくした頃──律が一人で遊びに来た。
彰人さんは仕事でおらず、私と律で買い物に出かけようとしたら、玄関の鍵が見つからない。
散々探しても出てこなくて、このままでは出かけられないと、私は引き出しにしまってあったスペアキーを持ち出してきた。その時──
「あ、あったよ、姉さん」
「え? どこにあったの?」
「玄関の棚の下に落ちてたよ」
「落としたのかしら……」
鍵が見つかったので、私はスペアキーを引き出しに戻した……はずだった。
──あの時。
律は隠し場所を知り、私が目を離したほんの数秒の間に、スペアキーを拝借していたのだ。
そこから合鍵を作り、私たちが留守の間にここへ来て、何事もなかったかのようにスペアキーを戻す。
一連の流れを聞いて、背筋が凍るようだった。
「いやぁ、姉さんの目を盗んで玄関の鍵を手に入れるのが大変だったよ」
落としたのではない。
すべて、律が計算して仕組んでいた。
それを律は、まるで楽しかった出来事のように、笑顔で話す。
「そんなことまでして……。なんで合鍵を……」
そういえば、日記を見つけたあの日、律は音もなく家に入ってきた。
あの時は玄関の鍵を閉め忘れたのだと思っていたけど、合鍵を持っているから、いつでも入ってこれたんだ……。
「本当はね、いざという時以外、合鍵を使うつもりはなかったんだ。でも、兄さんが死んで、ちょっと思いついちゃってさ」
「思いついたって……なにを?」
「日記だよ」
律は、まるで秘密を共有できることを嬉しがる子供のように笑った。
「兄さんが日記を書いていること、知ってたんだ。でも、なにを書いてるかまでは知らなくて。お葬式が終わった後に読んでみたら、震えたよ……姉さんのことばっかり書いてあるんだもん」
淡々と話していたはずなのに、気づけば語尾に熱がこもっているように聞こえた。
抑えが効かなくなっていく。
「ああ……兄さんは姉さんのこと本当に愛していたんだって、ゾクゾクした。こんなの読んだら、姉さんはまた兄さんのことを思い出して、兄さんのことでいっぱいになってしまう……! そう思ったんだ」
悔しがるとか、寂しがるとか、そんな感情じゃない。
まるで、胸をかき立てられる名画のワンシーンに酔いしれているかのような、熱のこもった言い方だった。
「だから、俺が最後に書き加えた」
その一言を境に、律の温度がすっと下がった。
部屋の空気までも冷え込んだように、しん……と静寂が落ちる。
「ねえ姉さん、あれを見てどう思った?」
律の顔が、真っ直ぐに私を見つめていた。
その視線に射抜かれるように、呼吸が乱れる。
「俺のこと……気になったでしょ? 気になって、気になって、気になってしょうがなかったでしょ?」
無邪気な微笑みが、狂気に包まれている気がした。
喉で言葉が詰まる。
律はゆっくりと、私の目の前に跪いて手を取りそして──手の甲に口づけを落とす。
「大事なのは、姉さんの頭の中が俺でいっぱいになること。それだけだよ」
反射的に手を引こうとしたのに、指先が強ばってうまく動いてくれなかった。
震える手を引っ込めて、ようやく律を睨み返す。
「……犯人だって思われるかもしれない、とは考えなかったの?」
「犯人? だってあれは事故でしょ?」
「でもさっき、〝排除してきた〟って……!」
私が言うと、律はぴたりと口を閉ざした。
表情が抜け落ちたみたいに、すうっと無機質になる。
「……うん。兄さん以外をね」
「え……?」
それは、どういう意味……?
律は、再び笑顔を向ける。
「俺はね、兄さんも姉さんも大好きなんだ。だから、二人が結婚した時、正直安心したんだ。ああ、これでもう、排除しなくて済むって」
律の笑顔は天使のようだった。それなのに、背中のぞくりとした感覚が消えない。
排除って、何を……? 誰を……?
嫌だ、聞きたくない。だけど耳が勝手に律の声を追いかけてしまう。
コルクボードの写真が視界に入る。さっきの男の人たちの×印が、やけに赤く見える。
まさか──。
ごくりと唾を飲み込み黙っていると、ふっ、と空気が変わった気がした。
律の表情が、いつものように戻っていた。けれど、少しだけ寂しそうだ。
「でも、そっか。姉さんは日記を見て、兄さんの他殺を疑ったんだ? 俺が犯人かも、って?」
「そうじゃ……ないの……?」
律は一歩離れて、ただ、寂しそうに首を横に振った。
肯定とも否定とも取れる。けれど、直感的にわかった。
律は、事件に関与していない。
ようやく私は息が出来る感覚が戻ってくる。
「律は犯人じゃないのね? やっぱり事故だったのね?」
そうだ、今はそこを喜ばなければ。
律を疑っていた自分を反省して、少しだけほっとした。
けれど、じゃああの昨夜の電話は──
『兄さんの話はするな──反吐が出る』
あれは一体、なんだったの……?
聞こえたのも断片的だったから、勘違いだったと思いたい。
律に訊こうかどうか迷っていると、いつの間にか、真剣な目を向けられていた。
「姉さん……」
その変化に、再びひやりとする。
「姉さんのカンは、案外当たってるかもしれないよ……」
その一言に、空気がぴんと張り詰められたように感じられた。
「……どういうこと?」
「俺も、兄さんの死は事故じゃない気がしてたんだ」
「え……?」
言葉を失った。
律は視線を逸らさず、落ち着いた声で続ける。
「だって、変じゃない? なんで兄さんは、非常階段なんかにいたの?」
「それは……」
わからない。返す言葉が見つからなかった。
あの日、警察が来て現場を調べ、彰人さんの所持品を持ち帰っていった。
数日後に返されたものは、社員証、スマホ、財布──中身もきちんと入っていた。
衣類に乱れもなかったことから、争った形跡もないと説明された。
わざわざ非常階段からビルを出ようとした理由……。
それがわかれば。
「防犯カメラ、見れないかな?」
ぼそり、と律がつぶやいた。
「でも、すでに警察がチェックしてるんじゃ……」
「警察にわからなくて、俺たちに気付けることがあるかもしれない。行こう、姉さん!」
律が私の手首に触れた瞬間、体がぎゅっと固まる。
心臓が嫌な音を立てて、手のひらが汗ばむ。
怖い。怖いのに、律の真剣な目を見上げると、胸が締め付けられる。
あの電話のこと、日記のこと、彰人さんのこと……思いが次々に押し寄せ、頭の中がぐちゃぐちゃになり──。
気づけば、私は思わず手を振り払っていた。
パシッと、部屋に乾いた音が響く。
「ごめん……律……。私……あなたのことがわからない……!」
ずっと一緒にいた義弟なのに。
今はただ怖くて、触れられたくない。
目の前の律が、なんだか遠い人に見えた。
「姉さん」
律は寂しそうに微笑んで、近づいてくる。
後ろは机で、逃げ場もない。身体をのけぞるけれど、律は私をぎゅっと抱きしめた。
「律……!」
腕の中で声が震える。
離れようとしても、腕ごと抱え込まれていて動けない。
律は何も言わず、ただしばらく私を抱きしめたまま黙っていた。
律の鼓動が伝わってくる。きっと、私の鼓動も──。
「俺は、姉さんが好きだけど」
耳元で、律の声が落ちた。
どくん、と心臓が大きく波打つ。
(好きだけど……なに? なにか言ってよ……)
逃げられない。
動けない。
このまま、律になにかされる……?
そう思った時だった。
「姉さんは──俺を好きにならないで」
寂しそうな、泣きそうな声で。
態度とまるで逆の言葉を、吐き出した。
私は、まだなにひとつ理解できていない。
律の心の奥底にある、狂気にも似た想いを──。




