10・律の部屋
昨夜は律のことで不安になりながら布団に潜ったけれど、気づいたら朝だった。
カーテンの隙間から陽の光が差し込む、いつもの朝。
習慣とは恐ろしいもので、目覚ましが鳴る前に目を開けた。
昨夜のことが夢だったらいいのに……そう思っていると、背中側にもぞりと何かが動く気配を感じた。
(え……?)
不思議に思って振り向くと──律が、私の布団の中ですやすやと寝息を立てている。
「きゃああああああ!」
悲鳴を上げると、律はのそのそと上体を起こした。
寝ぼけ眼のまま、目を細めて小さく笑う。
「姉さん、おはよぉ……」
まるで何事もなかったかのような、いつもの調子の声。
「もうっ、律! 私の部屋に入るの禁止!!」
慌てて枕を投げると、律は顔でそれを受け止めて苦笑いする。
昨夜のあれはなんだったんだろう?
律はいつもと変わらない、穏やかで整った顔だった。
「またですか、ほんと仲がよろしいですね」
内村さんが、朝食を並べながら朗らかに笑う。
「笑いごとじゃないですよ……」
大きくため息をつきながら、席に着いた。
いつもと同じ、パン、ウインナー、サラダにコーヒーの朝食だ。
「ごめんって。だから、覚えてないんだって」
律が口を尖らせながら、サラダをつついている。
寝ぼけて私の部屋に入ってきた──そう言い張るけれど、本当に?
自分の部屋には入るなって言ったくせに。
『俺の部屋には入らないでね』
実家に戻ってきた時に、そう言った律の言葉を思い出す。
──律の部屋に、何かある。
そう思った私は、律が仕事に出かけたのを確認してから彼の部屋に向かった。
入らないでというわりには、意外にも鍵はかかっておらず、すんなりと侵入できた。
電気をつけると、異様な気配を感じた。
いや、部屋はいたって普通だ。布団の乱れたベッドに、閉めっぱなしのカーテン。私に「入らないで」と言ったくらいだ。多分、内村さんが掃除に入ったりもしていないのだろう。少し、埃っぽい。
中でも一番目についたのは、デスクの上にある三台の液晶モニター。配信をやるからって、三台も必要なのだろうか? こればかりは私が詳しくないだけなのかもしれない。そのそばに、マイクとヘッドホンがある。
スタイリッシュな棚が横にあって、本や雑誌がぎっしりと並べられている。
壁には大きなコルクボード。思い出の写真でも飾られているのかと思ったが──。
「……え?」
写真を見て、顔をしかめた。だってそれは、家族写真でもなんでもない。
数人の男の写真が貼られ、顔に×印が書かれていた。どれも見覚えのある顔ばかりだ。
「これ……中学の同級生の……。こっちは、高校の時の……!」
震える手で、写真をなぞる。
「この人は、大学の時……この人も……っ」
恐ろしくなってきた。
「……っ」
最後に見た写真は、なぜかダーツの矢が刺さっていた。
「これ……保科さん……!?」
思考を巡らせる。
考えたくはないけれど、この写真にはすべて共通点がある……。
私に、告白してきた人や好意を向けてきた人だ。
「なん、で……?」
頭がくらりとして、壁に手をつく。
律が部屋に入らないでと言ったのは、配信の機材があるから、触れられたくないからだって言っていた。──だけど、本当はそうじゃなくて、これを隠そうとしていた……?
でも、それにしては部屋の壁に、こんな堂々と貼り出しているなんて。
(もしかして、他にもなにか隠してる……?)
一旦冷静になり、次はデスクの引き出しをひとつずつ開けていく。
筆記用具やアクセサリーケース……中段には書類の束。
そして、一番下の引き出しの奥にあったのは数冊のファイルだった。
「これは……?」
開いてみると、写真が整理されていた。どうやらアルバムのようだ。
今度こそ、家族写真のようなものかと思い、微笑ましい気持ちでページをめくった。
しかし、めくるごとに違和感が膨れ上がっていく。
「まさか……」
ページをめくっても。めくっても。
全部、私。
別のアルバムを開く。
「これも!」
最後の一冊も開く。
「──これも!?」
中学の制服姿の私から始まり、高校、大学の頃まで。
振り返った横顔。駅のホームで電車を待っているところ。
そのほとんどは、カメラの方を向いていない。
「なに、これ……」
そういえば、律は中学の時に写真部に入って、カメラを買ってもらっていた。
私も家でよく撮ってもらっていたが、こんな、外で撮ってもらったものは知らない。
これではまるで──隠し撮りだ。
ショックのあまり手が震えて、アルバムが滑り落ちる。
これ以上見てはいけないと思った時、不意にバランスを崩してしまい、手がデスクの上のマウスに触れた。
──カチ。
小さな音とともに、スリープ状態だったモニターが一斉に明るくなる。
三面に広がる映像を見て、私は思わず悲鳴を漏らしそうになった。
「──っ!」
ベッド。机。窓際。
見慣れた部屋が、いろいろな角度から映し出されている。
「……これ……私の部屋……!?」
頭が真っ白になった。立っているのもやっとで、足元から血の気が引いていくのが自分でもわかる。胸がぎゅっとつかまれたように苦しくて、空気がうまく肺に入らない。
(息が……)
吸うたびに呼吸が浅く速くなっていく。視界がじわりと滲み、遠くで誰かがざわざわと話しているような耳鳴りがする。
必死に口元を手で覆い、逃げる息を押しとどめようとするけれど、全然追いつかない。
──いったい、いつから?
ずっと見られていた……律に……?
目の前の三つの画面がぐにゃりと歪んで見えた。涙か、目眩なのか区別がつかない。
膝が笑い、倒れそうになったその時──。
「──あーあ。見つかっちゃった」
背後から聞き慣れた声がして、私は凍りついた。
振り返ると、律がドアのところに立っていた。笑顔を浮かべ、悪びれる様子など一切ない。
「り、律……どうして……」
仕事に出かけたと思っていたのに、戻ってくるなんて。
「だから、入らないでって言ったのに」
律は、ゆっくりと部屋に入ってきて、扉を閉めた。
「なんで、こんなこと……」
「なんでって……決まってるじゃない」
いつものように、穏やかな微笑みを見せる。
けれど、それが異様に気味悪く感じた。
「姉さんが、好きだから」
さらりと口にされた言葉に、心臓がどくんと音を立てる。
律は、床に落ちたアルバムを拾う。
それを開くと、恍惚とした表情で見つめている。
「俺はね、姉さんのいろんな顔を見たいんだ。横からも、斜め後ろからも。笑ってる顔も、泣いてる顔も、困った顔も……ぜんぶ」
言いながら、指先で私の写った写真をなぞっていく。
全身の毛穴が開いていくような、ぞわぞわとした悪寒が私を襲い、思わず後ずさった。
律は唇を噛み締め、私にもわかるほど、アルバムを強く握る。
「……せっかく邪魔者は排除してきたのに」
耳を疑う言葉だった。
排除って──
「まさか……彰人さんは、本当に……律が?」
自分の声が震えているのがわかった。
律は、急にきょとんとした顔をして、首をかしげる。
「兄さん? なんで?」
「だって! 彰人さんの日記に……《律には気をつけろ》って!」
必死で言い募る私を、律は目を細めて見つめた。
「ああ、あれ」
律は特に驚いた様子も見せず、にっこりと笑った。
「見つけてくれたんだ。そっかぁ……だから姉さん、最近態度がおかしかったんだ」
「え……?」
理解が追いつかない。
なぜ、律がそんなふうに……?
軽井沢さんの言葉を思い出す。
もし、この日記に書き込める人物がいたとしたら、それは──お父様か、律。
「ど、どういうこと……律、知ってたの?」
問いかける私に、律はアルバムを閉じて当然のように答えた。
「だってあれは、俺が書いたんだもの」
──その真実に、頭の中で何かがひび割れる音がした。
崩れそうに、脆く、あとひとつ何か知ってしまえば闇へ落ちていきそうな。
そんな感覚に、陥った。




