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【大賞作品長編化】執着系義弟の甘い罠は壊れるほど狂おしく〜未亡人の私、愛されすぎて逃げられません〜  作者: 草加奈呼


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1・夫の遺言

 九月某日、最愛の夫が帰らぬ人となった。

 宝堂(ほうどう)彰人(あきと)、享年三十二歳。

 

 葬儀の日の朝、空は一面の灰色に覆われ、冷たい小雨がしとしとと降り続けていた。湿った空気が肌に纏わりつき、季節外れの寒さが胸に重くのしかかる。まるでこの天候自体が私の悲しみを映し出しているようだった。


 斎場の入口には報道陣が詰めかけており、マイクやカメラのレンズがこちらに向けられる。

 飛び交う問いかけは矢のようだった。答える力などあるはずもない私はうろたえ、足が止まりそうになる。


 参列者の中から、ぼそぼそとした声が耳に入ってきた。

 

 ──後任はどうなるんだ?

 ──さあな……ただ、事務所の中もざわついてるらしい……。


 その言葉は私の脳内をするりと抜け、すれ違うと同時に遠ざかっていく。

 

 葬儀の手配から進行までは、すべて養父である宝堂(ほうどう)龍樹(たつき)が取り仕切ってくれた。

 私はショックのあまり、その場にいるだけで精一杯で何も考えられず、彰人さんの遺影を抱えたまま、ただ涙が頬を伝うだけだった。

 

 斎場での葬儀が終わり、私は喪服のまま宝堂家の応接室でぼんやりと座り込んでいた。

 外からかすかに響くざわめきは、まだ敷地の外に残っている報道陣の声だろうか。雨音と混じり合い、耳障りだ。

 時計の秒針の音さえも、まるで空間を切り裂くように大きく感じられて思わず耳を塞ぎたくなる。


 彰人さんの死因は転落死。

 宝堂グループのビルの一角に、彰人さんの勤める御影法律事務所がある。

 そのビルの非常階段で転落、頭部を強打したらしい。

 警察が調べて事故と言われたが、なぜ非常階段にいたのかはわからない。


 応接室に飾られていた家族写真が目に入る。

 子供の頃の私と彰人さん、義弟(おとうと)(りつ)が、笑顔で並んで写っている。

 それを手に取ると、再び涙が溢れてきた。

 

「彰人さん……。どうして……」


 問いかけても返事があるはずはない。

 それでも彰人さんの声が聞こえるような気がして、私は写真立てを胸に抱いた。


 その時、応接室の扉が開く音がした。

 顔を上げると、入ってきたのは義弟の律だった。

 雨に濡れた髪が少し乱れており、律もまた、整った顔立ちを曇らせている。

 

「菜月姉さん……ここにいたんだ」

 

 律の声を聞いた瞬間、私は感情の糸が切れたように歩み寄り、すがりついた。


「律……!」

 

 この悲しみを一人で抱えきれず、誰かを頼らずにはいられなかった。

 

「泣かないで、姉さん……」

 

 律は腕を回し私を抱きしめてくれたけど、涙で声が震えて何も言葉にできなかった。

 ただ、失ったものの重さだけが全身にのしかかってくる。それを一人で支えきれるほど、私は強くはなかった。律の声が耳元で低く響く。

 

「俺が、そばにいるから……」

 

 


 

 亡くなった彰人さんは、私の義理の兄でもあった。

 私は早くに両親を亡くし、遠縁である宝堂家に引き取られ、彰人さんや律とは兄弟同然に過ごしてきた。

 彰人さんは、端整な顔立ちに、いつもきちんと整えられた身だしなみ。周囲の女性たちが一目で惹かれるほどの見目の良さを持ちながら、本人はまったく気取らず、どこまでもクールで穏やかだった。

 家では、そんな彰人さんがふと見せる優しい笑顔や、何気ない気遣いが何よりも嬉しかった。私が何か悩んでいるときは、黙って隣に座り、言葉ではなくその存在だけで心を支えてくれる。

自慢の義兄(あに)だった。私は、そんな彰人さんに子供の頃から心惹かれていた。

 

 私が大学を卒業し、彰人さんの仕事を手伝うようになって数年──二十五歳の時のことだった。彰人さんから突然プロポーズされたのだ。家のリビングで唐突に言われたものだから、全然ロマンチックじゃなかったけれど。

 あまり感情を表に出さない人だったから、私のことなんて単なる義妹(いもうと)としか見ていないと思っていたのに。けれど、普段は口数の少ない彰人さんが頬を染めて懸命に気持ちを伝えてくれたことが嬉しくて、迷うことなくその場で承諾した。


 彰人さんの職業は弁護士だった。仕事では誰もが一目置くほどで、多くの人に信頼されていた。いつも難しい案件を抱えていた一方で、口癖のようにこう言っていた。

「弁護士という職業は感謝されることもあれば、被害者の遺族から恨まれることもある」

 だから自分に何かあってもいいように、と常に遺言のような話をしていた。遺言だなんてまだ早いと思っていたけど、それが彰人さんなりの優しさなんだと感じていた。けれどまさか、こんなに早く別れが来てしまうなんて想像もしていなかった。

 

 

 翌日、宝堂の家には私と養父(ちち)、そして律だけが食卓を囲んでいた。

 静かな朝食の時間。本来なら彰人さんもここで朝食を摂るはずなのに。彰人さんがいないだけで家全体がどこか物足りなく感じる。

 朝食後、私と律は応接室に呼び出された。正面に座る養父は、深刻そうな表情で私たちを見つめた。その顔つきに、ただならぬ話であることが直感的にわかった。


「菜月、彰人と離縁しなさい」

 

 その一言に、私は息を呑んだ。


「えっ……?」


 隣にいた律も目を見開き、言葉を失っている。

 昨日、葬儀が終わったばかりだというのに、まさかそんなことを言われるとは思わなかった。

 

「それは……何故ですか? お父様」


 ようやく声を絞り出したが、自分でも震えているのがわかった。


「実はな、おまえにこれだけの縁談が来ている」


 養父がテーブルに置いたのは、見合い写真の束だった。

 ぱっと見ただけでもその数は三十以上ある。

 それを見た私は、怒りが込み上げて思わず立ち上がった。

 

「ひ……ひどいです、お父様! 彰人さんが亡くなったばかりだというのに!」

「そうだよ、父さん! いくらなんでも姉さんが可哀想だ!」


 隣にいた律も、同じように立ち上がって叫んだ。

 二人の抗議に、養父は慌てて手を振る。


「ち、違う! そうじゃない!」


 そして深い溜息をつきながら説明を始めた。


「おまえたちの言う通り、彰人が亡くなったばかりだというのに、こんな話が出てくる。つまり、宝堂の地位が欲しいだけの輩だ。私はそんなところに菜月を嫁がせる気はない」

「お父様……」


 養父の言葉を聞いた瞬間、私はホッと胸を撫で下ろしソファに座った。

 律も同じだったのか、僅かに肩の力を抜いたのがわかった。


「これからもこういった話がどんどん出てくるだろう。しかし、菜月は元々宝堂家の人間ではない。菜月には自由に生きてほしいんだ。離縁して、旧姓を名乗れば宝堂の名だけを狙っている輩はいなくなるだろう。もちろん、旧姓を名乗ったからといって親子の縁まで切るつもりはない。これからも、菜月は私の娘だ」


「なんだ、そういうことか」

 

 律は安心したのか、再びソファに腰を下ろした。

 私も養父の優しさを嬉しく思う。


「でも、そんなにすぐに離縁しなくても……」


 律がやんわりと反対の声を上げる。

 まるで、私の気持ちを代弁してくれたように感じた。


「そうね……お父様、離縁については少し考えさせてください」


 正直なところ、今は何も考えられない。

 この場で何かを決断するには、あまりにも時間が足りなかった。

 養父は黙って私の言葉を聞き、ゆっくりと頷いた。

 

「そうだな……。いや、おまえも辛いのに急かすようなことをして悪かった」


 辛いのは私だけではない。

 養父も、律も、きっと私以上にこの喪失を抱えているだろう。

 私は二人に助けられてばかりだ。

 しっかりしなければ、と拳を握りしめる。

 心の中で気持ちを整え、私は立ち上がって深く頭を下げた。

 

「ありがとうございます、お父様。お心遣い、とても感謝しています。それから……葬儀のこと、本当にお世話になりました。……そろそろ帰りますね」


 律も立ち上がり、車のキーを取り出した。

 

「姉さん、送っていくよ」


 その申し出に、私は小さく頷いて応接室を出た。


 



 律の運転で、私の自宅へと向かう道中。

 エンジン音だけが車内に響く中、律が不意につぶやくように言った。


「兄さん、すごい人だったよね。……俺、敵わないやって、ずっと思ってた」

「え?」


 そんな風に思っていただなんて意外だった。律だって彰人さんと同じで、器用になんでもできるタイプだから。


「いつも冷静で、的確で、周りからも信頼されててさ。……かっこよかったよ」

「律……」

「でも、そういう兄さんだから、姉さんにとって本当に大切な人だったんだろうなって思う。俺は、そういう存在にはなれないけどさ……」


 最後の言葉は少し寂しそうだった。

 律が握るハンドルにわずかに力がこもるのが分かる。


「そんなことないよ。私は律がいるから支えられてるの。今も、こうして一緒にいてくれてるじゃない」

 

 そう言うと、律は照れくさそうに短く「うん」とだけ返した。

 午前中の柔らかな光がフロントガラスから差し込み、律の整った顔立ちを照らしている。

 律の職業はモデルだ。ファッション誌の一面を飾るほどの活躍をしているだけあって、どの角度から見ても非の打ちどころがない。

 彰人さんのように冷静でクールなタイプとは正反対で、律はこうして感情がすぐに顔に現れる。職業柄、仕事中はプロとして完璧な仮面をかぶっているのだろう。でも、私の前ではこうして本音を見せてくれる。それが、義姉(あね)としてとても嬉しかった。

 しばらく沈黙が続いて、律が再び口を開く。

 

「ねえ、姉さん」

「ん……?」

「もし、離縁しても……俺は姉さんの義弟でいられる……?」


 その言葉に驚いて、思わず律の横顔を見た。

 そうか、私たちに血のつながりはない。私が宝堂家を離れたら……世間的には兄弟ではなくなってしまう。だけど私は、今まで家族として一緒に過ごしてきた時間と、心のつながりを信じていた。


「そんなの、当たり前じゃない。私たちは兄弟同然で育ったのよ。律は私の義弟よ」


 私がそう言うと、律の表情がほっと緩んだ。


 家に近づくにつれ、私の胸の中には徐々に重い疲労感が広がっていく。車が自宅の前に停まると、律はすぐに降りて助手席のドアを開けてくれた。


「送ってくれてありがとう」

「本当に大丈夫?」


 降りた私に、律が心配そうな声をかけてくる。その優しさが、今は少しだけ重く感じた。


「大丈夫よ。……ごめんね、少し一人になりたいの」


 そう答える私の声がどこか頼りなく響いたのか、律は険しい顔で口を開いた。


「……バカなこと考えてない?」


 思いもよらない言葉に、私は目を見開いた。


「どうしてそんなこと……」

「だって……今の姉さん、すごく辛そうだから」


 律の真剣な視線が私を射抜く。その目を見て、私は心の底から彼が本当に心配してくれていると感じた。


「何かあったら俺を頼ってよ。姉さんまでいなくなったら、俺……」


 律は言葉の途中で声を詰まらせ、私の服の裾をそっとつまんだ。その仕草が、まるで幼い頃の律のようだった。


「ありがとう、律。……そうね、何かあったら遠慮なく頼らせてもらうわ」


 淡く笑ってそう言うと、律の顔がぱっと明るくなった。

 まるで心の重荷が一気に降りたかのように笑う。

 

 その笑顔に、救われた気がした。


 

 

 律と別れ家の扉を閉めると、全身の力が抜けるようだった。

 ソファに腰を下ろし、天井を見上げる。彰人さんのことが、頭を離れない。


 離縁なんて、今は全然考えられない。でも……お父様の言っていることも、わかる気がする。

 彰人さんがいなくなった今、私が宝堂家にいる意味はあるのか──。

 考えるたびに、軽く眩暈がした。


 だけど……どうしたらいいんだろう。

 胸の奥で問い続ける自分の声が、ただ空回りしているように感じた。



 それからというもの、私は悲しみを振り払うように仕事に打ち込んだ。法律事務所の人たちは温かく接してくれ、仕事に集中している間だけは彰人さんへの想いを忘れることができた。

 四十九日が明けた頃、少しずつ心の整理がついてきた私は、ようやく遺品の整理に取り掛かることにした。

 

 クローゼットにしまわれていた箱を開けると、懐かしいものが次々と出てくる。写真や手紙、そしてふと目に留まったのは、一冊の日記だった。

 表紙には彰人さんの名前が記されている。


「彰人さん……。日記なんて書いていたの?」

 

 ページをめくると、そこには私と結婚してからの日々が綴られていた。


「こんなこともあったな……」


 思い出が鮮明によみがえる。

 私たちが初めて一緒に旅行に行った日のこと、些細な喧嘩、そしてお互いを思いやった瞬間。私は思わず微笑んだ。


 最初の数ページは丁寧に読んでいたけれど思っていたよりも分厚く、めくってもめくっても終わりが見えなくて。途中から流れるようにページを追っていた。

 しかし、最後の方のページに辿り着いたとき、目に飛び込んできた言葉に心が凍りついた。


《もし自分の身に何かあれば離縁して、菜月には自由に生きてほしい》


 変わらず丁寧な筆跡で書かれた彰人さんの文字。

 それが、私の心に重くのしかかる。


(お父様と同じことを……)


 彰人さんなりの不器用な優しさ。でも、私の気持ちはどうなるの?

 私はまだ、彰人さんを愛しているのに──。

 胸の奥が締め付けられるように痛む。

 指先は震え、視線は文字の上を彷徨っていた。

 

 そうだ、私は彰人さんを愛している。

 お父様も彰人さんも、私の将来を思って離縁しなさいと言ってくれたんだろうけど、私には考えられない。

 気づけば涙が頬を伝い、日記の上に落ちた。

 慌てて指で拭いながら、ポツリと呟く。


「私にはできない……」

 

 日付を見ると、それは彰人さんが亡くなる前日だった。

 このページが最後かと思って日記を閉じかけたとき、ふと違和感を覚えた。


(涙が……滲んで……)


 何も書かれていない部分に落ちた涙。その涙で、インクが滲んでいるように見えた。

 なんだろう、この感じ──胸の奥に引っかかるようなざわめき。

 もう一枚だけ、とページをめくる。

 その瞬間、目に飛び込んできた一文に、心臓が大きく跳ねた。


《律には気をつけろ》


「……!」


 言葉にならない声が喉に詰まる。

 頭の中に警鐘が鳴り響くような感覚だった。

 なんでこんなことが書いてあるの? なぜ律のことを──?


 心臓の鼓動が早まる。視界がじんわりと揺れる。

 混乱と不安がぐるぐると渦を巻き、思考が追いつかない。


 そのとき、不意に背後から声がした。


「姉さん」


 私は反射的にビクッとして、慌てて日記を閉じた。

 振り返ると、そこには律が立っていた。いつものように、穏やかな笑顔を浮かべている。


「玄関、開いてたよ。不用心だなー」


 ゴミを出しに外へ出た後に閉め忘れただろうか。

 私は後ろ手に日記を隠しながら、必死に平静を装った。


「そ、そう……。ごめんね、気づかなくて。何か用だった?」


 律は少し首をかしげ、笑顔のまま私を見つめる。


「いや、ちょっと顔を見に来ただけ。それにしても元気そうで良かった」


 柔らかい声が耳に届く。普段と変わらない、可愛らしい義弟の律。

 だけど、さっきの日記の言葉が私の頭から離れない。

 

(どういうことなの、彰人さん……?)


 背後に隠した日記を掴む手が、じっとりと湿っていた。


 

 *


 

 彰人さんの日記を見つけたあの日から、私の中で一つの疑念が消えなかった。

 

 ──彰人さんの死は本当に事故だったのか?


 あの日記には違和感がある。具体的に何かと問われるとわからないけれど、でもやっぱり、最後のあの一文が気になるのだ。

 養父と彰人さんが離縁して自由に生きなさいと言ってくれた気持ちは、とても嬉しかった。でも、今離縁したら、この違和感が消えてしまう気がする。

 違和感の正体を突き止めたい。

 宝堂家に戻って養父と律と一緒に暮らせば、何かわかるかもしれない──。

  

 数日後、私は宝堂家の応接室にいた。

 重厚な家具と静寂が漂う部屋。目の前には養父が座り、その隣には律も同席していた。


「……離縁は、しません」


 私はまっすぐに養父を見据えながら、そう告げる。

 養父の眉が一瞬だけ動いた。


「なぜだ、宝堂のしがらみに囚われなくてもいいんだぞ?」

「お父様は、私に自由に生きてほしいのですよね? だったら、私の自由にさせてもらいます」

「それは構わんが……。これから見合いの話も増えてくるだろう」

 

 養父が渋い顔をしながら言う。

 見合いの話は、私が宝堂家にいる以上、避けられない現実なのだろう。しかし、私は毅然とした態度で言った。

 

「それは、お父様が断ってください」

「む……」

「私はこれからも、彰人さんの妻として生きます。それならば、再婚もできませんよね?」

 

 これ以上言葉にできないほど覚悟を決め、微笑みながら養父に圧力をかける。


「そう、だな……」


 養父は静かに頷いた。なんとか納得してくれたようだ。

 律はこちらを見て微笑んでいる。


《律には気をつけろ》


 ──あの言葉が頭に焼き付いて離れない。

 もし、もしもあれがただの事故ではなかったとしたら。

 律が関係している、なんて考えたくもないけれど……。

 いつもの笑顔を見ると、気のせいだって思えてくる。

 律の視線から目を逸らして、再び養父を見る。

 

「ただ……。今の家は私一人では広すぎるので、ここに戻ってきてもいいでしょうか?」


 女性の一人暮らしは不安だし、ここなら家族も家政婦さんも出入りする。

 違和感の正体を確かめたい、なんて、律の前では言えない。

 これなら自然な流れで宝堂家に戻ることができる。


「それは構わないが……。ただ……おまえの気持ちに変化があったら、遠慮なく言いなさい」

「はい」


 養父の言葉には、いつもの温かさと安心感が込められていた。

 その優しさを無にするつもりはない。だけど心の中で決めたことを貫くためには、少し距離を置かなくてはならない気がした。

 


 話が終わって、私は自室に戻ろうとする。

 結婚してこの家を出てから三年経つけど、私の部屋は変わらずそのまま残っている。

 しばらくこの家で暮らすのだから、後で必要最低限の荷物を持ってこなければならない。

 自室の前まで来ると、律が私の後ろをついてきていた。

 律の部屋はこの奥だから仕方ないのだけれど、足音もなく後ろを歩かれると、かなり驚く。

 

「よかった。俺、姉さんが離縁しちゃうんじゃないかって、ちょっと不安だった」


 律の言葉に、私は冷静を装って冗談まじりに返すことにした。


「そ、そう。そんなに私の義弟でいたいの?」


 まだそんな心配をしていたのか。この間「何があっても律は私の義弟よ」って言ったばかりなのに。

 その言葉の裏に隠れた律の様子を、無意識に観察していた。


「そうだよ」

 

 そう言った瞬間、律の表情がかすかに変わる。

 柔らかい笑みはそのままだったけれど、どこか違う熱を帯びたものに見えた。

 

「だけどさ……」


 律が一歩、私に近づいてきた。距離が縮まったことに気づき、私は思わず後ずさる。

 背後に壁を感じた時には、律の腕が私の逃げ場を無くしていた。

 律の影が、私を覆う。


「俺は、いつまで義弟でいればいい?」

「……えっ?」

 

 真剣な低い声に驚き、息を呑んだ。

 どういう意味? なぜ律はこんなことを──?

 律の目が私をじっと見つめていて、視線から逃れることができない。

 言葉が見つからないまま、私はその場に立ち尽くした。


 私は、まだ気づいていなかった。

 義弟の罠は、夫の死をきっかけにすでに始まっていることに……。


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