【20】Alles Walzer!踊った者が主役になる夜。〜父は最初の一撃を食らい、魔女は仕掛ける〜
そして、舞台に立つダンス・マイスターが、朗々と声を張り上げた。
「Alles Walzer!」
――皆さま、ワルツをどうぞ!――
その掛け声とともに、ダンスフロアが正式に開放される。
最初の曲は、
ウェーバー作曲『舞踏への勧誘』――ウィンナ・ワルツ。
ルチアーノとロクシーは、用意された椅子に腰を下ろした。
ルチアーノは、内心で息を呑む。
――知らない……!
その曲は、ダンスレッスンで一度も、イレイナが流さなかったものだ。
ドクン、と心臓が跳ねる。
だが――
ルチアーノの焦りをよそに、
ルシアンが、静かにアンジュに左手を差し出した。
誘い。
アンジュは、一瞬の迷いもなく、右手でそれに応える。
そして、二人は踊り出した。
『舞踏への勧誘』の真髄――
それは、技巧ではない。
“踊ることそのものの楽しさ”。
軽快なステップから、
流れるように優雅な回転へ。
遊ぶようでありながら、
一切の無駄がない。
二人は、音楽の中を歩くように、
ワルツを紡いでいく。
一組、また一組と、
踊る手を止める者が現れた。
視線は、自然と二人へ吸い寄せられる。
それは、さざ波のように広がり――
やがて。
ダンスフロアに立っているのは、
アンジュとルシアン、ただ二人だけになった。
その光景を見て、
ルチアーノの父親は、苛立ちを隠そうともしなかった。
「……一旦、休憩を挟め!」
低く命じる。
そして、鋭い視線を、
ルチアーノへと突き刺した。
「ルチアーノよ。
そなたとロクシー殿には――
『美しく青きドナウ』を踊ってもらうぞ」
ルチアーノは、一瞬だけ呼吸を整え、
しおらしく答えた。
「はい。お父様」
その声音に、迷いはない。
ロクシーは、曲の終盤――
序章へと戻る音楽の流れの中で、
アンジュとルシアンが深く一礼するのを見て、確信した。
――来た。
――見た。
――勝った。
すべて、脚本通りだった。
そして――
ルチアーノの父親と、ルチアーノ、ロクシーがテーブルを囲み、
白ワインを口にしていた、その時だった。
「お連れしました」
よく通る声に振り向くと、
アンジュとルシアンが並んで立っていた。
――来たわね。
ロクシーは、口元が上がりそうになるのを、
白ワインを一口含むことで抑えた。
最初のダンスで敗北を悟り、
一度、場を落ち着かせるために休憩を挟む。
そして――
二人を、呼び寄せる。
ここまでは、脚本通り。
だが。
ロクシーは、父親の視線の動き、
一挙手一投足に至るまで、目を離さない。
ルシアンは、息一つ乱していない。
アンジュもまた、一曲踊ったとは思えぬほど整い、
いや――
むしろ、踊った後だからこそ、
完成された美しさを纏っていた。
ルシアンが、静かに口を開く。
「……何か?」
その一言で、
父親の眉間に、深い皺が刻まれる。
「何か、だと?」
声は低く、鋭い。
だが、怒りより先に、苛立ちが滲んでいた。
その空気を切り裂くように、
後方の席から、一人の女性が立ち上がる。
「ご用があるから、
お呼びになったのではありませんか?
ですから、“何か”とお訊きしたのですが」
柔らかい声音。
しかし、隙はどこにも無い。
「……問題でも?」
ロクシーは、再び白ワインを口に含む。
――脚本なしで、ここまで正論。
――流石はルシアン! 真面目が過ぎる!
父親は、舌打ちを噛み殺すように息を吐いた。
「……もう、よい」
視線を逸らし、言葉を選ぶ。
「休憩を……一緒にどうかね。
ルシアン殿、アンジュ殿」
それは、“招待”の形をした、仕切り直しだった。
「喜んで」
ルシアンは、それだけ答え、
自然な動きでアンジュの椅子を引く。
アンジュは、ふわりと腰を下ろし、
いつもの調子で言った。
「うむ! ご苦労!」
「恐れ入ります」
ルシアンはそう返し、
給仕が引いた椅子に座る。
その瞬間――
父親は、自分の意思とは関係なく、
額を伝う汗を感じていた。
――「うむ! ご苦労」とは!?
――なぜ、レディがその言葉を?
――そして、それに自然に応じるルシアン殿……?
問いが浮かぶ。
だが、口には出せない。
――ここで聞けば、
――あの“お茶会”の再来だ。
この舞踏会で、三時間が溶けるなど、
いくら自分でも許されない。
その間にも――
ルシアンは給仕に向かい、静かに、
だが一切の妥協なく告げていた。
アンジュさまは今はワインではなく、
アイスチョコレートラテをご所望であること。
カカオの原産地、乳牛の品種に至るまで。
給仕は、目を白黒させながら、
頷くしかない。
その空気を破ったのは、ルチアーノだった。
「お父様」
場を整える声。
「実は――
久しぶりに、このルチアーノのピアノを、
聴いていただきたいのです」
「……ほう?」
父親の口元に、
わずかな笑みが戻る。
「私の婚約者ロクシーは、ハープの名手。
ですから――
ドビュッシーの『夢』を、
二重奏で捧げようかと」
その言葉に、父親は、
勝ち誇ったようにルシアンとアンジュを見る。
「殊勝な心がけだ、ルチアーノ!
婚約者と二重奏とは……!
流石は、地獄の王の血よ!」
ルシアンは、何も言わない。
ただ、静かに父親を見ている。
――その時。
ケーキワゴンを前にしていたアンジュが、
屈託なく言った。
「それは素晴らしいな!
親孝行は、良き行いだ!」
ケーキに釘付けのまま。
「それに――
私も、ハープは得意だ!」
――無音。
ロクシーでさえ、
想定していなかった一言。
父親の握り拳が、
ドン、とテーブルを打つ。
次の瞬間――
「あ、あーれー……!」
小さな悲鳴。
若い令嬢が、
ケーキワゴンごと、
アンジュとロクシーの方へ倒れ込んできた。
即座に立ち上がり、
身体を支えるルシアン。
令嬢は頭こそ打たなかったが、
ワゴンは倒れ、ケーキは崩れ、
アンジュとロクシーのドレスは汚れていた。
令嬢は、息も絶え絶えに、
ルシアンを見上げる。
「まあ……ご親切に……」
――その刹那。
ルシアンとロクシーの視界が、
一瞬、暗転する。
そして――
弾けるような、光。
二人は素早く、視線を交わす。
――イレイナだ!!――
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