【18】六十億円の指輪と、千円でお釣りが出る玩具。〜理解不能の王は、すやすや眠っている者に負けました〜
その瞬間――
ルシアンの恩寵が、静かに満ちた。
風呂上がりでバスローブ姿だったルチアーノの装いが、
音もなく、切り替わる。
いつもの真っ黒なスーツの上下。
胸元には、深紅の薔薇のコサージュ。
同じ色のネクタイが、寸分の狂いもなく、整えられている。
――間に合う。
ルチアーノは、それだけを確認した。
同時に、
ショートパンツにキャミソール、
髪をバスタオルで巻いたまま、歯を磨いていたロクシーの姿も、変わる。
艶やかな黒髪が、背にさらりと流れ落ち、
薄紫色のワンピースが、その身に馴染む。
化粧は薄く、だが、隙はない。
アンジュもまた、バルコニーに立ったまま、
恩寵の余波を受けていた。
少し乱れていた髪は整い、
白いワンピースは、皺一つ残さず、美しく落ち着く。
四人は、何も言わない。
ロクシーとルシアンが、一瞬だけ視線を交わす。
――問題なし。
その合図を受け取ったルチアーノは、
小さく咳払いを一つして、“当主の顔”で、ペントハウスの扉へと向かった。
半歩後ろには、ロクシー。
扉を開けた瞬間、
ルチアーノは満面の笑みを浮かべ、深く一礼する。
「これは……お父様。
前触れもなく、お越しになるとは……!」
父親は、フンと鼻で笑った。
「我が息子が、わしの地に来た。
喜びで、飛んで来たのが、間違いだとでも、思うか?」
「いえいえ。
お父様自ら、お越しいただけるとは――
このルチアーノ、喜びに、堪えません」
ルチアーノとロクシーが、揃って頭を下げる。
父親は満足そうに、白い髭を撫でた。
「よろしい」
その目が、わずかに細まる。
「……ところで。
親友と、婚約者殿は?」
その瞬間――
父親の視線が、鋭く光った。
ロクシーは、見逃さない。
――突然の訪問。
――粗探し。
――想定内。
――対処可能。
ルチアーノは、しおらしく答える。
「もちろん、一緒に泊まっております。
ルシアンは、モナコは、初めてでして」
「なんと!」
父親は、勝ち誇ったように笑った。
――だが、その笑いは、ほんの少しだけ、早い。
「モナコに、来たことが無いと!? 哀れな!」
「はい。
ですが――」
ルチアーノは、にこやかに続ける。
「玄関先では、お父様に、ふさわしくございません。
どうぞ、リビングへ」
くるりと掌を返し、廊下の奥を示す。
その動作には、迎え入れる“息子”ではなく、
場を預かる“主”の落ち着きがあった。
ロクシーは、半歩後ろで、静かに微笑む。
舞踏会、三日前。
だが、この夜――
すでに、前哨戦は始まっていた。
メインリビングでは、
ソファの後ろに、ルシアンとアンジュが並んで立っていた。
二人の姿が視界に入った瞬間、
父親の胸に、言いようのない苛立ちが走る。
――なんと、美しきこと!
その感情を抱いた自分自身が、何よりも、許せなかった。
ルシアンは、白いニットに、グレーのジャケット。
アンジュは、清楚な白いワンピース。
飾り立てているわけでも、威圧しているわけでもない。
ただ、“そこに立っている”だけで、
場の空気が、静かに塗り替えられていく。
それが、腹立たしい。
父親が、どっかりとソファに腰を下ろす。
その動作に合わせるように、ルシアンが口を開いた。
「お久しぶりです。
再びお会いできて、嬉しく思います」
それだけだった。
感情は、見えない。
媚びもない。
緊張も、恐れも、感じられない。
父親は、内心で、舌打ちする。
――礼儀正しすぎる。
――不気味なほどに。
アンジュは、お辞儀すらせず、ただ、にこりと微笑んでいる。
それがまた、癪に障った。
父親が、パチンと指を鳴らす。
すると、付き従っていた者の一人が、さっと、テーブルの上に箱状の物を置いた。
「お父様、お飲みものは、何をお持ちしましょうか?」
丁寧に問いかけるルチアーノに、父親は鼻で笑う。
「こんなホテルに、わしが、口にできる酒が、あるとでも、思っとるのか?」
そう言って、顎で合図をした。
「持参したわ」
箱が、開かれる。
中に収められていたのは、一本のシャンパン。
『グー・ド・ディアンモンズ/
テイスト・オブ・ダイヤモンズ』
価格は、2億2千万円から、2億9千万円。
ボトルには、19カラットのダイヤモンドと、
18金のホワイトゴールドが、惜しげもなく、施されている。
――見せびらかすための酒。
だが。
ルシアンとアンジュは、それを目にしても、
一切、表情を変えなかった。
驚きも、羨望も、評価すら、ない。
ただ、“そこにあるもの”として、受け止めている。
父親の口元が、わずかに歪む。
――効かぬ、か。
ルチアーノは、動じることなく父親の正面に座り、
「流石は、お父様です」
とだけ言って、
そっと、ロクシーへ、視線を送った。
ロクシーは、一拍遅れて、ルチアーノの隣に腰を下ろす。
距離は、わずかに取って。
ルシアンとアンジュは、依然として立ったままだ。
その時――
バルコニーから、ふわりと風が吹き込んだ。
ただの、そよ風。
アンジュは、その風を受け止めるように、
静かに目を伏せ、右手で髪を押さえた。
その仕草に――
父親が、突然、笑い出した。
「……お父様?」
訝しげに呼びかけるルチアーノ。
父親は、腹を抱え、ひとしきり笑った後、
目元をハンカチで押さえながら言う。
「面白い……!
実に、面白いわ……!」
パシリと、ハンカチをテーブルに叩きつける。
「アンジュ殿。
六十億円もする婚約指輪を嵌めながら、
その右手の“玩具”は、何じゃ?」
笑みを歪める。
「その、くすんだ銀色の、ホースシューリング。
純銀ですら、あるまい」
短く、吐き捨てる。
「笑止」
さらに、畳みかける。
「本性、見たり、だな。
そなた、上流階級の者では、あるまい?
さては、その美貌で、ルシアン殿を誑かしたか?」
そして、嘲るように続けた。
「ルシアン殿も……
見る目が、無いのう!」
「お父様……!
それは、あまりに、無礼です!」
ルチアーノが声を荒げた、その瞬間――
澄んだ声が、静かに響いた。
アンジュだった。
アンジュは、変わらぬ無邪気な微笑みを浮かべたまま、
穏やかに言う。
「そなたは、
千年以上も、生きてきて――
野に咲く、一輪の花にも、
風雪に耐える枯れ木にも、
心を動かされたことは、無いのか?」
父親の笑みが、消える。
「この指輪は、そういうものなのだ」
それ以上の説明は、ない。
父親は言葉を失い、歯ぎしりをした。
理解できない。
価値に換算できない。
序列に落とし込めない。
だから、何も言い返せない。
そして――
アンジュの隣に立つルシアンは、
顔が赤く染まり、やがて、それは、
赤を通り越して――
まるで、火山のマグマのように、真っ赤になった。
そうして――
ほんの十分ほどで、
ルチアーノの父親は、その場を後にした。
扉が閉じる音は、小さく、
だが確かに、この夜の“前哨戦の終了”を告げていた。
午前二時――。
ロクシーが、ソファに深く腰を沈め、
無造作にビール缶を傾けながら言った。
――スコットランド製。
「スネークヴェノム」。
アルコール度数、67.5%。
常人なら、一口で終わる代物を、一息で飲み干す。
「ルシアン、
まだ泳いでんの?」
缶を置き、視線をバルコニーに移す。
「通報されない?」
その言葉通り――
ルシアンは、父親が帰るや否や、モナコの海へ飛び込み、
ただ黙々と、バタフライで泳ぎ続けていた。
夜の海を裂く水音が、遠くから、かすかに届く。
ルチアーノは、望遠鏡から目を離さないまま、
目をうるませて答えた。
「ルシアンなら……
大丈夫でありますッ!
アンジュちゃんの言葉に、感動したんでありますッ!
純情! ラブ❤️」
拳を握りしめ、どこか、誇らしげに。
「でもさ」
ロクシーは、スネークヴェノムをもう一缶開け、静かに言った。
「あんたの父親……
本気になったね。
完全に」
その言葉に、ルチアーノは、望遠鏡越しに海を見据えたまま、
迷いなく言い切る。
「望むところでありますッ!」
水面を裂く影――
ひたすら、泳ぎ続けるルシアンの姿が、視界の中心にある。
「正面から来るなら、正面で、受けるだけでありますッ!」
その声には、先ほどまでの怯えはない。
ただ、覚悟だけが、あった。
そして――
アンジュは。
そのすべてを知らぬまま、
もう数時間前から、静かに眠っていた。
嵐の中心で、何ひとつ乱されることなく。
それこそが、この夜における、
何よりの“勝利”だった。
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