【16】ピアノは余興、ダンスは30点、地獄に着地。〜それでも舞踏会は成立するらしい〜
そうして――
ヴィラには、グランドピアノが運び込まれた。
さすがは、セレニス州で一番の高級ヴィラ。
音楽ルームまで、最初から備えられている。
そして、ルチアーノの日課は変わった。
競歩と筋肉トレーニングは、これまで通り。
だが、水泳は免除された。
その代わりに――
ピアノレッスンが、容赦なく組み込まれた。
しかも。
ロクシーは、
イレイナから、ハープの演奏方法を“頭に刻まれ”、
わずか二〜三時間の練習で、プロ顔負けの奏者になっていた。
才能の問題ではない。
これは、仕様だ。
一方で、ルチアーノの練習に、
メトロノームは存在しない。
なぜなら――
そこに、ルシアンがいるからだ。
ルシアンは、
一秒未満の遅れも、
一秒未満の躓きも、
一切の感情を挟まず、
正確に指摘してくる。
「今の一音。0.4秒、遅れている」
逃げ道は、どこにもなかった。
そして――
音楽ルームには、新たに防犯カメラが設置された。
室内を360度、死角なし。
音声まで、すべて拾う設計。
理由の説明は、ない。
ロクシーは、ただ、一言だけ言った。
「必要だから」
それだけで、十分だった。
さらに――
ルチアーノは、ピアノの椅子から立った瞬間から、
ワルツのステップで移動しなければならない。
例外は、存在しない。
ルシアンも、付き合ってはくれる。
だが――
なぜか、ルシアンのステップは、ひどく格好よかった。
水面を滑るように。
呼吸と、重心と、音楽が、完全に一致している。
その横で、容赦なく、ロクシーの声が飛ぶ。
「ルチアーノ。
ルシアンと“同じ”ステップを刻んで」
“近い”ではない。
“同じ”だ。
アンジュは、マンゴーパフェを頬張りながら、
無邪気に追い打ちをかけてくる。
「ルチアーノ!
先ほどのピアノ、とても素晴らしかったぞ!」
満面の笑み。
「ルシアンと連弾でもして、
少し気分転換してはどうだ?」
ルシアンは、その言葉を聞いた瞬間、
即座に跪き、胸に手を当てる。
「御意」
地獄。
否――
理解してしまった。
これは、“逃げ場の無い完成形”なのだと。
そして、舞踏会の準備。
それすらも――
ロクシーの一言で、消えた。
「イレイナの自家用ジェットで、隣の州へ行く。
ルシアンの恩寵を使えば、準備は一瞬で終わるわ」
当然のように。
ルシアンの返答は、いつも通りだ。
「理にかなっているな」
結果――
往復、三時間。
アンジュとロクシーのドレス、アクセサリー。
ルシアンとルチアーノの燕尾服、靴に至るまで。
頭のてっぺんから、爪先まで。
すべてが、完璧に揃えられていた。
時間も、余白も、言い訳も――
何一つ、残されていない。
ルチアーノは、悟った。
逃げ道なんて、最初から、存在しなかったのだと。
そうして――
身体が覚え、指が覚え、
音楽とステップが、思考を追い越した。
そして、モナコでの舞踏会開催、五日前。
四人は、イレイナの館にあるダンスホールに、集まっていた。
当然のように置かれている、
グランドピアノとハープが、
静かに、だが確実に、ルチアーノの神経を削っていく。
その様子を一瞥すると、
イレイナが、パンパンと乾いた音を立てて手を叩いた。
「まずはダンスからよ」
声は淡々としている。
だがそこには、“成果を確認する”者特有の厳しさがあった。
曲目は――
ヨハン・シュトラウス二世の『美しく青きドナウ』。
ルチアーノとロクシーは、
本番さながらの衣装に身を包み、
これまで、散々叩き込まれてきた、
定番中の定番のワルツを踊り始める。
フロアの端では、
アンジュとルシアンが並んでソファに腰掛け、
静かに、その様子を見守っていた。
やがて、曲が終わる。
二人が、ふわりと一礼した、
その瞬間――
「……はぁ」
ロクシーの口から、短く、鋭い息が漏れた。
盛大な舌打ち。
だが、それは、感情の爆発ではない。
「……あんたね。
何回、私の足を踏んだと思ってるの?」
完全に、“プロの声”だった。
ルチアーノは、一瞬だけ口を開きかけ――
何か、言い訳を探すように、
視線を彷徨わせる。
だが、すぐにそれを飲み込み、
深く頭を下げた。
「……申し訳ございませんッ……!!」
その様子を見て、
イレイナが淡々と口を挟む。
「ロクシー。
その点は、大丈夫よ」
ロクシーが、イレイナに視線を向ける。
「ルチアーノの父親の宮殿は、
魔術で溢れている場所だもの。
私のまじないを重ねたところで、まず、見破れない」
さらりと、続ける。
「足を踏まれても、
一切ダメージが残らない程度の防護くらい、掛けてあげる。
ドレスで、隠れるしね」
そして、数値を突き付ける。
「それに――
今のルチアーノのダンス、
ウィーン舞踏会基準で言えば、
100点満点中、30点」
ルチアーノの肩が、びくりと跳ねた。
「……正直、出来は悪いわ」
だが、そこで切らない。
「ただし。
“条件付き”なら、誤魔化せる」
イレイナの視線が、鋭くなる。
「立ち居振る舞い。ピアノ。場の流れ。
全部が噛み合えば、ね」
ロクシーは、その言葉を聞くと、
パチンと軽くウィンクした。
「十分よ。
イレイナ、ありがとう!」
イレイナは、静かに頷き、
次に、ルチアーノを見据える。
「……じゃあ」
ほんの一瞬の、“間”。
「次は、ピアノね」
その一言で、空気が変わった。
ルチアーノの喉が、ごくりと鳴る。
退路は、完全に断たれた。
その空気を和らげるように――
アンジュが、ホワイトチョコチップラテを手に、
にっこりと微笑んだ。
「ルチアーノ! ロクシー!
二人とも、頑張れ!」
その笑顔は、どこまでも、無垢だ。
その横で、ルシアンが、すっと立ち上がり、
アンジュに向かって、静かに跪く。
「では私は、お二人の演奏の、最終確認をして参ります」
声音は、低く、揺るぎない。
地獄は、次の段階へと、進んだ。
ルチアーノとロクシーが弾くのは、
ドビュッシーの『夢』。
原曲は難易度が高いが、
優しく整えられたアレンジが存在する。
それを、選んだ。
元々、知名度も高く、
舞踏会で演奏しても映える曲だ。
――二人の演奏が終わる。
静寂。
ほんの一拍、
音が完全に消えたその空間で――
イレイナが、淡々と口を開いた。
「ルシアン、どう?」
視線が、向けられる。
ルシアンは、珍しく、ほんの一瞬だけ、間を置いた。
そして――
感情を交えず、静かに告げる。
「ロクシーは、間違えてはいない。
ルチアーノは……98箇所、間違っていた」
「……ヒィ……ッ……!」
ルチアーノが、喉の奥で潰れた悲鳴を漏らす。
ルシアンは、一歩前に出て、静かに続けた。
「致命的ではない。
だが、“正確に言えば間違っていた”だけだ」
「……つまり?」
イレイナの瞳が、
獲物を捉えたように、細くなる。
ルシアンは、いつも通りの冷静さで答えた。
「ルチアーノのピアノは、
時間的にも、技術的にも、
これ以上の修正は不可能だ。
だが――
舞踏会で“余興”として弾くのなら、問題はない」
「よ、余興……!?」
ルチアーノが、
信じられない、というように声を上げる。
「俺様が……!
『久しぶりに、お父様に聞いてほしい』って言うんだぞ!?
しかも、婚約者のロクシー先生との二重奏だ!!
舞踏会が静まり返る中で、弾くんだぞ!?」
その空気を、
地を這うような声が切り裂いた。
「グダグダ言わない」
ロクシーだった。
「いい?
私の“完璧なハープ”が、
あんたのピアノを、補うの」
一歩も譲らない声。
「主役は、演出。
音楽は、その一部でいい。
余興で、十分よ」
そして、静かに言い切る。
「それでも――
あの親父は、必ず感動する」
イレイナも、あっさりと続けた。
「そうね。
あんた、父親の前では、猫を被れるし、
立ち振る舞いも、問題ない」
肩をすくめる。
「この構成で、行きましょ」
アンジュが、美しく微笑む。
「良かったな、ルチアーノ!」
――ガラガラガラ……。
ルチアーノの中で、何かが、音を立てて崩れていく。
だが。
誰も、止めない。
誰も、間違っていない。
全員が、最善だと、信じている。
だからこそ――
ルチアーノの意思とは関係なく、
地獄は、静かに、そして確実に――
着地した。
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