③水面を超えて
「私が泳ぐの?」
突然の提案に聖子は驚いて聞き返した。由紀は頷き、説得力のある表情で続ける。
「そうよ。実際にプールに入って一緒に泳いでみせたほうが、より技術を伝えやすくなるわよ。それに聖子先生も、わたしや生徒と同じように水着になって一緒に楽しむのもいいと思うわ」
由紀の提案は、聖子の心の中でずっと思い描いていたことと重なった。ただ、いざこうして言葉にされると、心の中にある不安が一歩踏み出すことを躊躇わせていた。プールに入ることは、生徒たちとの距離を縮める素晴らしい方法だと理解していても、無意識にプールに入らない理由を探そうとしてしまう自分がいた。
「でも、私がいない間、生徒たちはどうするの?」
心配そうに言うと、由紀は優しく微笑みながら応えた。
「私がその間、生徒たちを見ておくから安心して。聖子先生が入る姿を見れば、きっとみんなもやる気が湧くわよ」
聖子は、由紀の言葉に後押しされ、思い切ってプールに入ることに決めた。
「ありがとう。由紀先生。準備してくるから、しばらくお願いね」
と言うと、聖子はバスタオルとポーチを手に取り、更衣室のほうへと向かっていった。由紀は聖子が去るのを見送りながら、練習に励む生徒たちの姿に視線を向けた。しばらくすると、シャワースペースのほうから、水が流れる音が聞こえてきた。聖子はどんな水着で現れるのだろうか。水泳からはかなり離れていたとはいえ、由紀の目から見て、聖子は、決して泳げない体格ではなかった。ジャージを着ていても、かつてスイマーだった名残を感じさせるスタイルを持っていた。由紀は期待に胸を膨らませ、聖子が戻ってくるのを待った。
聖子は思ったよりも早く戻ってきた。
「聖子先生、早かったですね……?」
現れた聖子の姿を見て由紀は不審に思った。聖子は、薄い黄色いスイムキャップをかぶり、ゴーグルを頭にかけてはいたものの、首から下はオレンジ色のジャージのままだった。白いバスタオルは肩にかけている。ただ、タオルは湿っているし、スイムキャップからはみ出ている髪の毛も濡れていた。
「あら、まだジャージのままなんですか?」
由紀が尋ねると、聖子は肩をすくめて言った。
「水着は、実はこのジャージの下に着ているの。水泳の授業のたびに、このジャージの下に水着を着ていたから、着替えも簡単で、ジャージを脱いでシャワーを浴びるだけで済むの。だから、すぐにでも泳げる準備は整っているわ」
と聖子は自信を持って言った。由紀は感心した様子で、
「さすが聖子先生。ジャージの下に水着を着ているなんて、準備万端ですね」
と褒めた。聖子は、恥じらいを含んだ微笑みを浮かべながら、プールの端にしゃがみ込んだ。彼女の指先が水面を軽やかに撫でると、涼しげな波紋が広がっていく。ジャージを身にまとったままの彼女は、夏の陽射しが反射する水の温もりを感じていた。その感触は心地よく、気持ちを高揚させる。心の奥深くで、期待に胸が膨らんでいくのを感じる。ジャージの下に隠された水着が、彼女の心を躍らせる瞬間を待ち望んでいるようだった。
「さあ、みんな、あがってー」
と由紀がホイッスルを鳴らして声をかけると生徒たちはプールから上がり、由紀の元へ集まった。聖子は心の中でドキドキしながら、皆の反応を伺った。生徒たちは、授業の始まりにバスケットハットをかぶっていた聖子が、今はすっかりスイムキャップに変わっていることに気づいた様子だった。
「聖子先生、スイムキャップ似合ってますね」
と野口美晴が声を上げる。
「ありがとう、美晴さん」
と聖子は言った。生徒たちの言葉に少し自信を取り戻し、彼女は人影のないプールサイドで波立つ水面をじっと見つめていた。由紀が続けて話を始めた。
「皆さん、この課外授業では、皆さんが熱心にクロールの練習を重ねてきましたが、まだそれぞれに克服すべき課題が残っています。そこで、これから元水泳部の上村聖子先生が、模範としてクロールを披露してくださいます。どのような点に注意して泳ぐべきか、しっかりと観察してくださいね」
それを聞いた生徒たちは興奮の声を上げ、一斉に拍手を送った。聖子はその拍手の音に鼓舞され、胸の高鳴りを感じる。
「聖子先生が泳ぐの?」
中村歩美が驚きの声を上げると、聖子は嬉しそうに頷きながら返事をした。
「そうよ、みんなが頑張っている姿を見ていると、私も泳ぎたくなっちゃったの。だから、しっかり見ていてね」
すると、京塚咲良が疑問を投げかけた。
「先生、ジャージのままで泳ぐんですか?」
聖子は一瞬、戸惑いの表情を浮かべたが、すぐに微笑み返した。
「あ、じゃあ、ちゃんと水着に着替えてから泳ぐってことね!」
と言ったのは、北野弥生だ。聖子は、オレンジ色のジャージを指差しながら、
「そう。泳ぐときは先生も水着になるから、腕や足の動きなどをしっかり見ておいてね!」
と聖子は意気込んだ。
「それじゃあ聖子先生、1コースのスタート台で準備をお願いします。わたしも一緒に見てますから」
と由紀がにっこり笑う。聖子は心臓が高鳴るのを感じながら、ゆっくりとスタート台へと向かう。
「みんな、私の泳ぎをしっかり見ていてね!」
と意気込んでコース台の前に立った。プールサイドには、スクール水着の生徒たちと、凛々しい競泳水着を着た由紀先生が並んでいる。視線が集まり、緊張感が高まる。前方ではコースロープが揺れ、水面が太陽の光を受けて輝いている。コース台の後ろにはかごが置かれており、いよいよジャージを脱いで水着になる瞬間が近づいていた。
聖子はプールのコース台に立ち、まずはサンダルを脱ぎ捨てる。素足が暖かいタイルに触れる感覚を味わっいながら、心の奥で深呼吸を重ね、これから始まる挑戦に向けて心を整える。続いて、ジャージのウエスト部分に両手を添え、一気にそれを下ろす。瞬時に、聖子の筋肉がしっかりとついた白い肌の大腿部が露わになり、ジャージの裾からは明るい青色のハイレグタイプの競泳水着の生地が顔を出す。脱いだジャージのズボンは丸めてたたみ、脱衣かごに入れる。
それから聖子ジャージの上着の襟元に手をかけ、ファスナーをゆっくりと下ろしていく。その動作に伴い、上着が少しずつ開き、ずっと覆われていた水着姿の全体像が姿を現す。目を引くのは、鮮やかな青色を基にしたハイレグの競泳水着で、薄手の素材は彼女の控えめな胸部や、整ったボディラインを際立たせている。肌を覆う部分が最小限に抑えられているため、聖子の白く日焼けしていない筋肉質の肩や腕がしっかりと露わになっている。背中の肩ひもは細く設計されており、聖子の美しい上腕筋をきれいに引き立てている。脱ぎ捨てられた上着は脱衣かごに入れられた。
聖子が競泳水着姿になると、プールサイドからは驚きと興奮の声が高まった。
「わあ、聖子先生、水着姿、かっこいい!」
という賛辞が、一斉に彼女の周りに響き渡る。ジャージを脱ぎ捨て、競泳水着姿となった聖子は、夏の熱気が肌を刺すように感じ、心地よい緊張感が走るのを実感した。周囲の視線が一斉に集まり、その瞬間、まるで彼女自身もプールの水面のように輝いているかのようだった。
聖子は青色の水着の右胸元部分に書いてある、白い小さな「Believe in yourself」という文字を見つめた。聖その言葉の意味を噛みしめるように考えた。自分を信じること。それが、今の彼女に必要なことだった。「よし、行こう」と心の中で決意する。ゴーグルをかけ、スイムキャップを整えた聖子は、鼓動が高鳴るのを感じながら、スタート台にしっかりと足を置いた。
由紀がスタートの合図のホイッスルを吹いた。それを耳にした途端、聖子はプールの水面に飛び込み、冷たい水が全身を包み込む。瞬間、緊張感が解け、心が解放されていく。彼女は自分のペースを取り戻し、ストロークを始めた。水を切る感触が心地よく、聖子は生徒たちの期待を胸に、全力で泳ぎ続けた。
聖子は水中で体を自由に動かしながら、かつての感覚を思い出していた。ストロークを重ねるごとに、彼女の心は躍動し、生徒たちの視線を感じながら、まるで青春時代に戻ったかのような感覚に浸っていく。水面を滑るたび、歓声が耳に届き、彼女の泳ぎに引き寄せられるように生徒たちの表情が輝いているのが感じられた。
聖子の中に眠っていた情熱が目覚め、彼女は水中で自在に動く感覚を楽しんでいた。ストロークの力強さが増すにつれ、彼女の心にも自信が戻ってくる。生徒たちの応援の声が背中を押し、聖子はさらにスピードを上げた。プールの水面を切る感触は、彼女にかつてのスイマーとしての誇りを思い出させ、心の中で燃え上がる情熱を再確認した。今、彼女はただ泳ぐことに全てを捧げていた。
「私が本当にやるべきことは、ただ1つ! 今、この瞬間を、一生懸命に泳ぎきることよ!」
彼女の心の叫びが響く中、聖子は自分のリズムを崩さずに、確実にストロークを繰り返していく。透明な水面の先には、25メートルプールの壁が迫っていた。聖子はその青い十字に手を触れると、身体をしなやかに曲げて一回転し、強い蹴りをくれて次の方向へと進んでいった。
心地よい水の中で、彼女は自由に身体を動かしながら、生徒たちの期待を思い浮かべた。自分が模範となることで、彼女たちの成長を促すことができる。水中での感覚が蘇り、聖子はその瞬間を楽しむ。彼女は再びストロークを強める。ゴールの壁が見えてきた。心は高鳴っている。最後のストロークを決めると、聖子は壁に手をついて息を整えた。水面に顔を上げた瞬間、彼女の目に映ったのは、拍手を送りながら輝く生徒たちの笑顔だった。
心の中で、彼女は「やった、私はできた」と思い、安堵と喜びが波のように押し寄せる。
「聖子先生、すごかった!」
と中村歩美が声を上げる。
「聖子先生、素晴らしい泳ぎでしたね!」
と由紀が声をかける。聖子は心からの笑顔を返し、
「みんなが頑張っている姿を見て、私も刺激を受けたのよ」
と聖子は笑顔で答えた。プールから上がると、久しぶりに泳いだので、体中がぐったりと疲れていた。青色の水着を着た聖子の白い肌はぐっしょりと濡れ、それに夏の太陽が照り付けている。聖子がプールサイドに立つと、由紀は生徒たちに言った。
「はい、皆さん。聖子先生の泳ぎ、よく見ましたかー。どんなところが良かったですか?」
と由紀が生徒たちに問いかけると、みんなは一斉に手を挙げた。中村歩美が元気よく答える。
「先生のストロークの時の手がとても大きくて力強かったです」
と中村歩美が元気よく答える。聖子はその言葉に嬉しくなり、思わず照れ笑いを浮かべた。
「そうね、あのストロークは水をしっかり捉えるためのものよ」
と聖子が続けると、他の生徒たちも続々と感想を述べ始めた。
「呼吸のタイミングも素晴らしかった!」
と京塚咲良が声を上げる。聖子は、みんなの反応に心が温かくなり、授業の意味を再確認していた。
「じゃあ、今見たように、皆さんも、やってみてください」
と由紀が生徒たちに促す。生徒たちは次々とプールに入っていった。由紀も、そして今度は聖子も水に入った。
プールの水が心地よく全身を包んでくれる。聖子は水中で心地よい浮遊感を味わいながら、目の前の生徒たちに視線を向けた。彼女の中には、自分が彼らの成長を支えているという充実感が広がっていた。
「皆、準備はいい?」
と声をかけると、生徒たちは一斉に頷く。聖子は自らも再びクロールのフォームを確認し、教えた手法を実践することで、彼らに更なる自信を与えようと決意した。
「それじゃあ、私と一緒に泳いでみるわよ!」
と笑顔で宣言し、再び水面を切り裂く。生徒たちもその姿に影響を受け、活気よく水に飛び込んでいくのだった。
そろそろ終わりの時間が来た。由紀と聖子の前で、生徒たちは整列する。今プールサイドにいるのは女性ばかりで、生徒も先生も全員が水着姿だ。
「皆さん、今日の授業はここまでです。お疲れ様でした!」
と由紀が声をかける聖子もその後に続いて、心地よい疲労感を感じながらプールサイドに立つ。
「今日はみんなの頑張りが見られて、本当に嬉しかったわ」
と聖子は満面の笑顔で言った。
最後にシャワーを浴びる。今度は、聖子も生徒や由紀と一緒に、水着になって浴びる。一斉に噴き出す水が、スクール水着の幼い生徒たちや、大人っぽい競泳水着の由紀や聖子の体に降り注いだ。
「聖子先生、また、一緒に泳ぎましょう」
と北野弥生が言う。
「もちろん、またの授業を楽しみにしてるわ」
と聖子は笑顔で応えた。その言葉に、他の生徒たちも一斉に賛同し、シャワーの音とともに響く声が高まる。由紀もその様子を見て嬉しそうに頷く。
「皆さんが楽しんでくれたなら、私たちも嬉しいわ」
と由紀が言うと、生徒たちは笑顔で答えた。聖子は心の中で、次の授業が待ち遠しいと感じていた。水の中で育まれた絆が、彼女たちの心を一つにしていく。
シャワーを終えた生徒たちは、さっそく更衣室へと足を運び、着替えを済ませて帰路についた。夕暮れが迫る中、誰一人いなくなったプールは静寂に包まれた。聖子はプールサイドに腰を下ろし、濡れた水着をバスタオルで丁寧に拭き取った。脱衣かごに残していたジャージの上着を手に取ると、水着の上からさっと羽織った。ファスナーをしっかりと締め、首元まで覆う。続いて、ゆったりとしたズボンを足元から履き込む。オレンジ色のジャージが水着をすっかり覆い隠し、聖子は課外授業が始まった時と同じ姿に戻った。ただ、メディアムヘアの黒髪はまだしっとりとしたままだった。
静まり返ったプールサイドを見渡しながら、聖子はベンチに腰を下ろし、今日の授業を思い返していた。生徒たちの笑顔や元気な歓声が心に響き、温かい気持ちが広がっていくのを感じた。
「聖子先生、今日は本当にありがとうございました」
黒い競泳水着を身にまとった由紀が近づき、聖子に冷えたペットボトルに詰まった麦茶を手渡した。そして、聖子の横に腰掛けた。
「聖子先生、もうジャージに着替えたんですね。もし先生が水着を着ているなら、ジャージなんて上から着る必要はないのに。私のように、最初から水着で授業に出ればいいのに。聖子先生の競泳水着姿、本当に素敵でしたよ」
由紀は、聖子が優雅に水を切っていた瞬間を思い出しながら、少し残念そうに語った。聖子は、
「確かに、そうかもしれないわね。でも、私にはこのジャージを着ているときのほうが、なんだか気持ちが落ち着くの」
「もしかして、水着になるのが恥ずかしいのですか? プールは女性ばかりですし、生徒たちも喜んでくれ巻いたよ」
由紀の言葉に、聖子は思わず少し少し照れくさそうに笑いながら答えた。
「それでも、大勢の前で水着になるのはやっぱり抵抗を感じてしまうのよね。実は、水泳部の時も、そういう気持ちはあったんだけどね。でも、実はジャージを着ているのにはもっと深い理由があるの」
由紀はその言葉に耳を傾け、興味深そうに彼女の表情を見つめていた。
「ジャージを着て肌を覆うことで、水に飛び込むことへの不安感が和らいで、自分を守ってくれているような気がするの。それに、夏の日差しでの焼け具合は健康に良くないし、プールに急に飛び込むと、体が冷えて動きが鈍くなってしまうのよ。だから選手たちは、レースが始まる直前までジャージを着て体を温めているものなの。さらに、ずっとそのジャージを着続けていることで、いざその瞬間が来たときに脱ぐと、心の高揚感が増すの」
と聖子は続けた。由紀はその話に感心し、うなずきながら言った。
「そういう背景があったんですね。」
「そうなの。水に飛び込むまでの間は少しドキドキするんだけど、ジャージを脱いで水着に着替えた瞬間、まるで束縛から解放されたように感じるの。水の中に入ると、自分の全力を注ぎ込むことができるのよ。だから、今はもう、全力を尽くして、何も残っていない状態なの。今はもう、疲れ果ててしまって泳ぐことなんて考えられないけれど、その気持ちよさは格別なのね」
由紀は聖子の言葉に深く頷き、彼女の心情を理解した。泳ぐ瞬間に向けて心を高め、水中での解放感や興奮を感じている聖子の姿に、由紀はますます惹かれるのだった。
二人はしばらく黙ってプールの景色を眺めた。太陽が沈み、プールの水面には夕焼けの色が映り込んでいた。