②期待と不安の水面
金曜日の6時間目が終わり、クラスの生徒たちが教室を出て行った後、白いブラウスにスカート姿の聖子は、更衣室へ向かう廊下を歩いていた。肩にはメッシュのバッグをかけている。これから高畑由紀と一緒に課外授業を行うのだ。
更衣室の扉を開けると、薄暗い空間が広がっていた。聖子は心臓の鼓動が高まるのを感じながら、ロッカーの前に向かった。
「…こんな感じでいいかな……」
聖子は、更衣室の大きな鏡の前に立ち、自分の姿をじっくり観察する。そこには、オレンジ色のジャージを見事に着こなした自分が映っていた。上着のファスナーは首元までしっかりと上げられ、強い印象を与えている。首にはホイッスルをぶら下げ、最後に髪を整えた後、バスケットハットをしっかりとかぶる。
「これで準備完了ね」
と心の中でつぶやく。バスタオルとポーチをしっかりと握りしめ、素足にサンダルを履き替える。聖子は更衣室を後にし、校舎を出た。
外は青空が広がり、太陽の光が降り注いでいた。プールの入口をくぐり、薄暗い階段をゆっくり降りると、プールサイドに到着した。そこには、すでに準備万端の由紀が待っていた。水面に反射する光が彼女の黒い競泳水着を引き立てている。聖子は少し緊張しつつも、「頑張ろう」と自分に言い聞かせた。由紀は振り返り、笑顔で手を振った。
「聖子先生、お待ちしてましたよ」
高畑由紀が元気な声で呼びかける。聖子も緊張を振り払うように笑顔で応えた。
「由紀先生、一緒に頑張りましょうね」
今日の課外授業に参加する生徒たちも、聖子の周りに集まり始めていた。1年生対象の課外授業で、参加しているのは10人ほどだった。みんな、白いスイムキャップに紺色のスクール水着を着ている。
「聖子先生、今日の課外授業に参加してくれるんですか?」
と中村歩美は、期待に胸を膨らませながら尋ねた。
「もちろん、今日は一緒に教えることになっているわよ」
と聖子は、明るい笑顔で答えた。
「それなら、私ももっと頑張らないと!」
と歩美の目はますます輝きを増し、やる気に満ちた表情を見せた。
「さあ、みんな、整列してー。課外授業を始めるわよ」
と由紀が告げて、生徒たちを整列させた。聖子もその後ろに並び、由紀の指示を待つ。プールの水面がきらきらと輝き、夏の訪れを感じさせる。生徒たちの期待に満ちた表情が、聖子の心をさらに高揚させる。由紀は、改めて聖子のことを紹介した。
「皆さん、今日の課外授業は私一人ではなく、上村先生にも参加していただきます。上村先生は普段、国語を担当している先生ですが、現在は加納先生の代わりに水泳の指導も任されています。この授業を通じて、上村先生から多くのことを学び取っていきましょう」
生徒たちは興奮した様子で聖子を見つめ、期待に満ちた眼差しを向ける。
「上村先生、よろしくお願いします!」
生徒たちの元気な声が響く。
「私も、みんなと一緒に楽しみたいと思います」
と聖子は笑顔で返す。
「それでは、まずはウォーミングアップから始めましょう」
と由紀が声をかけた。聖子もその後に続いて、
「みんな、しっかり体をほぐして、準備万端にしましょうね」
と励ます。
由紀は生徒たちの前に立ち、ウォームアップを開始した。ホイッスルの音が鳴ると、皆が腕や肩、足を柔軟に動かし、体をほぐしていく。由紀が着ている水着は、引き締まった筋肉を際立たせており、彼女の動きは説得力を一層引き立てていた。聖子は生徒たちの後ろに立ち、由紀の動きを真剣に見つめながら、ゆっくりとストレッチを始めた。由紀の滑らかな動きに魅了された聖子は、自然と生徒たちに合わせて体を動かし始める。プールサイドはますます活気づき、聖子は仲間と共に体を動かす楽しさを再確認し、心も身体も温かく満たされるのだった。
準備運動を終えるとシャワースペースに向かう。聖子がシャワーの元栓をひねると、水がいい気に噴き出す。由紀は生徒と一緒に噴き出す水の下に体をゆだねた。
「気持ちいいわね!」
ほとばしる水の冷たさが心地よく、由紀が嬉しそうに声を上げると、生徒たちも自然とその声に続く。降り注ぐシャワーが、競泳水着に包まれた由紀の均整の取れた肉体や、女子生徒たちの初々しいスクール水着をまとった肌を余すところなく濡らしていく。聖子は、その様子を優しい眼差しで静かに見守っていた。
「シャワーが終われば、いよいよプールよ」
と聖子が呼びかけた。由紀も頷き、
「さあ、準備ができたら、プールサイドに戻って整列してね」
と声をかける。生徒たちは水滴を垂らしながら、一人、また一人とシャワースペースから出ていく。全員がいなくなったのを見計らってから、由紀はもう一度、念入りにシャワーを浴びてから出た。由紀が上がるのを見計らってから聖子が元栓を締め、二人は並んでプールサイドへと戻った。生徒たちは最初の時と同様に、プールサイドに3列に並んで由紀と聖子が来て次の指示を出してくれるのを待っていた。
「みんな、もう並んでいるなんて偉いわね」
と由紀は声をかけた。
「まずは水に慣れるためのウォーミングアップとして、水中かけっこを行います。さあ、プールに入ってください」
由紀がホイッスルを鳴らして促すと、まずは前列にいた生徒たちが一斉に水中に飛び込んだ。放課後のプールの水は肌にひんやりと心地よく、生徒たちの楽しそうな声がプールの中に響き渡る。水の中で彼女たちははしゃぎながらジャンプしたり、足首を回したりしていた。由紀もその楽しさに誘われるかのように、水面に足を入れた。
「さあ、プールの向こう岸まで走ってみて!」
再び由紀がホイッスルを吹くと、すぐに生徒たちは一斉に駆け出した。しかし、水中での動きは思ったよりも難しく、もがきながら進んでいく。由紀は次のグループに声をかけ、さらにその後のグループにも同様にプールに入るよう指示を出した。
「はい、次、走ってー!」
2列目が走り出すと、残りの生徒にプールに入らせ、同じように走らせる。そうして全員がプールの端にたどり着くと、由紀は次の指示を出した。
「今度はだるま浮きをします。膝を抱えてください」
生徒たちは膝を抱え込み、静かに水面に浮かび上がった。生紺色の水着を身にまとった彼らの背中が、まるで水の中に溶け込むように広がっている。由紀はその光景を見守りながら、だるま浮きのコツを説明し始めた。
「リラックスして、息を吐きながら浮くのよ。力を抜くことがポイントです」
生徒たちは由紀の声に耳を傾けながら、徐々に水面に身を預ける楽しさを味わっていた。彼女たちは軽やかに水の中で遊びながら、自由に泳いでいる。しかし、聖子はこの無邪気なウォーミングアップが、まもなく始まる本格的な泳ぎへとつながる重要なステップであることに気づいていた。
ウォーミングアップを終えると、いよいよ本格的な泳法のレッスンが始まる。由紀は生徒たちをプールサイドに整列させ、熱心に説明を始めた。
「今日は、クロールの練習をします。最初に、皆さんの泳ぎを確認したいので、一人ずつ泳いでみてください」と指示を出す。生徒たちの中で緊張が走るのを見て、聖子が言葉を添える。
「自分のペースで大丈夫よ、リラックスして泳いでね。私も見ているからね」
最初に泳ぐのは野口美晴だ。由紀のホイッスルと同時に泳ぎだした。美晴の泳ぎは、流れる水のように滑らかで、ストロークは力強く、呼吸も見事に合わせている。プールの水面を切るたび、周囲の歓声が上がる。聖子は思わず息を呑み、心の中で「すごい、やっぱり彼女は実力者だ」と感じた。由紀も感心した様子で見守りながら、泳ぎのポイントを生徒たちに説明する。
続いて京塚咲良が水に入った。少し緊張した様子でスタートし、最初の数メートルは不安定だったが、次第にリズムを掴んでいく。聖子は咲良の泳ぎに目を凝らし、気づいた点を持っていたファイルに書き留めた。
その後も、生徒たちは次々とクロールを披露し始めた。泳ぎ方はそれぞれ異なり、技術のレベルも様々だ。聖子は、彼らの泳ぎをじっくり観察しながら、メモ用紙にその様子を細かく記録していく。どの部分を改善すべきかを考え、最適な指導方法を模索する。生徒たちの真剣な姿を目の当たりにしているうちに、聖子はふと自分自身もその場を楽しんでいることに気づく。
「なんだか、私も本物のコーチになった気分だわ…」
と心の中で感じるのだった。
聖子は長い間、水泳から離れていたが、意外なことに、その感覚がふっとよみがえってきた。彼女の心の中には、嬉しさがじわじわと広がっていくのを感じた。全てのメンバーが泳ぎ終えた後、由紀は自主練習をするように指示を出した。聖子は、自分がメモした内容を由紀に見せることにした。
「聖子先生、これ、すごく参考になります! こんな短時間で、ここまで書いてくださって助かります」
と由紀が感心した様子でメモを見つめた。聖子は嬉しさを隠せず、
「いえ、私も楽しく見ていたので、自然と手が動いただけです」
と聖子は照れくさそうに答えた。
「聖子先生のメモをもとにして、レベルに応じて二つのグループに分け、それぞれの課題に取り組みましょう。私は初級者のグループを担当しますので、聖子先生は中級者以上を見てあげてください」
「分かりました、由紀先生。しっかり指導しますね」
と聖子は力強く応じた。
由紀はホイッスルを一吹きして、自主練習をしていた生徒たちをプールサイドに集めた。
「さあ、この後は二つのグループに分けて練習をします。中級以上の人たちは聖子先生、初級者は私がみます」
生徒たちは一瞬戸惑った様子を見せたが、すぐに期待に満ちた表情に変わった。由紀はグループ分けのメンバーを読み上げる。生徒は二つのグループに分かれ、プールのそれぞれのコースに移動した。中級の生徒5名が聖子の前に並んだ。今回は人数が少ないので、充分に教えることができそうだ。
「さあ、みんな、今日はそれぞれのペースで練習していきましょうね」
聖子は明るい声で生徒たちに呼びかけた。生徒たちは緊張しつつも、期待に胸を膨らませている。
「今日は、クロールのストロークを強化することにしましょう。しっかりフォームを意識して、みんなの個性を引き出していきましょうね」
聖子は生徒たちの表情を見渡し、彼女たちの緊張を和らげるために、さらに笑顔を向けた。
「まずは、ウォーミングアップから始めましょう。水に入って、腕を大きく回してみて」
生徒たちは少しずつ楽しそうに水の中で腕を回し始める。
「次は、ストロークの練習に移りますよ。水面をしっかりと捉えながら、力強く腕を引いてみてください」
生徒たちはその言葉に応じて、次々とクロールを試みる。聖子は先ほどのメモを手に、一人ひとりに向けた具体的な指導を始めた。聖子は彼女たちの動きを注意深く観察し、時折アドバイスを送りながら、彼女たちの成長を促していく。プールサイドには、爽やかな水の音と共に、楽しげな笑い声が響き渡った。
「歩美さん、手の動きをもう少し大きくすると、スピードが上がります。他の皆さんも、視線を前に向けることを意識して泳いでみてください」
生徒たちは聖子のアドバイスに耳を傾け、熱心に取り組んでいた。水面を切る音が心地よく響き、彼女の指導に対する反応が嬉しくてたまらなかった。少しずつ、みんなの泳ぎが洗練されていく様子を見て、聖子の心も高揚していく。
「この調子で、どんどん自信を持って泳いでいこうー」
と、聖子は更なる励ましの言葉をかけるのだった。
「弥生さん、あなたは呼吸のタイミングをもう少し意識して。水面でしっかりと息継ぎをすることで、泳ぎが楽になるわよ」
北野は聖子の言葉に頷き、意識を集中させた。彼女は水中での呼吸を意識し始め、リズムを掴もうと試みた。周りの生徒たちも、それぞれの課題に挑戦し、プールには活気が満ちていた。聖子は自身の気持ちを少しずつ解放し、指導する楽しさを感じていた。
こうしてしばらくは順調だった。しかし、練習が進むにつれて、聖子は生徒たちが自分の言葉を十分に理解していないのではないかという不安を抱き始めた。彼女は心の中で葛藤しながら、生徒たちの動きに目を凝らした。プールサイドから声をかけてアドバイスを送ると、生徒たちはその時はしっかり耳を傾けるものの、練習が始まるとその動きはどこか鈍くなってしまっていた。聖子は、先日の授業でも、同じようにもどかしく思っていたことを思い出していた。一方で、由紀が指導している初級グループは、人数も聖子のクラスより多いにもかかわらず、皆が始めた頃に比べて着実に成長しているように見える。聖子の心の内に焦りが広がった。右手の指が、ジャージのファスナーに触れていた。
「聖子先生、大丈夫ですか?」
と生徒の一人が心配そうに声をかけた。
「うん、大丈夫よ」
と聖子は微笑みを浮かべながら返事をしたが、その裏では不安が渦巻いていた。
「皆さん、今の練習を再度振り返ってみましょう。水中での動きや呼吸に意識を向けて、もう一度挑戦してみてください」
聖子は自らの声を励ましのトーンに変えて再びプールを見つめた。生徒たちは一生懸命に練習を続けていたが、聖子の心の中には、それでも焦りが残り続けていた。生徒たちの期待に応えたいという強い思いが、逆にプレッシャーとなって彼女を押し潰しそうだった。生徒たちの成長が思い通りにいかないことが、彼女の指導方法に対する不安を呼び起こし、由紀のクラスの生徒たちと比べてしまうことで自己評価が低下していることを感じていた。
彼女は深呼吸し、気持ちを落ち着ける。自分の専門は国語であるし、水泳もしていたとはいえ高校までのことなのだ。体育も水泳も、教えるのはいわば素人同然なのだ。校長も、見ているだけでいいと言ってくれた。
「そうよね、私が水泳なんて教えられるはずないわよね。だって、私はもともと国語の教師なんだから」
聖子は自分にそう言い聞かせ、少しずつ心を落ち着かせようとする。それでも、心のどこかでは生徒たちの期待に応えたいという思いが消えない。聖子は思い詰めた表情のまま、生徒たちの泳ぎを見守り続けた。心の中の葛藤は深まるばかりだった。
「聖子先生、どう? うまくいっている?」
由紀が様子を見に来た。
聖子は由紀の言葉に驚き、焦った表情を隠すように微笑んだ。
「ええ、まあ、なんとかやっていますけど…」
と言葉を濁す。由紀は彼女の様子を見て、心配そうに眉をひそめた。
「聖子先生、何か困っていることがあれば、遠慮なく言ってくださいね」
聖子はその言葉に心が温かくなり、素直な気持ちになった。
「最初のうちはうまくいっていたんだけど、だんだん生徒たちが私の言葉を理解できていないみたいで…」
聖子は着ているジャージの上着に手をやりながら、ため息をついた。
目の前には、由紀が黒い競泳水着を着て自信に満ちた表情で立っており、聖子はその姿に思わず目を奪われ、緊張感を隠すようにジャージのファスナーをいじりながら小声で呟いた。
「…やはり、プールサイドから教えるだけじゃ足りないのかな」
それを聞いて由紀は頷き、柔らかな笑顔で言った。
「それなら、もっと近くで指導してみるのもいいかもしれませんね」
「近くで指導って?」
聖子は不安げに尋ねた。由紀が微笑む。
「そう、プールに入って、一緒に泳ぎながら教えるのよ。生徒たちも、実際に見せてもらった方が分かりやすいと思いますよ」