一、『春愁』
夢を見ていた。
そうだ、私は旅に出たんだ。
目前の災厄に背を向けて、何かから逃げ続け、大切なものを見捨てて、ここまで。
ただ、穏やかにここまで来たわけじゃない。
連なっていた身体の重力に弾き飛ばされ、初めての別れを経験した。
全てを吸い込むように塗り潰された虚の中で、終わることのない旅路は始まった。
振り返れない。上も、下も、私は何処も向くことも出来ない。
空気のない波に打たれ、この命からは既に色が抜け落ちていた。
ならばせめて眠ろう。果てしない赤が止まるまで、酔いのように眠ったっていい。
でも、何もかも分かっていた筈なのに、私の心にはまだ知らないことがある。
結局彼らは、死から逸れることをどう受け止めたのだろうか。
──────────夢か。
物語は夢から始まることが多い。
時に恐ろしい悪夢を見て飛び跳ねるように目を醒ましたり、時に穏やかな夢が胸から抜け落ちたような感覚に陥ることもある。
もうじきこの場所にも春が訪れるだろう、そのせいもあって仄かに漂う温さに身を任せてしまったようだ。
「………ぅ。」
桜の花を髪に載せた少女─しんよさは眼裏を白く塗りつぶした。
木の葉同士が靡き擦れ合う音が心地良い。浜辺からは細やかな風が挨拶を交わしてきた。
木に寄りかかっていた頭を起こそうとして違和感に気がつく。何かが乗っている。頭が持ち上がらないというほどではないが、確かに感じる重量。
「?」
右手で髪を払うと、すぐ側からバタバタと小さい音が鳴り響いた。行方を追いかけたところで、その正体は小鳥だったことが分かった。どうやらしんよさの髪飾りの桜を本物だと勘違いしていたらしい。
視線は羽搏きによって手を引かれ、雲一つなく広々とした青空に移行する。あまりにも広大なものだから自分の存在なんてちっぽけに思えて仕方ない。それに対する些細な反抗心からか、しんよさの身体は猫のような伸びを無意識にしていた。
「んぅっ〜〜んなっ!……そうだ、今何時くらいだろ。」
木陰から近くの時計台を覗き込む。短針は4と5の間を、長針は8を指していた。
「やっば…ちょっと寝すぎちゃった。」
まだ力が注ぎきっていない脚を奮い立たせ、急いで立ち上がる。服についた微かな汚れを両手ではたいて落とす。
「よしっ、行こう。」
さく、さくっ、と沈み込むような砂浜に足を踏み入れていく。海岸沿いを歩くのは好きだ。色、音、匂い、風の滑らかさ、空気の味、あらゆる条件が絡み合い、重なり、一致することで一つの情景を産む。本来それはどんな空間にだって起こり得るもので、感じようと思えばいつだって感じられるものだが、見落とさないようしっかり気を張っていても、淡々と過ごす日常ではそれを度々見失ってしまう。流れていく波に流されぬように足を止め、その感覚を思い出すにはちょうどいい場所だ。
それに、こうしている間は光る画面を見る必要もないし、イヤホンだってつけなくていい。どういう風に歩いていっても自由だ。そう思うとどうにも身体が軽くなる。
ざーっ、ざーっ、と。
「ふんふふんふふ〜ん」
一定間隔で刻まれるリズムに合わせ、ちょっとした旋律を。
この場所は綺麗だが今は人が少ない。通年暖かいとはいえ、シーズンが外れているので海水浴に来る者もいない。浜辺から少し外れた木陰はしんよさにとって時々訪れたくなる『秘密基地』のような場所だった。
ざーっ……ざーっ……ざ……ざばぁ
「あれっ」
指揮が突如として止み、歩幅や鼓動といった様々なリズムが乱れた。この場所には岩場がなく、大抵は長い浜辺だ。ゆえに波の間隔がズレることはそうそうない。視線が移ろう。
青い海と、青い空の狭間に
「えっ…!?」
青い少女は倒れていた。