擬人化2・演技
前回は整理前の草稿というべきですがあえて残します。
思考途中を残すのもこの文章のスタイルですので。
かなり多くのことが前回の繰り返しになります、
分かりにくいとのことで、「擬人化」という言葉の解説を中心に改稿しました。
前回は、色々な要素が混ざって、形になる直前に投稿してしまいました。
「国の擬人化」に、さらに前に言葉にした、演技・演劇、行進など体を動かすことが、演じる本人も観客も変えることを加えた時、とんでもないことが浮かびました。その演技・演劇の力はドーキンスやデネットと同じ科学・無神論を前提に置いても、強力な心理効果があることは間違いありません。
儀式の威力などを語る本もある程度あります。
過去にこのシリーズで検討した「呪術・パレード」「運動・演技」「暦」「予言」「上位存在」「支配者に超能力を要求」をまとめて考え合わせるととんでもない結論が。
先にその結論を…
人は国家を擬人化するが、そこまで大きい存在を擬人化すると神になる。「人」と「神」はその文脈ではかなり連続的に拡大されて変化する。
国家の擬人化と同時に、現実の一人の人類…指導者を、その擬人化された国=「神」と合一化することが多くある。
擬人化されたすごい存在と合一化する方法は、演技。
その人は、普通の人ではなく「神」のふるまいをしなければならない。人間の擬人化にはおそらく、「人」と、それと地続きの「神」モードがヒューマンユニバーサルのプリインストールキャラクターとしてあり、「神」……人間が大集団や大自然を擬人化するために作るモデル・キャラクターは知能が低い。古い神話では普遍的に、神は愚かな行動をする、極端に感情的で幼稚で乱暴な人間と同じような性格をしている。
擬人化された国と合一化して神になるためには、知能が低い存在を演じ、その演技に自分の心が影響されて変わることすら必要。
だから、国は戦争ではバカをやる。国というスーパーロボットに乗るには神でなければならないが、神である=バカ。
先にもう一度、「擬人化」という言葉を考えてみましょう。
「擬人化」とは何でしょう。
人が、人でないものごとを、人だと見てしまうこと。
犬に人間の言葉で話しかける。人間の赤ちゃんを抱き上げるように抱く……犬は嫌がる。人の目には、犬は、形は人と違うが人の赤ん坊と同じような存在に思えてしまう。その先には、マンガで犬がしゃべり、二本足で立って歩くことも違和感がないと思ってしまう。
人形には生命はない。でもそれが生命がある人間であるように話しかける。
風は生物でもないし人間でもない。でも風に大切なものを飛ばされて損害を受けたら風にバカヤローと文句を言い、昔の人は生命を脅かし恵みももたらす風が人であるかのように祈り、頼みごとをする。
根本的には、人間の脳の、「人間」として見てしまう存在を検出する機能のはたらきです。
火星の人面岩事件、ぼんやりした画像の中で人の顔のように見えてしまった模様があった、より優れた衛星から見れば人の顔とは全然違った、その模様で全世界が大騒ぎしました。ほかにもヘイケガニや顔文字など、それほど似ていないものを、人の顔として検出してしまうことが人間の癖です。
三つの点だけでも両目と口という三つの穴と感じてしまうほど、その脳の動き方は激しい。
さらに、ものすごく幼い子に、たとえば坂道を二つの丸が動く、というような単純極まりないアニメーションを見せても反応し、それが「親切」「意地悪」などを検出する。
それらは脳のシステム1、縄を見て蛇だとおびえるように、誤検出でもいいから危険を警告せよ、人の顔を検出してその表情から感情を読み敵味方を判定せよ、というとても速く、考えない働きです。感情とか本能とかにより近い。
筆者はその、人でないものを人だと見る、という脳の働きは、普通に考える以上に人間の心・意識の本質だと思います。
実際に人間である他人・自分、自分の心、それもまた、「擬人化」されたものだ、と。
ものごとを、「人」という言葉・カテゴリー・分類に当てはめる。単純化する。
心の理論……他人も、自分と同じように心・思考や欲があると考える。人間らしい心がある、欲望や愛や憎悪があり、言葉を使う。善であるか悪であるか、穢れているか清浄か、すごいか、などがある。意識はしていなくても人類共通で、肉体とは別の魂があり、それは人の姿をしていくつかの能力があり、死んでも消えない。そういう「人」。
自分自身も、そんな「人」だと、単純化している。
単純化。まるで現実のタレントを、色を塗った円形と対応させるように。
その変形で、人でない存在も「人」と同じような心があると考える。
たぶん現実の地球人と、「人」はかなり違う。太陽と、擬人化された太陽神……動物の頭をした人間の絵とか……が異なるように。
その擬人化は、抽象的なことにも働く。
上でも言いましたが『ヘタリア』『艦隊これくしょん』など、国家という、人の言葉などの中にある何か~地図の上で確定している国土~属しているとされる、その国土にいるとも限らない人間~の集まり、ハラリの言葉で言えば苦しまない、生物とは違う存在を、「人」として一つの漫画キャラクターと対応させる。とんでもないことをしているが、人間はそれで理解できるし、そう考えるほうが自然。
さらに言えば、その「人」をどうとらえるかには、人類の内集団・仲間と、外集団・敵のきわめて強い区別が働く。ある意味での「人」は内集団だけで、内集団のメンバーのためなら自己犠牲もするし財産も共有するし、その人が傷つき苦しんだら自分も苦しいと感じるほどだが、外集団の{人}はある意味「人」ではない、人格がない存在となり、ある心理状態であれば子供を拷問惨殺しても何の呵責もない。それをやっている人は他の点では完全に善人であることも十分あり得る。
レッテル、という言葉……人間にレッテルを張り、それで判断してしまう。人が人をなんと見るか、それを「人格」とするならば、その「人格」の情報量をできるだけ小さくする……それこそ「善人」「悪人」の01デジタルだけにしようとする。ほかにも人種、性別、国籍など。
それも、「擬人化」という心の異様な働きの一つの形。
巨大な人間集団に、擬人化・演技の力がはたらく、「神」といいたい、ハラリが言う集団虚構が出現し、それが崩壊する……その心理は恐ろしいものです。
その支配力がどれほど強いか。
一瞬で多人数のあいだに、普通とは別の「善悪のモノサシ=規範=実質、法」が出現し、それぞれの善悪、命惜しさ、警察の恐怖も消えうせてしまう。
むしろ子供の集団が瞬間的に「女子と遊ぶな」「(人気のある男子)**くんに声をかけるな」などの集団規範を作り、あるいは「いじめ」という集団の奇妙な行動が生じ、その心の力は国法や殺人タブーよりはるかに強いものと化す。
どこまでいけばその、魔法のような空気が崩れるのかは誰も知らない。崩し方も知らない……だからGHQは日本を占領して、どうすれば日本人の軍国主義を殺せるかわからず、やみくもにあれもこれも禁止した……としか思えない。
元々、言葉そのものが、「国が亡びる」という言葉それ自体がとんでもない擬人化です。他にも人間のあらゆる言葉が、何語であっても、事実上すべて擬人化でできていることは容易にわかるしょう。
国という巨大集団、かつハラリの基準で言えば苦しまない集団虚構でしかないものが、擬人化される。
擬人化の時まず行われるのが、敵味方識別装置。善人か悪人かを瞬時に判定する。
誰もが、あらゆる現実、そしてあらゆるSFの国を、善と悪かで判断します。
それで起きた悲劇と思えるのが、イエスの処刑からしばらくして古代ローマに支配されたユダヤ人が反乱し、第二神殿が破壊されユダヤ人が全世界に離散したユダヤ戦争。どう考えても独立国であるより、また別の国より、古代ローマは法・街道・治水・宗教弾圧などすべてにおいてベターだったはずです。しかしユダヤ人たちは、古代ローマを悪と断じ、自分の生命を捨てて抵抗したのです。
あらゆるところに同じ構造が見られます。
話を戻しましょう。人は、「国」という巨大なナニカを、擬人化する。人ではないはずなのに、擬人化の意味での「人」だと心がとらえる。
「国」や、海や太陽や空や山、何千人もの大群衆、それほどに巨大な存在を「擬人化」しようとすると、それは「人」というより「神」、「擬神化」ともなる。バルト神学とは異なり、その意味での「神」は、「人」と次元などが異なる存在ではなく、「人」とものすごく連続的につながる。隣の普通の人、ものすごい英雄、伝説の英雄、さらに山、……と、その大きくなり方はとても連続的。
人は、「擬人化」と強く関係する心の在り方として、演技・演劇を行う。普通に娯楽として行われるそれは、人の営みのものすごい根本。
ヒューマン・ユニバーサルとして、世界のどんな原始部族でも、物語を語る……群れの物語、神話を語り、英雄や神を演じ、自分たちが何なのかを言葉と、身振りや踊り、服装で表現する。
それは、「模倣」という人の根本にもかかわる。チンパンジーと人の大きな違いの一つは、チンパンジーは模倣をしないが人は模倣をものすごく好むということ。他人の行動を模倣し、石器作りなどその根本を抽出して理解し、自分もできるようになる、その積み重ねこそが人類を成功させた。
さらに、演技……他人、またもっと大きな抽象概念・集団虚構も「擬人化」して、「演技」することで、霊が存在しないという前提でも、膨大な人の心を動かすことが可能。
考えてみれば、「人格」の語源につながる「ペルソナ」は、劇という神事のための仮面を語源とする……まさに仮面をつける、外見を人工的に変え、自分の身動きを変え、言葉を口から声で出すことで、神になる。変身する。自分の心も変える。
服、演技、さらに巨大な邸宅などは、変身でもある。それは人間にとってとても深くから真実と思ってしまうこと。
人を支配する、ものすごい人数の国を支配する、それをするには、人間よりはるかに優れた強大な「神」を演じなければならない。
超能力がある、強い、常勝の天才・不敗の魔術師、伝説の英雄……そのような普通の人間より巨大な存在だと誰もが思わなければならない。
そのために、演じる。神を=王を。支配者を。士官を。中尉を。軍曹を。教師を。すべて役割を演技している。
中でも、国を治めたり軍隊を指揮したりするには、「神」にならなければならない。
スーパーロボットに乗るには資格が必要なように、「国」という強すぎるスーパーロボットに乗るには、「神」にならなければならない。擬人化・擬神化、演技の効果で。
その「神」は愚かであり、それを演じてしまった人は、自分が演じている役に影響されて人格が変化してしまう……だから愚かなことをして国を誤る。
スーパーロボットアニメなどでは、ロボットに乗るには資格などが必要になります。
『ライディーン』では血筋と超能力。『エヴァンゲリオン』はサードチルドレンと、普通のそこらの少年ではなく何かの資格があること。
『ガンダムUC』では、最初に起動した時点で生体情報を採られてバナージにしか起動できなくなった。
スーパーロボットで多くあるのがコスチューム。『エヴァンゲリオン』『ファフナー』などではその服そのものに、ロボットとつながるための要素があり、それゆえにやたらとセクシーでもある……視聴者サービスを兼ねる。
だが、コスチュームは重要な要素になる。軍服によって軍に属すかどうかを見分け、その軍服を着続けることで軍の一員という自覚が強まる=精神をかなり深くから改造される。それは学校の制服、キリスト教修道院でも日本の仏教僧でも同様の構造がある。
服の色の規制は、昔の中国でも日本でも極めて重要で、古代ローマでも貝紫は皇帝紫と言われ禁色。
そのように、服から、人間ではなく神を演じ、神に変身することで、人はロボットに乗れる……
極端になると、服・ロボット側から肉体も改造されることも受け入れる。『ファフナー』では性格が変容する。『クリスタルサイレンス』でも緑を視覚から消すことによる精神操作が描かれた。
『ギャラクシーエンジェル』では敵側が、脳を機械側から出た触手に食い荒らされ、救えなくなるほど改造されて超理性的に戦うようになった。
『超獣機神ダンクーガ』は獣の精神になることがキーになる。おそらくそちらのほうがより真実に近い。
思い出すのが、太平天国の乱で、指導者たちは最初平等を訴えながら、すぐ皇帝と同じような生活を始めたことを批判した本がある。でもその批判は、わかっていないのではないか?百万人を扱うにはほかに方法がなかっただけ、むしろ賢かった、という可能性もある。
陳勝呉広の乱でも、反乱軍のリーダーとなった農民の陳勝らはすぐに宮殿を作り贅沢を始めて自滅した、それは自滅だと言われるが……そうしなければ、何万人もの人を指揮できなかったのでは?
以前要塞や都市について考えた時、その贅沢と巨大そのものの持つ力ももっと考えるべきでした。
さらにこれは恐ろしい結論にもなります。『火の鳥 未来編』では、人類が支配をゆだねたコンピュータが暴君になり、狂って人類も自分も滅ぼした。でも、狂った性格・ふるまいをしていなければ、多数の人間はついていかなかったのでは?まともであったら誰も従わず人類は数十年で滅んだ、狂った暴君だったからこそ何百年か人類は延命できた、その二択だったのでは?
もっと恐ろしいのは、愚民を批判する……しかし、その規模の人間集団は、必然的に愚かな行動をとるしかないに等しいのでは?だから愚民と言われる行動がみられるのでは?一人一人を教育すれば賢民になる、というのがどれほどうまくいかないことか。
繰り返し、まとめます。ある役を演じたら、演じている本人も変わらないということは難しい。それが、演技ということの本質と言える。訓練や行進や仕事も含む。
特に権力・身分を伴うことは、演技だったはずが、自分が本当に「その役柄」だと信じ、その「役柄」の性格に変わってしまうのが人間の性。
そして、「権力者」「支配者」=「神」=「膨大すぎる人数が集まった、国家を擬人化したもの」は、とてつもなく愚かで傲慢で乱暴。過ちを認めず、サンクコストを計算できない。
=権力者・将軍は、自分は絶対に負けない、自分は絶対正しい、と確信してしまい、それが全員に感染する、むしろ上から下に影響し、下から上に影響する循環、正のフィードバックでとてつもなく確信が強まる。
だから、ペロポネソス戦争でのシケリア遠征=派閥抗争から複数の将軍で将軍に任せもせず兵站もない、全滅してアテネの敗北に……インパール=意地だけで兵站無視、悲惨すぎる敗北……そして『銀河英雄伝説』のアムリッツァ、政治家が票を得るため+軍内の対抗意識だけで起こされ、兵站も目的もなく同盟を滅ぼした。他にも多数の、軍事的愚行の歴史がある。
筆者はもともと、アムリッツァは必然であることを反証したくてこの文章を書き始めたようなものです。しかし、今事実上、アムリッツァは繰り返されると証明したようなもの……フレッド・ホイルが自分が嫌ったビッグバン宇宙論を確立したような、アインシュタインが自分が否定した膨張宇宙や宇宙定数や確率がある量子力学に貢献したような気分です。
ただ、それでもまだ考え続けることはできます。『バーサーカー』で、バーサーカーが放射性原子サイコロで戦術を選んでいる、という逃げ道はSFに用意されていますし。
その、指導者・支配者を演じる、ということは多くのミリタリSFで意識的に出ます。特に下賤から士官・指導者になっていく人はそれを意識しなければなりません。いい家に生まれた人間は意識するまでもなく当たり前にしていますから。
『孤児たちの軍隊』では指揮することがどういうことなのか、負傷した上官に教わります。それでも彼は、部下たちは兄弟でもあることを忘れませんでしたが。
演じること、仕事をすることで、乱暴で愚かな神の性格に汚染され、そうなってしまい、間違った判断をする……その恐ろしさは、軍や政治を扱うSFの多くが自覚しています。
逆に、多くの軍・帝国SFの主人公たちは、それから離れた性格を持つのです。
『銀河英雄伝説』のヤンは、何百万人の生命を預かり、冷徹に何万人も味方を死なせる天秤を動かしながら、表面には何も出さず、のんきで抜けた平凡な青年であり続けています。だからこそ誰もが熱狂的に従います。
『彷徨える艦隊』は、ファルコとギアリーがとても対照的です。ファルコは自分が正しいこと、祖国を救えるのが自分であることを確信しており、だからこそ多くの人が熱狂的に従い、愚劣な命令に従って敵に突撃します。ギアリーは自分が間違っていることを前提にし、独裁者になることを激しく拒みます。リオーネはそれを疑い続けますが。
『タイラー』のタイラーも、軍人らしくない態度とふるまいが強調され、最上位に行ったら妻と引退してドッグレースの予想屋で貧しく暮らしました。実際には誰よりも冷酷な決断をしましたが。
『宇宙軍士官学校』の恵一は宇宙のモノサシで見ても英雄ですが、常に自分は試験がなければ場末の憲兵だ、いつでも戻れる、今やっているのは演技だ、それを忘れたら絶対に破滅的な失敗をする、と自分に言い聞かせ続け、結婚も恋愛も拒むほど自信がありません。
『エンダーのゲーム』では、人の命を背負うプレッシャーによる判断ミスが出ないように、それはゲームだと騙しました。真相に気づいたビーンは部下に特攻を命じつつ聖書を引用し神にすがりました。
『ヴォルコシガン・サガ』では、マークが失敗したときに自分を部品、鎖帷子の一つの輪、とすることをグレゴール帝に教わり、オーケストラのようなものか、だから自分ではだめだった、と悟ります。そのあたりは実に丁寧。
『デューン』のポール・アトレイデこそ、人が神になってしまう、というのがどのようなことか徹底的に描かれたと言えます。
また「神」になることの恐ろしさを丁寧に描いているのが『グイン・サーガ(栗本薫)』でしょう。
イシュトバーンが王になった、彼は長年の夢がかなったとき、その恐ろしさに圧倒されカメロンにすがりました。
カメロンは何度も、それ以上そちらに行くなと止めようとします……彼自身は小国の将軍だった、自分もそこの王も人間性を失いつくさなくてもやっていけたからでしょう。おそらく、動乱時代の新興大国の王としてはイシュトバーンが正しい……
「神」の愚かな判断をしない、人々を惹きつけられる力がありながら判断力を失わない……それが、『現実』のアレクサンダー、韓信、源義経ら軍事的天才なのかもしれません。ラインハルトもそうでしょう。
最小限のまともな判断もできない……『火の鳥 乱世編』では、清盛の寵姫だった女が崖からの襲撃の可能性を言いますが、平家のえらい人たちは言を左右にして断固として対策を拒みます。普通の人間が常識で見ればわかることを、ちゃんとやることは、身分で築かれた巨大集団の指揮官はできないのです。
どうすればそんな存在を作れるか……不可能に思えます。
『現実』では、戦国大名や将軍が我が子を厳しく教育するケースはあります。
後北条家は厳しい教育で、三代続けて名君でした……が、その次は失敗しました。
清やムガルも最初のほうの三代ぐらいは超名君です。でもその後はダメです。
徳川慶喜の幼少期、西洋ではフリードリヒ大王やフランツ・ヨーゼフ一世などがとんでもなく厳しい幼児からの教育を受けたことが知られています。王が強く賢く無欲で……と高い人格であれば革命は起きまい、と。
『タイラー』では、銀河三分のためタイラーは自分の100%クローンを作りましたが、彼は一族の低めのところの養子として正体を明かさず出し、いじめられる存在として苦しい育ちをさせました。
この、「国の擬人化」「擬人化された国=神を演じる指導者が、その演技によって精神を、愚かなキャラクターに汚染される」という洞察は、歴史の大半を強く説明できる強力すぎる考え方です。
だからこそ、他の見方はないか考えてみたい。
そして国が愚行をすることを避ける、その方法として『バーサーカー』があることは忘れてはならないでしょう。
あれとは違うにしても、批判し続ける。間違っていないか疑い続ける。考え続ける。
そうしなければ……『三体シリーズ』の最後や、もっと多くの悲惨が待っている……それに向かう人間の、力というべきものは、想像を絶するほどに強かった。
……人間そのものが自分を知ること。それがどの程度有効なのかはわかりません。わからないことしか希望はありません、分かってしまったらおそらく絶望するでしょう。
本を読み続けるしかないです。




