三、異変
意識が遠のいていたのは、僅かな時間だったらしい。
「…りこ、どうしたの、大丈夫? ねえ、桐子…!」
美里の声に、目を開けると、村長が居なかった。
「ちょっと目眩がしただけ。もう大丈夫よ。村長は…?」
「外の様子を見に行ったの。何だか、だんだん騒がしくなってきたから」
美里は、不安そうだった。
言われてみれば、外で大勢の人の声がする。言葉までは聞き取れないが、興奮気味の高声に、悲鳴やら怒号やらも混じっていた。
これが、予見した災いのせいなら、美里に危険が迫っている。
桐子は、美里の手を掴んだ。
「聞いて、美里。何があったか分からないけど、危ないから、しばらく外に出ては駄目」
「…何が見えたの?」
美里が怯えた眼で訊いてきたその時、襖がスパンと開いた。村長が、肩で息をしながら立っている。
「大変なことになった。結界が…、魔人結界が、消滅してる!」
美里はギュッと、桐子の手を掴み返してきた。
「消滅って…、どうしたの? 何があったの?」
「分からない。どうやら、いきなり消えたらしい。気が付いた人が騒ぎ出して、様子を見に出た人達が合流して、どんどん騒ぎが大きくなってる。大半が、半神の仕業だと言ってるが、それらしき姿を見た人はいないようだ。今は皆、どうしたら良いか、仙人様にお伺いを立てると言っているが…」
だとすれば、パニックを起こした群衆が、仙人の祠に押しかけることになる。
桐子は、慌てて立ち上がった。少し、足元がふらついたが、何とか踏み止まる。
仙人の祠に、いつものお参りに行っている筈のパパ…!
「ごめんなさい、村長。とりあえず、父の様子を見に行っても良いですか? それと、パニックを起こした人達に、乱暴なことをされるといけないから、美里は落ち着くまで外に出さないで」
桐子が何か、悪い事が起きるのを予見したのは、村長も察したらしい。
「分かった、美里はしっかり守っておくから、とりあえず行っておいで。私も、菅田先生のアドバイスは聞いておきたい」
「すみません。後でちゃんと、話はしに来ますから」
桐子は村長に頭を下げると、外に出た。気が急くまま、家の方に走り出す。占いの衣装は動きにくいし、ジャラジャラしたアクセサリーは邪魔だが、何とかする時間も惜しい。
辺りは、確かに騒然としていた。普段ならあり得ない人数の村人が、道にひしめいている。
半神が襲ってきた…仙人様は殺されたのか…村の守りが無くなった…ざわめきの中に、そんな声が聞こえた。
村の守りとは、魔人結界のことか。人も獣も何の抵抗もなく通り抜けられる、あんなただの発光体が、何の役に立っていたというのだろう…?
桐子は走りながら、空を見上げた。暮れてきた空は、いつもの淡い光のヴェールを剥ぎ取られて、禍々しいほど剥き出しに見えた。結界の輝きに霞まない星々は、一つ一つがギラギラと、鋭く凶悪な光を放っている。
父は、結界の外は危険ではないと言うけれど…。
それでいて父は、自ら結界の外に出ようとは、決してしなかった。「口先ばかりの臆病者」…反対する村人にそんなふうに言われ、桐子がどんなに悔しかったか。
父本人は、ケロリとしていた。
「あの人達は、自分にやる勇気がないことを勧められて、反発しているだけだよ。できないんじゃなく、やりたくないだけなんだ、ってことに、気付けずにいるんだ。いや…薄々気付いているから、臆病者の称号を、他人に転嫁しようとしてるのかな」
「じゃあ、パパは何で、自分で外の世界に出て行かないの…?」
桐子の問いに、父は少し、辛そうな顔をした。
「出ても良いんだ…それが、最善の道であれば。ただ、今はまだ、ここでやるべき事があるから」
桐子には、良く分からない答えだったが、父が何か葛藤を抱えていることは分かった。
父が何で迷っているにせよ、急に結界が消えた今、反発する人達がどんな行動に出るか分からない。桐子は走りにくいサンダルで、精一杯足を早めた。
家が近くなってきた辺りで、急に角を曲がってきた誰かに、避ける間もなく思い切りぶつかってしまった。小柄な桐子は、ひとたまりもなく跳ね飛ばされて、道路に突き転がされた。一瞬、息が止まって、声も出ない。
「いったぁい…!」
一拍置いて泣き声が漏れた。
「すみません!…大丈夫ですか、お怪我は?」
ぶつかった相手が、近寄ってきて屈み込む。
珍しく、知らない相手だった。村人には違いないが、この辺の住人ではない。三十代半ばぐらいの男性で、背はそれほど高くないが、がっしりと筋肉質の体つき。
これにぶつかったのか…道理で、壁にぶち当たったような衝撃だった。
桐子は恐る恐る、体をあちこち動かしてみた。
「何とか、大丈夫…みたい」
もぞもぞと上体を起こすと、相手の男が軽々と、助け起こして立たせてくれた。
「本当にすみません。私の前方不注意でした。少し、急いでいたもので」
「いえ…私も、ロクに回りを見ないで走っていたから…。本当に大丈夫なので、行っていいですよ。急いでいらしたんでしょう…?」
「まあ、そうなんですが…。分かりました、何かありましたら、明日以降、警察署の方へいらしてください。今は、失礼させて頂きます」
男は一礼すると、キビキビとした早足で立ち去った。
そうか…警察官なんだ。道理で、鍛えた体つきをしていた。きっと、この騒ぎであちこちに呼び出されているのだろう。
衝突で少し頭が冷え、桐子はトボトボと歩き出した。
そう…パニックを起こしている人ばかりではない。皆を落ち着かせようと動いている人達もいる。父も多分、皆を宥める側に回っていることだろう。自分も少し、落ち着かなくては。
ひとまず、家に帰って着替えることにした。
父はまだ帰っていないようで、家の中は暗かった。中に入って明かりを点け、自室に向かう。着替えを持って脱衣場に行くと、桐子は思い切り良く占い衣装を脱ぎ捨てた。洗面台で水をジャブジャブ流しながら、気持ちの悪い化粧を落とす。まだ濡れたままの顔を上げ、結い上げた髪を解くと、ようやく自分に戻った気がする。桐子は顔を拭くと、いつものTシャツとジーンズを身に着けた。タオルを洗濯籠に投げ、靴下を履いている時、玄関の呼び鈴が鳴った。
「はあい」
大声で答えておいて、パタパタと玄関に向かう。
てっきり、父が帰って来たものと思ったが、引き戸を開けると、立っているのは別人だった。
「こちらは、菅田雄一先生のお宅ですか…?」
「はい、そうですけど…あれ、貴方…」
「…はい?」
訪ねて来たのは、何とさっきクラッシュした警察官だ。
「さっきはどうも…って言っても、この格好じゃ分かりませんね。ついそこで衝突した、慌てん坊です」
「ああ、あの派手な…」
警察官は、言いかけて言葉を呑み込む。
桐子は笑った。
「構いませんよ、あれ、人目を惹くのを狙った衣装ですから。実は、自分でも好きじゃないんですが。それで…父に、何のご用でしょうか?」
警察官は、スッと姿勢を正した。
「失礼しました。自分は、警察署の高原と申します。貴女は、菅田先生の…お嬢さん、ですか」
改まった雰囲気に、桐子はフッと、真顔になった。
そう…呑気なお喋りをしている場合ではない。結界消滅の大騒ぎで、慌ただしく動き回っていた警察官が、父を訪ねて来たのだ。
「はい、娘の、菅田桐子です。あの、父はまだ帰っていないんですけど、何かご用でも…?」
高原は、気まずげな表情で口ごもった。
「その…大変、申し上げにくいのですが…どうか、お気持ちをしっかり持ってお聞きください。菅田先生は…先程、ご遺体となって発見されました」
パパが…死んだ? 言葉の意味は理解できるが、現実感がない。だって、パパはいつものように笑って私を送り出してくれて、多分その後、いつも通りに祠参りに行って…。
「あ…の…、パパは、どこで…?」
「仙人の祠の近く、村の境界ギリギリの辺りで倒れているのを、仙人に結界消滅について伺いを立てに来た人が見つけて、通報してきたんです。発見者が、お父様のお顔を見知っていて、こちらにお住まいの菅田さんだ、と…。菅田先生が、どうして祠の辺りにいらしたのか、お心当たりはありますか?」
「心当たりというか…祠には、毎日行っていたの。お花が供えてあったでしょう? でも、なんで死…」
高原は、言葉に詰まった桐子を、気の毒そうに見つめた。
「いろいろ、不明な点はあるのですが、菅田先生は、どうやら誰かに、殺害されたようです」
「そんな…まさか。そりゃあ、パパが気に食わない人はいると思うけど、殺したいほど憎まれるなんて、あり得ないわ。パパはいろいろ、自分の意見やら主張やら書いたものを、出版してたけど…」
「知っています。自分も、菅田先生の著作は愛読していました。自分は先生とは面識もありませんでしたが、確か、友人が時々お宅にお邪魔していたはずです」
それでこの人は、父のことを「先生」と呼んでいたのか。
「あの…父は、まだ…その…」
「はい、発見現場から、動かしていません。それで…ご負担をかけて申し訳ありませんが、ご同行頂いて、確認をお願いしてもよろしいでしょうか」
「…分かりました」
まだ、現実感が湧かない。
自分では、いつも通りに動いているつもりだったが、三和土に下りる時、足元がふらついた。高原がそっと、支えてくれる。
「すみません」
もたつきながらスニーカーを履いて、外に出る。
歩き慣れた祠への道も、いつもより遠く感じられた。
途中、自動工場に差し掛かった時、壁の前に立っていた年配の女性が、高原と桐子に気付いて寄って来た。
「あの、ごめんなさい、品物が出てこないのだけれど、これ、どうしたら良いのかしら? 今まで、こんなことなかったのに…」
高原は、難しい顔で工場の建物を見やった。
「自動工場が…? 分かりました、少し待っていてください。誰かに、来てもらうようにしますので」
桐子を促して女性から離れると、高原は小型の無線機を取り出した。
「お待たせして済みませんが、これは、かなりの緊急事態だと思うので」
桐子にそう断って、多分警察署だろう、誰かと連絡を取り始める。
「至急、自動工場に人を配置してください。どうやら、工場が停止した模様。日用品の供給が止まって、パニックが起きる危険があります。…ええ、どこの家でも、何日かは大丈夫な程度のストックはあるでしょうが、結界消滅に続いての工場停止ですから、相当、波紋が広がると思います。それから、自動工場以外の、インフラの確認もしておいた方が良いかと。人手は別に、警察署で全て賄う必要はないでしょう。電気や水道は、管理者が居ますよね…?」
どうやら、警察署内部もパニックになっている様子だが、しっかりした男だ。
「お待たせしました」
連絡を終えると桐子に頭を下げ、再び祠へと歩き出す。
桐子は後を追って、高原の腕に手をかけた。
「いえ…パニックへの対処は、今は何より大事だわ。私もそれで、父が心配になって、急いでいたの。あの…貴方にぶつかった時。他にも心配なことがあって…後で、話を聞いてください」
「ええ…自分で良ければ」
垣間見た、美里の未来を思い出した。この男なら、人柱などという蛮行を、防いでくれるかもしれない。
そんなことを思っているうちに、祠に着いた。
祠の前には、父が今日供えたのだろう、小さな野草の花束があった。その少し先、かつて結界が地面に接していた辺りに、チョークで人型が描かれており、近くにシートを被せた塊が置かれている。
「お辛いでしょうが、お気を確かに持って、確認をお願いします」
高原がそう言って、シートの端をめくる。
「パパ…」
桐子は、その場にへたり込んだ。
父の死に顔は、卑小だった。表情を失っただけで、顔の印象というのは、こんなに変わるものなのか。
秀でた額の中央に、焼印でも押したように、複雑な模様が浮かび上がっている。
「父…ですが、この、額の模様は…?」
「分かりません。ご遺体を検分した医師によれば、どうやら死後に付けられた傷だというのですが。詳しい話は、明日させて頂きましょう。貴女のご心配についても、明日伺います。今日はもう、帰って休まれた方が良い。お父様は、いったん病院に運んで、正式に検分した後葬儀ということになります。さあ…お宅まで、送りますよ」
桐子は、高原に助けられて立ち上がった。
立て続けに起こった出来事が消化しきれず、頭が混乱していた。確かに、今日は休んだ方が良い…休めるものなら。
半ば呆然としたまま、桐子は高原に送られ、家路に着いた。