一、東雲村
「桐子、おいで」
玄関で、父の声がした。
「はあい、パパ!」
大声で答えると、菅田桐子は自室を出て、急いで玄関に向かった。
靴下裸足の足の裏に、古い木の廊下が冷たい。
父、菅田雄一は、玄関の引き戸を開けて待っていた。その手には、名もない雑草の花束が握られている。
桐子はスニーカーを突っ掛けて、父と一緒に玄関を出た。
峻険な岩山に囲まれた僻村、東雲村。通りすがる人も居ない荒れた土地に、一握りの村人が細々と暮らしている。いつ崩れてもおかしくないような古い家々も、空き家がだいぶ増えてきた。そんな家々の間を抜け、父娘は村外れに向かっていた。
辺りはもう、薄暗くなり始めている。桐子は歩きながら、空を見上げた。蒼から藍色に向かう空一面を、淡い輝きが覆い始めている。
魔人結界…ドーム状に村を覆うこの光を、村の人々はそう呼んでいた。昼間は周囲の明るさで目に見えず、触れても何の感触もないが、それは厳然としてそこに在る。
家並みの外れには、村の必要品を賄う、だだっ広い自動工場が建っていた。中がどうなっているのかは、誰も知らない。人々はただそこに行き、外壁にズラリと並んだ大小の取り出し口から、必要な物を持って行くだけだ。第一、建物には、出入り口も無い。
工場を過ぎると、その先はゴツゴツした岩地だった。粗く切り開かれた平地の外れ、魔人結界が地面に接する少し手前に、一際大きな岩が転がっている。父が目指しているのは、この大岩だった。
村人には、「仙人の祠」として知られている。
言い伝えでは、人々は昔、半神と呼ばれる魔の者に脅かされていた。そこへ、仙人がこの村にやって来て、半神が村に立ち入らぬよう、結界を張ったという。以来、仙人は村外れの大岩に住んで、人々の生活を見守っているという。
桐子は、言い伝えなど眉唾だと思っている。仙人の祠は、確かに人家程の大きさがあり、中は空洞になっているようで、風の強い日はどこかの亀裂から笛のような音を響かせる。
「でも、いくら仙人だって、煙になってそんな隙間から出入りする訳じゃなし、出入り口もない祠になんか住めないでしょう」
いつだったか、桐子がそう言うと、父は笑っていた。
「お前は、リアリストだね」
でも実際、仙人の祠には、目に付くような穴一つない。これが本当に仙人の住処なら、自動工場を作ったのも、おおかたその仙人だろう。建物を建てて出入り口を設けないなんて発想、他の人には浮かぶまい。
父も別に、仙人を信仰している訳ではなさそうだが、何故か毎日、この祠へのお参りを欠かさなかった。儀式を行う訳でもなく、祝詞を上げる訳でもなく、ただ、庭に咲いた野草の花束を供えて、しばし瞑目するのみ。
「パパは、どうして毎日、仙人の祠にお参りするの? 別に、伝説を信じてる訳じゃないんでしょう?」
一度、訊いてみたことがある。
父は、その時も笑っていた。
「何かを信じるのは、必ずしも悪いことじゃない。仙人が居るから、ここは安全なんだ、と思いたい人を、否定してはいけないよ。まあ確かに、パパはここに、仙人に会いに来る訳じゃあないけどね。パパがここに来るのは、それが、大切な人との約束だからだよ」
大切な人…。
桐子の母は、桐子を産んで亡くなったという。お墓は、村のお寺の墓地にある。
「ママ以外の女の人…?」
桐子が訊くと、父はニヤッとした。
「さあ、どうかな。ママと一緒に暮らしてる間に、浮気したりはしていないから、お前は別に、心配しなくて良いんだよ」
浮気の心配など、していた訳ではない。どうせ、桐子が産まれる前の話だ。それより、父の昔の話が、聞けるかと思っただけだ。
村人達の間では、菅田雄一は、外から来た人間ではないかと囁かれている。小さな村のこと、誰が誰の身内かなど、ほとんど分かってしまう。そんな中で、天涯孤独の人間など、そうそう居る訳もなかった。母と結婚して、住む人のない家に暮らし始めるまで、父がどこで何をしていたのか、どうやら誰にも分からなかったらしい。もちろん、村の全員がお互い顔見知りという訳ではないが、噂さえ聞こえてこないというのは、まずあり得ない話だった。
父は、村外れに一人で暮らしていた、と言うだけで、いつからとか、どこで生まれ育ったかとか、素性の分かる話は一切しなかったらしい。母がそんな怪しげな男に嫁いだのは、雄一が温厚な人柄だったのと、体が弱く結婚して子供を持つのは無理と諦めかけていたからだとか。桐子は、母方の親類からそう聞いた。
まあ実際、子供を育てるのは無理だった訳だが、家庭を持てただけでも、母は幸せそうだったという。
そんな父の、過去に繋がるたった一つの手掛かりが、この祠参りだった。
父は大岩の足下に花束を置くと、いつものように少し瞑目し、それから目を上げると、地面からそそり立つ魔人結界の輝きと、その先に聳える岩山を一望した。
いつもこの時、父の故郷は本当にあの岩山の向こうにあるのではないか、と思う。どこか哀しげな父の眼は、目に映る景色の遥か彼方に向けられているようだった。
それは、ほんの一瞬。桐子に向き直る時は、いつもの父に戻っていた。
「それじゃあ、帰ろうか」
父娘は、帰路に就いた。
「そうだ、自動工場に寄って行く…?」
途中、思い付いて、桐子は父に声をかける。
「私、明日は仕事だし、晩ご飯の支度ができないから、何か簡単に食べられるものでも…」
父は、微笑んだ。
「子供じゃないんだから、食料を仕入れる必要があれば、自分で取りに来られるよ。お前が小さい頃は、パパがご飯の支度をしてたんだし」
「それは分かってるけど、私が自分で食べられるようになってからは、しょっちゅう食事の時間を忘れてるでしょう? 本当、体に悪いんだから、気を付けなきゃいけない子供が居なくたって、自分にもちゃんとご飯を食べさせなきゃ駄目よ」
「はいはい、お世話焼きのお嬢さん。全く、お前は日に日に、ママに似てくるね」
虚弱で世話を焼かれるばかりだった母は、家庭を持ってから、今まで自分に向けられていた気遣いを、嬉々として回りに向けるようになったという。何かに集中すると身の回りのことが疎かになる父は、さぞお世話のし甲斐があったことだろう。
菅田雄一は、文筆家だった。
必要物品は自動工場が賄ってくれる東雲村では、貨幣経済が次第に廃れ、職業を持たない村人も多くなってきている。公務員等、必要な職業に就いている人達には、村の外でも通用するという古い貨幣が支払われるが、村内では使い道もなく、殆ど価値もない。その他の職業はほぼ自称で、自分の趣味や特技を、村落のために役立てているに過ぎない。報酬は感謝の言葉とか、ちょっとした手作りの料理や物品といった実益だけ。父のような物書きとか、作曲家や画家といった芸術家の類は、その実益も殆どない。他者に向けて自己を発信すること自体が、彼等の目的であり報酬なのだ。
他にも、村内を流れる川で釣りをする「漁師」や、痩せた岩地でも育つ限られた作物を育てる「農民」等、必要はないが一部の人には喜ばれる、趣味的職業がある。自動工場の食料品は種類が限られているため、その時々に採れる自然の食材という、ちょっとした変化が新鮮なのだろう。桐子も、たまに頂く小魚の佃煮は好きだし、父は十割蕎麦が大好物だ。
「職業とは、即ち、生活を豊かにするものだ」父はその著作の中で、そんなことを言っていた。
自分は、そうでもないけれど…。
桐子は、溜息を吐いた。
「まあ、いいわ。一食や二食抜いたところで、死ぬ訳じゃなし。パパがまた夕飯を忘れてたら、瀬川さんの蕎麦粉があるから、夜食に蕎麦掻きでも作るわよ」
「うーん、自分で作る夕飯より、その方が美味そうかな」
父は、ニヤリと笑って言った。
夕飯時で人通りのない道を抜け、家に着く頃にはすっかり日が落ちて、月光に似た魔人結界の輝きが、黒い空一面をうっすらと仄白く染めていた。