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思いやり

作者: 藤村ひろと


「さすがにコレだけ眺め続けると、飽きるわね」



妻の言葉に内心騒然としながらも、俺はつとめて冷静に答えを返した。



「そうだね。それじゃあ、何か話でもしようか」


「そうね。話題も出尽くした感はあるけど、それしかないでしょうね。携帯は圏外だし、他に誰もいないし。もっとロマンティックなものかと思っていたけど、いえ、充分にロマンティックなんだけど、でも、人間て 何にでも慣れちゃうものなのね」



俺と妻は、気球に乗って旅行している最中だ。


10回目の結婚記念日に、気球旅行。


確かにロマンティックな響きがあるし、事実俺も非常に期待をしていたのだけど、いざ乗ってみれば、高いところからの展望に嬌声を上げるのも一時間がいいところだ。


現代に於いて日常から離れるということは退屈を意味するものだということを、イヤと言うほど理解させられた。


気球旅行と言うのは、とにかく時間がかかる。


それを風情だのナンだのと言えるのは、頭の中で気球旅行と言うものを想像してあこがれているあいだだけだ。風任せ、運任せの旅などと言うのは、刺激に慣れきった現代人には向かない。


話し出して数十分で、我々にはもはや話題らしき話題がなくなった。


妻は何度もあくびをかみ殺している。なにか、妻の興味をひきつける話題はないだろうか?


俺はかなりの焦りをひた隠しにして、底抜けに明るい表情を作りながら思いつくままにいろいろな話をした。しかし妻の顔は晴れない。もう、俺が話すと言うだけで、どれほど面白い内容でも興味をもてなくなっているのだろう。


人間と言うのは退屈に弱いのだ。


もっとも俺の方は、とてもじゃないが退屈だなどと言っているわけにはゆかない。少しでも妻の気を引き、楽しませ、喜ばせなくてはならないのだから。


なんでもいい。


とにかく妻の意識を、俺に向けておかなくては。 退屈のあまりあちこち見回した妻が、


『気球とバスケットをつなぐロープが切れかかっている』


と言う事実に気づいてしまわないように。


 


退屈そうな顔をして、夫が何を言ってもつまらなそうにうなずくだけ。


いやな女だ。


でも、あたしは、そうしなくちゃならない。


なぜなら、あたしは気づいてしまったから。


夫は一生懸命、あたしの退屈を紛らそうとしてくれている。それがどうしてなのか気づかないほど、あたしは鈍い女じゃない。だとしたらあたしに出来るのは、騒がずあわてず夫を信じて待つことだけ。大丈夫、必ず夫が何とかしてくれる。


もちろんここで「あたしも気づいている」と打ち明けて、ふたりでがんばるって言う方法もある。だけどそれでは、あたしが危険な目にあうかもしれない。あたし自身はそんなのちっとも構わないのだけれど、夫は絶対にそれを嫌がるだろう。


夫が一生懸命考えている、この危機を乗り越える方法。


それが何なのか見当もつかないけれど、ひとつだけ確かなコト。


は夫はいつだって私のことをいちばんに考えてくれていると言うこと。夫がわたしを守るために頑張ってくれているなら、わたしは黙って彼を信じる。


それがわたしの愛し方なんだから。


でもホント、気づいたときには思わず飛び上がってしまうかと思った。


夫に気づかれないよう、息を呑むのが精一杯だったくらい。


まさか、わたし達が乗っている気球の、バスケットの底に……


もうひとり誰かがいるなんて……


 


どうやら妻は気づいていないようだし、さて、これからどうしたものか。


くだらないおしゃべりをしながら、頭の中で別のことを考えると言うのは難しいものだな。 むしろこのまま妻が退屈で眠ってしまうのを見計らって、ロープの修理をするほうがいいだろうか?


いや、しかし、たとえ修理が出来たとしてどうする?


生き残って無事に帰りついたとしても、俺にはもはや生きてゆく希望がないのだ。俺の生きる希望、目の前の妻がいなくなった人生に何の意味がある?


妻の主治医であり、兄でもあるドクターは言った。


彼女の命は、もって一月だと。


だからこそ俺は楽しい思い出を作ろうと、義兄に頼んで手配してもらい、この気球旅行を計画した。二人の最後の思い出に。しかしまあ考えてみれば、これは逆に良かったのかもしれない。このまま何も知らずにロープが切れれば、妻は死の寸前まで恐ろしい思いをすることなく逝けるのだから。


妻は気丈な人だけれど、だからこそ事実を知れば、俺に気を使って無理やりにでも笑ってくれるだろう。そして自分ひとり、死の恐怖と戦いながら最後まで取り乱さずに逝くだろう。


そうはさせない。


最後まで我慢して全てを堪えたまま逝くなんて、あんまりじゃないか。俺のエゴといわれてもいい。俺はそんな風にひとりで妻を逝かせる気はない。こうして退屈だけど平凡な関係のまま、俺は彼女と共に逝こう。


それが俺の愛し方だ。


 


それにしても、バスケットの下に潜んでいるなんて、いったい何者なんだろう?  あたしか夫を狙っているのだろうか?  それとも、ただ頭のおかしい人なんだろうか?  ほかに合理的な理由のつく説明はないだろうか?  ああ、考えてもわからない。


でも大丈夫。夫がいる。彼が必ずこの状況を何とかしてくれる。


あたしは、ただ彼を信じて、おとなしくしていればいいんだ。


それにしても薄気味悪いなぁ。 バスケットの、あたしのほうからだけ見えるちょっとした切れ目。何の気なくそこに目をやった時に潜んでいる人物に気づいたのだけれど、どうやらその人物は、バスケットの底に簡易ベンチのようなものをぶら下げて、そこに座っているらしい。


ということは最初からこの気球の底に潜んで、あたしたちについてくることを目的としているわけだ。なんと言う薄気味悪い情熱だろう。妄執とか、執拗さといってもいい。


これだけの準備をして、命の危険をさらしてまでいるのだ。この人物の目的はきっと彼かあたし、もしくはふたりとも殺そうと言うのに違いないのではないだろうか?


あたしにはそんなに恨まれる覚えはないし、夫もヒトに恨みを買うような人ではない。ただ、狂人だとすれば、そんな理由など、何の意味もないのかもしれない。


ああ、怖いよぅ。


武器になるようなものはここにはないし、向こうはきっと準備万端整えているだろう。


だからこそ夫も、慎重に気づかないふりをして、何か作戦を練っているのだ。 さっきから話してはいるけど心ここにあらずなのは、目に見えて明らかだ。きっと夫の頭の中では、すごい勢いでこの状況に対応する策が練られていることだろう。


怖がるな。


信じてればいいんだ。


あたしは彼を愛しているんだから。


 


ああ、それにしても寒いなぁ。


一体いつまでこうしていればいいんだろう?


頑丈な 命綱もあるし、ベンチはプロが作ってくれた丈夫で安全なものだとは判っているけど、やっぱり不安だよ。


しっかしこいつら、本当にのんきだな。


ロープが切れかかっていることも、下に俺がいることも気づかないで、さっきからバカ話ばかりずっと喋っている。まあ切れかかっているように見えるロープには、極細の航空機用ワイヤが仕込んであるから、この気球が落っこちるなんてことはないんだが。


それにしても、まったく二人とも、本当に周りのことなんて見ていないんだなぁ。


せっかく俺が、病気で後一ヶ月の命だなんてウソついたり、気球旅行の手配をしたやったりしてるってのに。


どっちでもいい。


早く気づいて大騒ぎしてくれよ。


お前らの結婚十周年を祝うサプライズイベントが、いっこうに始まらないじゃないか。


 

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