いろは通りの街路灯
この話は実際に私の住んでいる街にあった古ぼけた街路灯をヒントに作りました。
取り立てて大きな出来事もなく過ぎていく日常の中に起きるちょっとした奇跡。
こんな話があってもいいんじゃないかな、と思い筆を進めました。
興味がありましたら目を通していただけると幸いです。
昔から不思議に思っていた事がある。
俺の家の近所には、すっかり錆びついた街路灯が一本立っている。その街路灯には『いろは通り商店街』というプレートが取り付けられているが、そんな名前の商店街はこの辺りには存在していない。
この街路灯には電線が繋がっておらず、従って夜になっても明かりは灯らない。
もちろんすぐ近くに別の街路灯がしっかり灯っていてくれるので辺りは暗いなんて事は無い。
どうしてこんな古びた街路灯が残っているのか。
別に説明のプレートが付いている訳でも無く、父さんや母さんに聞いても知らないとの事だったし、爺ちゃんに聞いてみようにもいつも無口なので例え知っていても答えてくれそうに無い感じだった。
ちなみにここは東京の南端で、橋を一本渡ればそこはもう隣の県。辺りは小さな町工場が点在しており、油断すると道端に落ちている鉄くずを踏み、自転車のタイヤがパンクしてしまう事もあるような場所だ。
俺の家も爺ちゃんの代までは自動車の部品を作っている小さな工場だった。
だがバブル崩壊のあおりを受けて取引先の会社が倒産した事もあり、従業員もなく一人で切り盛りしていた爺ちゃんは傷口が広がる前に手を打ってしまえと言わんばかりにさっさと工場をたたんでしまった。
爺ちゃんが工場を閉めたのは爺ちゃんの息子達、つまり俺の親父や叔父さん達が大学を卒業した後に大手の会社に勤めてしまい、跡継ぎも居なかった事も決め手になったらしい。
その後は工場を更地にし、跡地を月極駐車場にした。10台程止められるスペースがある駐車場は周りより少々安めの設定とした事もあり、直ぐに全てのスペースが埋まった。
婆ちゃんが数年前に亡くなった後は一人暮らしをしており、駐車場のからの収入と年金も合わせると爺ちゃん1人食っていくにはちょっとくらい贅沢しても問題は無いとのことだ。
あ、そうそう、俺の名前は坂本俊之。兄弟はおらず一人っ子。父さんも母さんも健在の3人暮らしだ。
この春から大学生になる事が決まっている。幸い都内のそこそこ名の知れた大学に合格する事が出来、両親もほっと胸を撫で下ろしている所だ。
俺は中学から高校までサッカー部に所属していたが、時たま試合に出してもらえる位の実力しかなかった。自分の実力に見切りをつけた俺は高校3年の夏から受験勉強へと打ち込んで来た。スタートが少々遅かったこともあって焦りも感じていたが、ともかく自分の努力が実った事についてはそれなりの充実感を感じている。
でも、高校時代に付き合っていた彼女はこの春から東北地方にある旧帝大の大学に通うとかで、新しい生活が始まるこの機会に関係を見直したいと言われてあっさりと振られてしまった。
高校の卒業式の頃については失恋のショックもあって正直あまり覚えていない。でも、今はもう4月だ。
ここは気を取り直し、大学に入ったらサークル活動や時には合コン等も行ってみよう。
俺は大した実力は無かったにしてもサッカーをやっていたことで体はそこそこ引き締まっているし、背丈だって日本人男性の平均身長をちょっとだけ上回っている。
自分で言うのも何だけど、顔だってそんなに不細工な出来ではない、と思う。
そんな感じで寒さも幾分和らいで来た事もあり、特にやる事も無かった俺は気分転換をしようと思い久しぶりに近所をぶらぶら散歩する事にした。
あの古ぼけた街路灯も最近見ていなかった事もあり、どれ、ひとつ見に行ってみるかという軽い気持ちでそちらの方へ足を向けた。
今思えば、それが俺の人生を大きく変えるきっかけとなったんだと思う。
街路灯のある場所に行ってみると、そこには俺と同じくらいの年齢のメガネをかけた女の子が手帳を見ながら街路灯の前に立っていた。
俺がそちらの方に進んでいくと、顔を伏せて少し考えているようだったが、しばらくしてその女の子が俺に話しかけて来た。
「あのう、この辺りで藤崎さんという方のお宅はご存知ないでしょうか?」
有名な人ならともかく、藤崎なんてどこにでも居そうな名前だ。この街中でそんな名前を出されても厳しい。
そうとは思ったが、いきなりそう答えるのも薄情だ。できるだけ顔には出さないよう気をつけながら答える。
「すみませんが俺は知りません。でも、今は特に用事も無いですし、住所などが分かれば案内しますけど?」
「実は私も詳しい住所はわからないんです。この辺りに『いろは通り商店街』という所があって、その近くに住んでいる方だと思うんですが・・・・・・・そこでこの街路灯を見つけた所だったんです」
げっ、ノーヒントで『藤崎』さんを見つけるなんて無理ゲーもいいところだ。それに『いろは通り商店街』なんて聞いた事もない。この錆だらけの街路灯には書いている名前だけれども。
「その『いろは通り商店街』という商店街はこの辺りには無いんですよ。俺もその街路灯を見て小さい頃から気にはなって居たんですが」
「貴方はこの地元の方ですか? もしよろしかったらお話を伺えないでしょうか? 私はつい昨日ここにやって来たばかりで何も分からず困っていた所なんです」
その女の子を改めて見てみると、髪の毛を後ろで一つに束ねただけで眼鏡をかけている。けれども整った顔立ちでなかなかの美人。 彼女の話の内容からすると地方から出て来たばかりの様だが、見知らぬ男に話を聞かせてくれとは随分と不用心では無いだろうか?
それとも逆に素朴さを前面に出す事で若い男を安心させて高額の商品を勧める悪徳販売員なのか?
どうしたものかと黙って考えていると、その子は俺に両手を振って慌てて話しかけて来た。
「イヤイヤイヤ、私は怪しい商売等をやっているわけではないですよ! ただ、この『いろは通り商店街』の事が気になっただけでっ!」
「ぷっ!」
思わずこちらが思っていたことを口にしたのが可笑しくて吹き出してしまった。
「ちょっと、そこで笑うなんて傷つきますよぅ」
その子は口元を尖らせてそう言った。何だか可愛らしい仕草だな。俺としても別に暇だし、ちょっとぐらい付き合ってもいいよな。別にナンパとかそういうつもりじゃないからな!
「ああ、ごめん。それなら、近くの商店街にある喫茶店へでも行きましょうか。俺は坂本俊之。君は?」
「ごめんなさい、名も名乗らずに。私は赤城梨花と言います。それじゃあよろしくお願いします」
喫茶店に場所を移して話を聞いてみると、赤城さんは都内の大学へ通う事になったため実家のある新潟からこの街に来たばかりの俺と同い年の18歳、実はなんと俺と同じ大学、同じ学部に通うという事だった。
昨日ここへ引っ越して来て、その時はご両親も上京して来ていたが、今日からいよいよ一人暮らしがスタートした所らしい。
「で、1人暮らしをするにあたってどうしてこの街を? 別に治安は悪く無いし、東京の中では割と家賃も安い方だとは思いますけど、女の子の一人暮らしなら他にもいくらでもいい所はあるでしょうに」
「実は私の祖母が去年病気で亡くなったんですけど、遺品をまとめていたら日記が出てきたので読んでみたんです。そうしたら実は祖母がこの街に住んでいた事が分かったんです。日記から見えてくる『いろは商店街』のある生活がすごく楽しそうだったので、東京で暮らすなら是非ここにしたいと思ったんです」
「残念ながらその『いろは商店街』はここには無いんですよ。あの錆び付いた街路灯に書いている名前だし、もしかすると昔は存在していた商店街なのかも知れないですけどね。そうだ! よかったら明日郷土資料館に行って調べてみませんか?」
俺は今までどうしてそこに行く事へ気がつかなかったのかと思いながら赤城さんに尋ねた。
「いいですね、ぜひお願いします!」
翌日、俺は赤城さんと一緒に区内の郷土資料館に行き、昔の地図を調べてみた。
すると、駅前からあの街路灯があった辺りまでが『いろは商店街』となっていた事が分かった。
一方、戦後の地図を見てみるとその名前は消えている。
この辺りも戦争末期の大空襲によって焼け野原になってしまった事もあり、どうやら戦後の区画整備により消えてしまった名前らしい、という事が分かった。
一連の資料を調べていくと『いろは通り商店街』は実在する事が分かったものの、『藤崎さん』が誰なのかという事については全く分からず、これについては完全に暗礁に乗り上げてしまった。
それでも、この出来事が俺と赤城さんの仲を取り持つ事になったのは間違いなく、大学に入った後、俺は赤城さんはどちらからどうと言う感じでもなく、自然と付き合うようになった。
◇◇◇◇◇◇◇◇
それから6年が過ぎた。
俺は梨花と順調に交際を重ね、社会人2年目となった今年に俺から彼女にプロポーズをした。
付き合い始めて間もない頃に彼女との結婚を意識した俺は、周りの友達が合コンに参加する中でもそういう誘いを断り続け、彼女との結婚に向けて少しずつ貯金を増やしていった。
実際の所、梨花も俺との結婚は意識していてくれていたみたいで、婚約指輪をいきなり渡す様な事はしてくれるな、指輪は一生物だから私も一緒に見たいんだからね、と念を押された。
既に梨花から逆プロポーズをされたような感じもあるが、せめて形だけでもこちら側からアクションを起こすべきだろう。
そういうわけで、俺は梨花の誕生日に合わせてちょっとだけおしゃれな店を予約し、デザートが終わる頃を見計らって彼女に結婚を申し込んだ。
彼女は恥ずかしそうに、しかし嬉しそうに頷いてくれた。
それから二人で一緒に宝石店に行き婚約指輪を買った。梨花の左の薬指にキラリと光る指輪を見て、彼女と始まる新しい生活にワクワクする気持ちが湧き上がってくる。
彼女の両親にも俺の両親にも結婚の事は祝福してもらい、トントン拍子で準備は進んでいった。
そんな中、近くにいながらも盆と正月くらいしか顔を合わせていなかった爺ちゃんに俺の結婚相手として梨花を紹介した時に驚くべきことが分かった。
◇◇◇◇◇◇◇◇
その頃爺ちゃんは重い病気にかかっている事が判明し、入院生活を余儀なくされていた。
具合が悪いはずの爺ちゃんは梨花に会うなりベッドから起き上がり、
「沙織?」
と言った。
「えっ・・・・・・!? 沙織は私の祖母の名前ですが?」
梨花は戸惑いながら答える。もちろん俺も驚いた。
「いや、済まなかった。君が沙織であるはずが無いな。それにしても君は沙織に良く似ている。沙織は元気か?」
「いいえ、祖母は7年前に病気で亡くなりました」
「そうか、そうだったか・・・・・・」
爺ちゃんは静かに目をつぶって下を向いた。
「爺ちゃん、梨花のお婆さんの事を知っているのか?」
俺は驚いて爺ちゃんに尋ねた。
「ああ、そうだ」
それを聞いた梨花が爺ちゃんに尋ねる。
「でも、名前が違います。祖母の日記では『藤崎さん』と書いていましたから」
爺ちゃんは少し間をおいてからまるで独り言を言うように話し始めた。
「俺は今の坂本の家に婿養子として迎えられたんだ。元は『藤崎』姓だったんだ」
「「えっ!?」」
俺と梨花は驚きのあまり同じタイミングで声を上げてしまった。
まさか、6年の時を超えて、しかも爺ちゃんの口から『藤崎』の名が出てくるとは。爺ちゃんは昔を思い出しているのか、目を細めながら話し始めた。
「俺は沙織と幼馴染だったんだ。昔この辺りは田んぼや畑が広がるのどかな所でな、藤崎の家は慎ましくも土地を持っていて、百姓をして暮らしていたんだ。沙織の家もうちの隣の土地を耕す百姓で、沙織とは子供の頃近くの『いろは商店街』のあたりで一緒に遊んでいたんだ」
爺ちゃんは遠い記憶を絞り出す様にしながら話を続ける。
「俺もその内沙織と一緒になって、ごく平凡な百姓生活を送るもんだと思っていたんだが、時代がそれを許してくれなかった。今思うとあの頃は相当戦局が悪くなっていたんだろう。俺が今のお前より少し若い頃に赤紙が来たんだ」
「爺ちゃん、そんな事初めて聞くよ!」
「そりゃそうだ。今ここに梨花さんが来なかったら誰にも話すつもりは無かったからな」
「貴方とお婆ちゃんは『いろは通り商店街』端の街路灯の下で結婚の約束をした、と日記に書いてありました。どうしてその約束は果たされなかったんですか?」
「俺は軍に召集された後、満州へ配属されたんだ。終戦間際に攻めて来たソビエト軍に何の抵抗も出来ないまま拘束され、多くの仲間と共にシベリアに連れていかれたんだ」
「そんな! まさか爺ちゃんがそんな目に遭っていたなんて!」
「その時は、生きて戻りさえすれば沙織に会えると思ってただただ耐え忍ぶ毎日だったよ。結局本土に戻って来る事が出来たのは戦争が終わって5年が過ぎていたんだ」
いつもは寡黙だった爺ちゃんが語る内容は衝撃的なものだった。シベリア抑留なんて教科書の向こう側の出来事だとばかり思っていた。
「俺が東京に戻ってきた時には俺の家族も土地も無くなっていた。恐らく空襲で焼け残ったのか『いろは通り商店街』の端にあった街路灯が1本残っていたが、それ以外はすっかり景色が変わっていたよ。俺を知っている人も無く、沙織の生死すら調べる事が出来ない有様だったんだ」
「確かにお婆ちゃんの日記によると、東京大空襲で家も家族も失い、1人で生きて行く事もままならなず、断腸の思いで親戚のいる新潟に向かったとの事です。程なくして親戚の勧めで今の赤城家に嫁いだと書いてあります」
「そうだったのか。俺の方もとにかく生きていかなければならんし、なんとか小さな部品工場に雇ってもらったんだ。折しもその頃は景気が良くて仕事は忙しく、昔の事を全て断ち切る様な気持ちでひたすら働いたんだ」
「それってもしかして、俺が小さい頃にあったあの町工場の事?」
「そうだ。俺はやがて工場の親父さんに働きが認められ、そこの娘さんと結婚することになったんだ。その時、沙織の事を死んだものと諦めていた俺は藤崎の名を捨てる事にしたんだ。やがてお前の親父を始め3人の子に恵まれ、皆無事に社会に送り出す事が出来た」
そこで爺ちゃんは俺と梨花を交互に見てから俺に尋ねて来た。
「それにしても、お前たちは一体どうやって知り合ったんだ?」
俺は6年前の『いろは通り商店街』の古びた街路灯の前で梨花と出会った時の話をした。
「そうか、俊之が俺の代わりに沙織との約束を守ったんだな。俊之、梨花さんを幸せにするんだぞ」
その時の爺ちゃんの顔は、とてもにこやかで、そして清々しい表情だった。
爺ちゃんは俺と梨花の結婚式を見る事も無く、そのあとすぐに亡くなった。
けれども葬儀の日、最期に見た爺ちゃんの顔は本当に安らかな顔つきだった。
◇◇◇◇◇◇◇◇
それから更に何年が過ぎた。俺と梨花の間には娘が生まれ、ささやかながらも幸せな毎日を送っている。
そんなある日、俺は梨花と娘を連れて家の近くを散歩することにした。
「ねえねえパパ、どうしてこのはしらだけさびさびなの? どうしていろはのなまえがかいてるの?」
あの街路灯にたどり着いたとき、娘の彩葉がそう尋ねて来た。
目元が梨花そっくりの可愛い娘だ。父親のひいき目なんかじゃない。世界一の可愛い娘だ。
俺はそんな娘の目線の位置までしゃがみ込み、こう答えた。
「彩葉、この柱はパパとママを引き合わせてくれた街路灯なんだ。パパが気が付いたときにはもう灯りは灯らなくなっていたけど、それでもパパとママにとっては大事な街路灯なんだ。キミにはこの名前をつけさせてもらったんだよ」
「ふーん。すごいはしらなんだね!」
彩葉はうれしそうにピョンピョンと飛び跳ねている。
そんな彩葉を見た梨花はしゃがんで彼女にそっくりな可愛い我が子に話しかける。
「そうだよ。パパとママだけじゃなくて、彩葉のひいおじいさんとひいおばあさんの約束を果たしてくれた素敵な街路灯なんだから」
そうだよな。この街路灯はこのためにずっとここに残っていてくれたんだ。本当にありがとう、『いろは通りの街路灯』さん。
実は、モデルになった街路灯は撤去されてしまい今はもう残っていません。
恐らく戦前から残っていたと思われるその街路灯は実際どんな経緯で残っていたのか。
その前を通る人々にどんな物語があったのか。今となってはわかりません。
自分の中からその街路灯の思い出が消えてしまう前に、想像を膨らませたのがこの物語です。
つたない物語でありますが、少しでも皆さんの思い出に残っていただければ幸いです。