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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

我が思想闘争 Ⅱ

作者: 羽柴

自己分析経過です。

前作から読むことを推奨いたします。

 私の思想は変わっていない。そう言うと、前作の中国叩きや帝國主義崇拝が変わったではないか、、と曰う輩もいるだろう。しかし私は頑なに変わっていないと主張する。

思想とは知識の混ぜ合わせに他ならない。図書館でも一つのブースでは思想を形成していることがあるだろう。

私が得た新たな知識はNATO財閥によるスラヴ民族分断を基点にした世界制覇が「始まった」ことである。それはまるで過大表現がすぎるように聞こえるかもしれぬが、一番適した表現である。

NATOは過去にユーゴスラビアを空爆しており、そこには平和ブランドなんてものはないのだ。ゆえに私は主張する「米国を破壊せん」と。それはNATO財閥の本拠地が米国であるからだ。どうやら私は前作の思想から変異していないようだ。

一貫して米国を嫌うには理由がある。広島、長崎や東京大空襲は言うまでもないが、他にも理由が一つある。

米国政府は狡猾に植民地支配の侵略主義を変えていない唯一の国家だからだ。現在もなお日本に基地を置き亜細亜侵略の拠点にしているし、過去には中東に遠征して大虐殺を行った。

それでいて彼らは誰にも批判されないのだ。なんてことか!

私の米国嫌いは憎悪にある。既に政治的理由だけではなく、体が拒絶しているのだ。米国を排除せよ!と

 売国自民、岸田は軍事費二倍化を声高に叫んでいる。中国は確かに軍事力は膨大であるし、未知数だ。人間とは未知を嫌う。ゆえに研鑽に研鑽を重ね、解答を出す。

しかし戦後我が国は航空産業差押えにより自国による航空機開発技術が未だ乏しく、護衛艦の数や兵士の量も質も乏しい。

私は現実主義者である。国民のお金を税金として全て吸い上げても兵士の質は落ちるし、売国岸田の株は下がる。社会は排斥主義に溢れ、暴徒が街を飛び交う。

米国からの支援も台湾が陥落した後太平洋横断なくして不可能である。また台湾陥落を助けるための日本軍だとしても、中国習近平内閣は侵攻を宣言している以上、日本の軍備が整う前に台湾に攻め入るだろうから今からでは遅い。

我々が世紀末のような空間的絶望社会に身を置く前に、NATO財閥の日本人組織である自民党ならびに資産家連中を一網打尽にしなければならない。

資本家はまるで感染症である。誰彼構わず移り回り、人生を絶望へ追い込んでいく。しかし彼らは決して絶望することはない。まして彼らが感染症になることはないのだ。

 私は彼らを「差別」している。と、いう意味では差別主義者なのかもしれない。しかし私の主張は一貫して変わらない。

NATO、米国のブタとその下っ端を屠殺工場に出荷する時が来たのだ。

 反米左派に位置すると思われるであろう「ハシバ」と言う人格は実のところ、情勢によって右派と左派を行ったり来たりしている。まるで根無草に見えるハシバという人格は一つの根によって支えられていたのだ。それが私自身である。

私とハシバは別人だ。しかし私もハシバも外見は統一されている。問題は人格が統一されていない点だ。

私の帝國主義崇拝は元々、殺伐とした社会に対する端的な怒りであった。私の中の偶像的社会には軍隊があり、憲兵隊に規律違反者は銃殺刑にされたのだ。

つまり、皇帝は私である。あたかも中学二年生か!と言われるであろう冗談に聞こえるやもしれぬが、事実私は私を皇帝だと考えていた。それが軍國主義礼賛であり、帝國主義崇拝に繋がっていたのだ。

しかしその礼賛や崇拝は鎖であることに気づく。私は新たな人格形成にハシバという「皇帝」を「革命戦士」として実体化させる事で、私は私を認識した。

 歴史の呪縛から解き放たれ、私は自由に闘争する戦士になれたのだ。革命戦士であるから内なる軍隊や規律は必要ない。

私は一兵として革命を主体化し、誰にも束縛されぬ自由を手に入れることもできたのだ。これは誰の功績でもなく、時間の変化によるものである。つまり、私は右翼でも左翼でもなく「革命戦士」である。それは肩書きなどという陳腐なモノではなく、実力とした肉体と実動的活動によって約束されたのだ。

 共産主義への渇望は潤い、帝國主義ではなく精神的軍國主義としての革命戦士である私は両翼であるとも言えるかもしれない。

私は他者が私をどう見るか全く気にしないので仮にも他者が思案するハシバが左翼か右翼かなどという禅問答はどうでも良い事なのだ。

 人間の人格とは意識的に作られるものである。それがどのような形であれ、人間は自己認識によって自己形態を保っているのだ。すなわち、自己認識こそが意識の正体である。この自己認識=意識は時に人を慢心させ、陶酔させる。そうすると無論思考も相対他者との交流も簡略化されていき、情報に全て惑わされていく。これが情報化社会だ。偉そうに!

私は相対する他者と自己の間に空間は無いと考えている。私は私と話しており、他者と話すことはない。知識と訓令ならば自己解決で足りるからだ。

しかし私は私を認識する時、他者と相対する必要がある。私が私であるという事実は他者しか知らない所にある。私が皇帝だった頃から現在まで他者との空間的認識が自己認識に繋がっていた。他者と自己の間には空間が無い事に変わりはないが、空間的認識ならあると解釈できるだろう。私は私である以前に私は存在しないのだ。人間は実動する前に自己認識から始めなければならない。そう自覚することが相対的他者によって気付かされたのだ。

 私は実動主義者だし、リアリストだ。しかし実動は空間認識(自己認識への経路)現実は全体認識を行わねばならない。全ての段取りを済ませた者だけが、着実に成果を上げると私は確信している。

私の思想は変わっていない。変わったのは認識であり、精神的階級であり、意志の強さである。私は死ぬまでNATO財閥ならびに米国政府を差別し、弾劾し、全てを奪う決意を貫徹する。

その思想形態なるものに揺るぎはない


読んでくださった方、ありがとうございます。

未知数ですがまだまだ出すので、よかったら読んでくだされば幸いです。

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