第四話 目覚めるは夜叉
赤面する露女、動悸は激しく身体はアツイ。今夜は何かが起こりそう────
月は嘲笑う。
木々は沈黙し、空気は冷気を纏っている。
彼女と二人、無音の儘の数秒間。
「ウフフ」
俺────明宮壬空は後ずさる。
彼女────露女は、空で嘲笑う月よりも怪しげな笑みをうかべる。
露女の出す禍々しい雰囲気を壊すにはどうしたらいいだろう。
彼女は先程から壬空の表情の変化に対して笑みを見せている様だ。ならば、彼女を困らせればこの雰囲気を打開出来るかも知れない。
壬空はそう考え振り上げたままだった斧を地面に突き刺すと、口内の砂を吐きだし一言。
「じゃあさ、俺がお前に名前を付けてやるよ」
「は?」
唐突な壬空の一言に露女の表情が満遍の笑みから呆然としたものに変わる。
────アイツがどうして俺を困らせて笑っていたかが理解できた気がした────とは後の壬空の言である。
〇 ◎ 〇
また私が笑っていると彼は何かを思いついたようだ。
目が輝いている。
また私を笑わせてくれるのだろうか。
彼は振り上げたままだった斧をその場に刺すとペッ、と唾を吐きこう言った。
「じゃあさ、俺がお前に名前を付けてやるよ」
「は?」
私はまるで彼の見せてくれた顔の様に口を大きく開けていた。
今、彼はなんと言ったのだろうか。
これまで200年の間生きてきた上での常識として、その日会ったばかりのモノに言う言葉とは思えない単語が聞こえた気がした。
「貴様、今なんと言った?」
「お前に名前を付けてやるって言った」
まるで微笑ましい幼子に送るようなるような目で彼は私を見る。
顔に血液が集まってきている。
彼は言葉の意味を分かっているのだろうか。
女が男に名を明かすのは、婚約を了承と言う意味を持つ。
ならば名を付けると言う事は家族になると言う事と同じ。
彼が此処の常識を全く知らない事は昼間の問答で知っている。知ってはいるが、会った日の夜にこんな事を言われるとは思いもしない。
「ぬ、うう……」
「おい、どうした嫌なのか?」
嫌ではない。
嫌ではないのだが主に何の断りも無く、使い魔に名が付けられるというのは問題だろう。
私はミズハに自由を約束されてはいるが、主従の関係である事に変わりはないのだ。最低でもミズハの許可が、もしくは従属の証として彼ではなくミズハに名を付けられるようになってもおかしくはない。と言うより、それが本来あるべき形だろう。
自身の縛りの軽さがこんな形で際立つとは思いもしなかった。
「それは」
「それは?」
「……保留、じゃ」
「保留か、一様考えてあんだけど」
それが良い。
きっとミズハは許すだろう。
だが無断でと言うのはいけない。契約の意味が無くなる。
ヒガンノ國の辺境とはいえ結界を張り続け、約120年もの間、現世の人間、常夜の妖怪でさえ唯の一回も旅人を通した事のない‘鎮守の森’。
私はそこを70年もの間守っているのだ。
ミズハと共に居たのは15年。
それでも形式は型にはめておくべきだ。
いや、もうこの事を考えるのはやめよう。
顔面の血管がそろそろ限界に達する。
現実逃避をいくらしても血の巡り方は変わらないらしい。
「つ、次じゃ! 次の話をするぞ!」
自分の顔を意識しないようにして話を次へと変えていく。
けど、彼の一言は心の奥に閉まっておこう。あの一言には驚いたけど、それ以上に、嬉しかったかから。
◆ ◇ ◆
あの嫌な雰囲気はもうしない。
名前を付ける、と言う打開策は予想以上に効いているようだ。
赤面した露女は半ばあわてて噛んでしまった。
……効きすぎかもしれない。
「次は、この世界の在り方じゃ。良いな?」
「ああ、そうだな。俺もそれは知りたかったから、それで頼むよ」
ミズハとの問答で最後に残った疑問点。
それは、ここはヒガンノ國と言い日本なんて言う国は聞いた事さえも無い、と言う事。
その情報は俺の世界観、と言うより常識を打ち砕くのに、十分すぎる言葉だった。
「ここは【境界】、その中でも五大国と呼ばれる國の一角。その名も「ヒガンノ國だな、分かってる」……ちっ」
境界、それは何かと何かを隔てるもの。と言う事は概念としてあと二つ、世界か、それとも宇宙かがあってもおかしくないと言う事。
知るべきはこれからの身の振り方。
今日はミズハが泊めてくれる(もう夜だが)からいいものの、明日からはここでは一人身なのだ。ここがどう言うところか知っておかなければならない。
「ミズハとのやり取りでこの國の名前は分かったから、他の頼む」
「フンッ、話の腰を折りよって……。
まぁ良い、ここ境界は妖怪の棲む常夜と、お主ら人間の住む現世との【境界】じゃ」
常夜と、現世?
────ソウカ、此処ハ境界カ
血脈が騒ぐ。
動悸が、激しくなる。
「ガッ────」
胸が熱い。
呼吸が出来ない。
内側からの得体の知れない声は、同時に痛みを与えた。
───ナラバ此処ハ‘オレ’ノ領分、代ワレ
その痛みは全身へと魔の手を伸ばす。
「アァァァアア‼」
この身を焼く熱さは何故現れた。
さっきの声のせい? 違ウ。
目前の女のせい? 違ウ。
この大地のせい? 違ウ。
あの月のせい? 違ウ。
感じ始めた、禍々(まがまが)しい気配のせい?
───ソウダ────
理解した。
その瞬間、全身の痛みは集束する。
右腕に幾何学模様が浮かび上がり、発光する。
明滅する光は鼓動のよう。
まるで心臓のように規則正しく鼓動し、オレに【妖気】を伝えてくれる。
「どうしたっ」
今は返事など出来ない。
そんな余裕は何処にも在りはしない。
デカイのが、オレの得物が────
「────来ル────」
瞬間、轟音と共に木々の間から躍り出た首のない武士の影。
それを護るように陣を構える小鬼共。
────嗚呼、今夜ハ退屈シソウニネェナ
月は嘲笑う。
木々はざわめく、大気は鋭利な刃物に変わったようだ。
対峙する武士とオレ。
月の笑みは深く、開戦の合図は小枝の折れた音だった。
前回週刊にしたいと言っておきながらで済みませんが、受験が一段落するまでは不定期になりそうです。(済みません、ですから石を投げないでっ