序章 私の守護花名
ブルムフィオーレ王国の子どもは、生まれたときに二つの名をもらう。
一つは正式名。そしてもう一つは愛称となる守護花名。
私、ラヴェンディア・パンセにももちろん守護花名がある。
愛称としてつけられたそれは「ラベンダー」。パンセ家特有の、淡い紫色の髪の毛にちなんだものなのだと聞いている。
実家で虐げられていた私は、記憶にある限り、たった一人からしか「ラベンダー」と呼ばれたことがない。
だから、いつも表情を崩すことの無い雇い主から憔悴しきった様子でくり返しその名を呼ばれたとき……。
私は彼が壊れてしまったのではないかと本気で心配をした。
その日は午後から、三口の魔導コンロをすべて使って料理に集中していた。
室内にはハーブの爽やかなにおいが満ちている。昨夜、オリーブオイルと塩とディルに漬けておいた魚を焼いているからだ。
きょうはかなり暑かったから、レモンソースでさっぱりと食べるつもりだ。
さっき庭で摘んできたピンクベリーはジャムにする。
この屋敷は、森の中のぽっかりと開けた場所にある。
庭は広く、森と混ざり合うように共存し、魔法使いの屋敷らしくたくさんのハーブや薬草で混みあっている。
雇い主の許可を得て、その一角をもらい、家庭菜園をはじめたのは去年のこと。はじめての収穫に心が踊っていた。
私は、厨房をひと眺めしながら、調理の進捗を確認し、次の予定を立てる。
氷箱から取り出した肉は塩を揉み込んで室温に戻してある。
今のうちに、朝食に出すフレンチトーストの仕込みをしよう。
今夜は出かけるつもりだから、夕飯のしたくだけではなく、翌朝の仕込みも進めていかなければいけないのだ。
ここの家政婦になったのは十三のとき。仕事内容は、食事の支度や整頓、掃除といったかんたんなこと。住み込みで、屋敷の一階客間を使わせてもらっている。
そういえば、五年近くこの屋敷に住んでいることになる。
それはちょうど、スープの味見をしているときのことだった。
窓の向こうから染み込むように蝉の声が響いていた。
屋敷の西側にある台所は、少し高いところにある窓から、橙色の光が落ちてくるこの時間が一番美しい。
「ラベンダー!」
ばたばたと階段を駆け下りる音とともに、耳慣れた声で、聞きなれぬ呼称が叫ばれている。
私は耳を疑った。
それが、雇い主である”妖精魔道士” エリアルの声だったからだ。
厨房の扉が乱暴に開け放たれ、エリアルが息を切らして駆け込んできた。
もともと抜けるように白い肌をした人だが、今日は酷く顔色が悪い。
寝起きだったのだろうか。
ストロベリーブロンドのふわふわの髪の毛に寝ぐせがついている。
「ラベンダー! ラベンダー……」
私の姿を見とめると、なぜだかその瞳に安堵の色が浮かんだ。そして、彼は壊れた人形のようにそうくり返した。
驚きのあまり足が縫い留められたように動けずにいると、エリアルの瞳が揺れたように見えた。
はっと息を飲む。
ソーダ水のように澄み切った、色素の薄い水色の瞳。それを覆い隠すように、涙のつぶが盛り上がったのだ。
そして、つ、つ……とひと筋の涙が落ちると、雨のようにどんどん降り注いでいった。
それは堰き止められることも、拭われることもなく、ただぼろぼろと宝石のように落ちていた。
私はしばらく、呆気に取られたまま、その場に足を縫いとめられたように動けずにいた私は、自分が使用人であることを思い出した。
「なにか拭くものを……」
台所のあちこちに視線を彷徨わせるが、頭の中には疑問符がいっぱいで、靄がかかったかのようにうまく働いていない。
そして次の瞬間、私は温かいものに包まれていた。
抱きしめられているのだと気がつくまでに数秒かかった。
「ラベンダー……!」
雇い主は引き続きそう繰り返す。
何が起こっているのかわからなかった。その腕をほどこうとしたが、動こうとすると私を抱く手の力が強まった。
「エリアル様……?」
なおも困惑し続ける私に、エリアルは言った。
「ラベンダー、きみを愛している。結婚してほしい」