月の舟とアクアマリンの魔法使い
涼やかな水の流れる音、暗いけれど星明かりに満たされた時間。ゆったりと、夜空の風景が過ぎてゆく。
視線を落とせば、輝くような黄金色の舟のへり越しに、小さな光がちりばめられた水面が見える。水と共に流れていくのは、色とりどりの星だった。
思わず手を伸ばす。けれど星たちは、水のようにこの手をすり抜けていった。
「星が、欲しいのですか?」
声をかけられて初めて気づく。対面に誰かがいた。淡く水色がかった白の髪、深い海の底を思わせる紺青の瞳を持つ青年だ。
「いえ……。あんまり綺麗で、つい」
「そうでしたか。ここは貴女にとっては夢の中ではありますが、夜空の世界という場所でもあります。星を集めても良いのは、その役目を持つ者だけなのです」
「夜空の世界、ですか」
幻想的なこの風景に、その名前がしっくりくる。夢の中というのも、この綺麗な世界を見れば納得できる。
「しかし、貴女が星を求める気持ちも理解できます。夜の航海では、星が道しるべになりますからね。ここは天の川ですが」
ゆったりとした水の流れと共に、舟も進んでいく。両岸は遠く、太陽がなく暗いせいで先もあまり見えない。今この舟は、どこへ向かっていくのだろう。
「貴女の望む先、どこへでも」
そんな不安を口にしたわたしに、彼はそう言った。
「でも、道しるべがなくて、目的地にたどり着けないかも……。波にあおられて、転覆してしまうかもしれないじゃないですか」
「だからこそ貴女は、その石を選んでくれたのでしょう?」
「え……?」
「航海のお守りである、アクアマリンを」
胸に手を当てて、彼は神秘的に微笑む。
「航海の、お守り……」
無意識に手をやった胸元で、小さくて心もとない存在感だが、そこで確かに煌めくのは水色の綺麗なアクアマリン。
先日立ち寄った天然石のアクセサリーショップで、さんざん迷った末に選んだのが、このネックレスだ。色味もあまり派手でなく、でもきらきらと透き通るその石に、わたしは惹かれたのだった。
「航海の道しるべとして使われた石は存在しますが、アクアマリンはそんな使い方はできません」
「でも、とっても綺麗ですよ。しずくみたいに透き通ってて……」
その名の通り、海の水のようだ。綺麗なものがここにあるというだけで、なぜか心強い。
「不思議ですね。そんな魔法みたいなこと、ありえないって知ってるのに」
「そうでしょうか。誰かに信じてもらえたから、アクアマリンは航海のお守りとしての力を持っているのですよ」
彼は愛おしそうにわたしの持つアクアマリンを見つめ、誇らしげに微笑んだ。
「貴女は、星の海を往く月の舟。望めばこの先、どこへだって行ける。さて、貴女が欲しいのは、こちらへ行くべきと道を示すものですか? それとも……」
「わたしは……。わたしの選択を尊重して、そばにいてくれて、行く末を見守ってくれるものが、欲しかった……」
「ええ。貴女はアクアマリンを、選んでくれた」
「行き先に迷った時や、自分がどこにいるのかわからなくなった時には、やっぱり羅針盤が欲しくなりますけど。でもそれまでは、思うままに、行けるところまで行ってみたいです」
どこまでも続く星の海に、ぽつりと浮かぶ黄金色の月の舟。行く先を選ぶのは他の誰でもない、わたし自身だ。
「この子が、ずっと続く航海を守ってくれるでしょう。貴女の旅路が、幸多いものでありますように」
彼は両手を組み、穏やかな声音で航海の無事を願ってくれた。その言葉を受けて、わたしの胸元でアクアマリンが静かに光を灯す。祈る彼の姿は美しく、色素の薄い容姿もあいまってまるで天使のようだった。
ふと、アクセサリーショップで見たアクアマリンの解説に、天使の石とも呼ばれていると書かれていたことを思い出す。
「あなたは……」
「僕はアクアマリン。航海のお守り。貴女は僕の仲間を、そのアクアマリンを、信じてくれますか?」
わたしが答える前に、唐突に景色が遠のく。月の舟が星の海に波紋を描くのを、上空から見ていた。
星の海には、道なんてない。アクアマリンの彼の言葉通り、望めばゆけるのだろう。きっと、どこへだって。