消えたい女2
なるほど、ギネス一杯で私から情報を引き出そうとしたわけか…、松下あおいは納得をした。
台風一過の蒸し暑い夕方、仕事帰りに丸の内を歩いていたら、前の会社で一緒に働いていた男に声をかけられた。すぐには名前が出てこなかったけれど、「武井です」と名乗ってくれたおかげで、あおいの頭の中の記憶だけではなく、空気までもが甦った気分になった。出会ったのは偶然だけど、今の職場も前の職場も目と鼻の先だ。五年の間この男に一度も会わなかったことの方が偶然のような気もする。
「あおいちゃん、一杯だけ付き合ってくれない?」武井は昔と変わらない慣れ馴れ馴れしい口調で言った。
「どうしようかな…」あおいも昔の調子で答えた。
「黒ビール好きだったよね? 覚えてるよ」
こちらが名前を忘れた相手が私の飲み物の好みを覚えているとは、あおいは悪い気はしなかった。
武井は仲通りに面したカフェにあおいを連れて行き、ギネスのパイントを二杯注文した。
「ああ、明るいうちから飲むビールは美味しいわ」あおいは無防備に言った。
「あおいちゃん、いくつになった?」
「38よ、びっくりでしょう?」
「あおいちゃんがアラフォーかあ、早いなあ、まだ独身なの?」武井の左手には結婚指輪が光っている。
「永遠の独身かなあ、私は」
「瑠璃さんはどうしてる?」
「ああ、瑠璃…、私も皆さんと一緒よ」
「あおいちゃんも連絡を切られたの?」
「そう」
「最後はいつ?」
「もう三年くらい前かなあ」
「そんなに経つんだ…、あおいちゃんが最後の砦だったんだけど、もう瑠璃さんと連絡が取れる人は誰もいないかあ、…喧嘩でもした?」
「まさか、するわけないわ」
「じゃあどうして?」
「私が知りたいわ」
香川瑠璃の名前が出てしまうと、武井の話は止まらない。まだ明るいし予定もないからまあいいか、あおいは徐々にどうでもよくなる。
「井口さん覚えてる?」武井は別の元同僚の名前を出す。
「もちろんよ、あんなに礼儀正しい男のひとは見たことないわ」武井さんの名前は忘れてましたけど、などと余計なことは言わずあおいは正直に答えた。
「あの人なんていまだに瑠璃さんのこと忘れられず独身だよ、いつでも彼女と一緒に暮らせるようにマンションも用意してある」
「まあ!」普段は決して使わない感嘆詞があおいの口から飛び出した。
「45になるのに、永遠の夢見る中年男だよ、…瑠璃さんの送別会の井口さんの姿は思い出すと泣けてくるね、彼女が辞める一週間前に告白して振られたのに甲斐甲しく幹事をやり遂げた」
「そう…、でも私が知ってるだけで、瑠璃に言い寄った人はそちらの会社に五人はいるわ」
「すごいな、全員玉砕かあ、魔性の女だね」
「それだけ魅力的ってことでしょう? 私も自分が男で近くに瑠璃がいたら行っちゃうかもね?」
「そうなんだ、でも彼女、実家の仕事手伝うって言って辞めたのにそのあと別の会社に行ったんでしょう?」
「お母さんが結婚しろってうるさいから嫌になったって言ってたわ」
「需要と供給のミスマッチかあ…、まあ、井口さんなんて全然ダメージがないからいいよ、楽天家だし、白井君は覚えてる? 色が黒いから黒井君って呼ばれてた白井君?」
「ああ、白井君、懐かしい」
「彼は瑠璃さんにふられて再起不能になったからね」
「再起不能って?」
「彼はさあ、瑠璃さんが辞めた後も何度か会ったらしんだよ、で思い切って告白したらやはり振られた、そのあとも何度か連絡したみたいだけど音信不通になって、彼女がいない会社なんて行く価値がないって辞めたんだよ」
「嘘でしょう?」
「嘘じゃない、そのあとどうしたと思う? 引きこもりだよ」
「ええ…」
「やっと数年前に外に出られるようになって今は葬儀屋で働いているらしいよ、あんなに明かるかった男が葬儀屋なんてね…、想像もつかないけど」
武井は「この後用事があるから」と言って、ギネス二杯ずつで解散をした。
あの頃同じ職場にいた男たちは、いまだに七年も前に辞めた彼女の話題で盛り上がる。あおいは日が暮れて少しだけ涼しくなった丸の内を歩きながら、香川瑠璃のことを考えた。
白井君のこと、きいたことがあったなあ…。
「瑠璃って白井君とけっこう仲いいよね?」
「まあ、年が一緒だからね」
「彼、絶対に瑠璃に気があるわよね、いいじゃない、明るくて」
「無理、無理、ああいうのは明るいんじゃなくて何も考えてないだけよ、ああいう人間に限って言いたいことがちゃんと言えないのよ」
「白井君もまさかそんなに厳しい評価をされてるとは思ってないでしょうね、瑠璃って理想高いよね」
「理想が高いわけじゃないわ、ただ彼は無理って言ってるだけ」
香川瑠璃とは私が中途採用で入った会社で出会った。年は彼女が一つ下だったが、お互いにロンドンに留学経験があり、すぐに打ち解けた。最初は私に敬語だったけれど、辞めてよと提案したら、嬉しそうな顔をして二度と敬語に戻ることはなかった。二人でよく食事に出かけただけではなく、私の部屋にも何度か来てくれた。
地方出身の私とは違い、彼女の家は松戸で父親がいくつかの事業を営んでいて、既に結婚をしている兄が家業を手伝っていると聞いた。お金持ちのお嬢様だったのは間違いない。オフィスにはそれほど高そうな服を着てくるわけではないが、時計はダイヤの入ったロレックスだった。一度彼女の運転する真っ赤なアルファロメオでドライブしたことがある。親に勝ってもらった車だと彼女は言った。それでもお高くともった感じは全くない。とにかく美人で明るくいつも気さくで、言い寄る男は後を絶たなかった。それでも彼女は誰一人興味を持っていないようだった。
初めて彼女が私の部屋に泊まった夜、二人で私のベッドの上で寝ることになった。電気を消しておやすみなさいと言った後、私はすぐには値付けず、体の向きを変えて彼女に背を向けた。彼女は私の背中に体をつけて、私の左の掌が私の右手の甲に重なり指を絡みついた。
「瑠璃」私はドキッとして声を出した。
「このままでいて」彼女は懇願するように囁いた。
レズビアンだ、私は確信した。彼女は造形も肌の表面も髪も女から見ても羨ましいほど美しかった。彼女に背中から抱きしめられて、私は自分もレズビアンになれるかもしれないとほとんど覚悟を決めた。それ以上は何も起こらない。彼女はそのまま眠りについた。次のときもその次のときも。
それが彼女について私の知っているほぼすべてだ。彼女の家には行ったことがないし正確な住所も知らない。彼女の実家がどんな仕事をしているのかも聞かせてもらったことはない。ロンドンの語学学校に2年間いたことは知っているが、それ以外の学歴は決して明かしてくれなかった。私の昔の写真はたくさん見せたけど、彼女の昔の写真は見せてもらったこともないし、友達の話もしてもらったことはない。香川瑠璃のことは元同僚というよりは親しい友人の一人だと思っていたが、私は彼女の過去も、仕事をしている時間と一緒にいる時間を除いた現在の彼女の生活も、何一つ知らなかった。
そしてある日突然連絡が取れなくなった。
それまで何かの機会で元同僚に会うたびに最後は彼女の話題になり、「みんな連絡が取れなくなっているんだけどあおいちゃんはどう?」と訊かれていた。そのたびに私は「何か月かに一度は会ってるけど、元気よ」と答えていた。瑠璃にその話をすると、「面倒くさいでしょう? 私は死んだって伝えておいて」という笑いながら言う。まさか自分まで切られるとは想像していなかったけれど、その時が来ても何も驚かなかった。連絡が取れなくなった後で、「私は死んだって伝えておいて」と言う瑠璃の言葉を思い出した時、あれは冗談ではなかったのだと初めて分かった気がした。
台風一過の晴れ間のあとは、また次の台風が現れて天気が荒れた。
香川瑠璃は火葬炉に背を向けて炉前室の壁に向かって立っていた。できることなら少しの間この場を離れたかったけれど、雨のせいで逃げる場所もない。
癌が見つかり一年弱の闘病の末母は病院で亡くなった。驚きも悲しさもない、瑠璃はただ終わったとしか思わなかった。兄は涙を流したが、そこは息子と娘の違いなのかもしれないと感じた。最後を見届けた父は人目もはばからずに大声で泣いた。瑠璃は、これは儀式なのだと思った。父はああやって母に別れを告げている。儀式が終われば翌日から日常が戻る。そう信じていた。
夫に先立たれた妻は長生きし、妻に先立たれた夫は後を追うようになくなる、という話はよく聞くが、母が亡くなってからわずか数日で父親は一気に何年分も老け込んだ。父の日常はいまだ戻らず放心状態のまま何もできずにいる。母の葬儀の段取りは自分が喜んで取り仕切ろう、若い頃はそんな決意をしていたこともある。でも、母の死が現実を帯びるとそんなことはどうでもよくなった。他の生き方はなかったのかな、とずっと考えている。
瑠璃の父親は一代で成功し財を成した。家族にも優しく、瑠璃は怒られるどころか小言ひとつ言われたこともない。何不自由なく育った瑠璃は美人なだけではなく、性格も穏やかで、中学生の頃から言い寄ってくる男の子が後を絶たなかった。でも、誰一人に対しても魅力を感じなかった。高校に入り、周囲が恋の話で盛り上がるようになると、もしかしたら自分はおかしいのかもしれないと感じるようになった。友達のことが好きで、友達と一緒にいると楽しいはずなのに、突然たまらないほど一人になりたい。でも一人は寂しいからまた友達のもとへ戻り、やはり楽しいと感じるのに、また一人になりたくなる、その繰り返し。友達も孤独もどちらか一方だけでは私を満たしてくれない、そう意識したのは高校生のときだ。
大学生になると、最初に告白してくれた男の子と試しに付き合ってみようと覚悟を決めた。そして謎が解けた。ダメな男ばかりだ。自分の父親のような魅力にあふれた男なんてどこにもいない。
子どもの頃は父親が頭を撫で、抱きしめてくれた。年頃になった娘に父親は触れようとはしない。私は時々スキンシップに飢えて、言い寄ってくる男の子と肌を合わせ、結局は満たされない底なしの虚しさに落ちるだけ。残されるのは究極の選択しかない、永遠に父親のもとを離れないか、永遠に父親のもとから離れるか、そのどちらか。瑠璃は後者を選んだ。
ロンドンに留学すれば、向こうで誰かを好きになり、そのまま一生日本に戻らずに過ごせるかもしれない。そう考えた。家族にも一生会わないくらいの覚悟なのだから、いままでの友達はもういらない。私は退路を断つつもりで、家族以外の誰にも告げずに大学を休学してロンドンに渡った。休学と言いつつも戻るつもりはなかった。イギリス人の男の子とつきあったおかげで英語は上手になったけれど、結局父親と離れて暮らす寂しさに耐えきれず、二年が限界だった。かつての友人たちがみな卒業した大学に戻り、在学中に秘書検定を取得して就職をした。ロレックスは就職祝いに父がくれた。私にとっては結婚指輪も同然だった。この人の側にずっといると決めたのだから。
母が「いつ結婚するの?」とうるさく言うようになったのは三十の手前からだ。まさか、私が愛しているのはあなたの夫だ、などと言えるはずもない。母が死んでくれたらいいと願うようになった。願うだけではなく、もしかしたら自分が手を下すかもしれないと想像をした。万が一そうなったときのために、荷物は小さいほうがいい。私は社会に出てから築いた人間関係も一人ずつ断つことに決めた。
その選択が間違っていたのかもしれない。本当のことを打ち明けられる友人がいたら別の人生があったのかもしれない。
待ち望んだ母の死が私を満たすことはなかった。妻を失って泣き崩れ、抜け殻のようになってしまった父。それはもう私の知っている父の姿ではなかった。私は何を期待して今まで生きてきたのだろう
「香川瑠璃さん」
誰にも話しかけられたくないから背を向けていたのに、背中から男の声がした。聞き覚えのある声。誰だっけと記憶を辿りながらも振り返ることはしなかった。
「このたびはご愁傷さまでした」
定型の文句ではヒントにならない、瑠璃は次の言葉を期待していたが、男の口からは次の言葉がすぐには出てこない。
「昔同じ職場にいた白井です。覚えていますか? 今はこちらでお世話になってます」
ああ、あの白井君、色が黒いから黒井君と呼ばれていた白井君、懐かしい、もちろん覚えている、突然気持ちの波が押し寄せたけれど瑠璃は何も言わなかった。黙っていればすぐに波が引くように気持ちが収まることを知っていたから。
白井は瑠璃の返事を黙って待っていた。次の言葉を継ぐことができない。
「お仕事に戻られた方がよろしいのではないかしら」瑠璃はせいいっぱいの気遣いのつもりで、白井に背を向けたまま言った。
「申し訳ありません」白井の声が背中から聞こえる。立ち去った気配はない。気配がないまま立ち去ったままなのかもしれない。瑠璃は確かめるのが怖くて振り向けなかった。
だからダメなのよ、瑠璃は思った。父と違って、本当にかっこ悪い人。今の私がどんなだかわからないの? 抱きしめてくれればいいのに。