始まりは一人
始まりはたった一人の男――。
その男がここにやってきたとき、緑花は泉で生じたばかりだった。
たまたまそこに居合わせた――ただ、それだけだ。
このとき、まだ名前は無かった――。
やってきた男は泉に宿る緑花の存在を察することもなく、緑花も初めて見る人間をただ見ていた。
何しに来たのだろう?とか、何者だろう?という興味も無かった。
風が木々の葉を揺らしたり、水が小石を転がすのと、同じような心地でいた。
が――。
男は泉の水を一口含んだときにアッと声を上げ、そしていきなり「これだ!」と叫んだのだ。
緑花は、その声に惹かれてしまった。
(どうかしていた――)
と、後で何度も思ったが、生まれたばかりの精霊は、初めて出会った人の強い思いに一瞬で染められてしまったのだ。
そして男は緑花の存在に気付かないまま、ここで暮らすようになった。
男は崖にあった洞穴を自分の住み家とした。
元からあった穴がわりと大きくしっかりしていたし、木や枝・布を持ち込んで工夫して、風雨をしのぐにはさほど苦労をする様子はなかった。
そのうち、洞穴の側に小屋なども作っていた。
だが、人の暮らしに必要とされる衣食住のうち、一番大切とされる『食』。その調達は、この地においてはそう簡単ではない。
男はほとんど崖のような道を毎度上がり下りし、海で魚や貝を捕ったり、後の山に入って木の実や鳥を採ってきて糧としていた。
が、天候が悪いとその道は通れない、天気のいい日でもうっかりすれば足を踏み外しそうなほどの険しい細道なのだ。
うっかり風に吹かれ、雨水で足を滑らせて下に落ちれば大怪我――下手をすれば命だって危うい……。
ここはそんな地だ。
なのでそんな日は、男はこの地から出ることなく、その辺りに生えている草や木の芽を食べていた……。
決して便利ではない――というより、人が暮らすにはこれほど不便な場所もそう無いだろう。
どう考えたって、貧しく苦しい生活だ。
だが男は、毎日楽しそうに生き生きと暮らしていた。
(なんなのかしらこの男?)
緑花は初めの頃、男が何のためにここで暮らしだしたのかちっともわからなかった。
洞穴を利用して住むところを作ったり、丸太で小屋を作ったりするのは人の『住』というものだ。
『食』を得るために海に入ったり、山に行ったりするのはわかる。
暖を取る為、明かりを得る為、食べる為に火を起こすのもわかる。
泉の水を溜めるよう流れをせき止め池を作ったり、その周囲を石で囲むのもわかる――生き物が生きていくには水は絶対に必要だから、大事にしているのだと思った。
が、しばらくして、ここでの男の生活が落ち着きだしたな……と思った頃、男は何かを作り出した。
それは何回かに分け、大事そうに外からここへ持ち込んできていた物だったが、それが組みあがったときの満足そうな顔を今も緑花は覚えている。
(なんて嬉しそうな顔っ!)
ドキッとした。
羨ましいと思った。
(こんな顔を、もっと見たい――)
そして男が作ったのは織機というものだと、そのうちに知った。
それからの男は、食材集め以外の時間は染めや織りに勤しむようになった。
いや……その食材集めも、染め材料の調達のついでのようなものだったから、むしろすべての時間が染織に費やされていたといえるだろう。
何しろ寝ている間も、織物の夢を見ているような男だったから――。
(ちゃんと食べているのかしら?)
(ちゃんと寝ているのかしら?)
(寒くは……ああ、そう言えば、この前織っていた衣を身に纏っているようね……)
緑花とその男しかいない場所――。
生まれたてゆえに、まださほど力の無かった緑花を、男は認識することは無かった。
けれど緑花にとって男は惹かれてしかたない存在だ。
最初は人間のことなんて何にも知らなかったが、次第に風の精霊(風はどこにだって入りこむものだ)から、人についての知識を得るようになっていた。
緑花はトカシャン!トカシャン!という音を立てる機の音も、男が何かブツブツいいながら染めている糸の色も大好きだった。
そして織りあがった布はなおさらだ――。
(あれ?昨日織りあがった布、どこに持って行ったの?)
そのうち、男は作った布を外に持っていくようになった。
それを売っていると知ったのは、男以外の人が次第にここに入り込むようになってきたからだ。
最初は男の家族だった。
弟というのがきて、妹、そして母親父親――。
気がつけば兄や姉、その連れ合いと子供達、また連れ合いの縁者など……。
数十年たつ頃には、たった一人が住んでいたはずのここに、数十の住まいが出来上がっていた。
染めや織物にしかない興味のない男だった、だがそれゆえにだろう…いわゆるカリスマ性が非常に高かった。
男の仕事に魅せられた者が、次々に寄ってきたのだ。
(なーんか弟子とかいうのも来たものねぇ……)
いつのまにやら住まいの増えた様子を見て、緑花はつぶやく。
当初穴倉だった男の住まいは、弟子と名乗る者たちがいつのまにやら、大きく広く立派に改築していた。
それから男は妻を迎え、子もなして――。
(面白いわ……)
緑花にとっては、ほんの数十年の間の出来事だ。
そんなちょっとの間に、たった一人しかいなかったここに、里や郷と呼べるほどの人が集まるようになるなんて……。
しかもそれがすべて、緑花が惹かれたたった一人の男が切っ掛けなのだ。
短時間(緑花にとって)でどんどん変わっていく様子は、緑花をワクワクさせた。
もっと色々見たいと思った。
もっともっとワクワクドキドキしたいと思った――。
(どうしたらいいかな?)
もっともっと色々知りたい――。
もっと深く、彼らの……人の中に――。
そんな風に緑花が思うようになっていたある夜、件の男が一人、泉の縁で座り込み、じっと水面を見つめていた。
「……いるのだろう?」
(!)
つぶやかれた言葉にぎょっとする。
「儂がここにきて、もう何十年にもなる……。その間大きな障害も無く、ここで暮らせておったのは、護ってくれるものがおったんだろう?」
そうでなければ、こんなところで今まで何事もなく暮らせているはずがない――。
そして、それがいるのはきっとこの泉だ……。
男の言葉に緑花は目を見開いた。
緑花自身には護っていたという意識はなかった、が……そうと言われてみれば、精霊である自分が、好意を持ってその行く末を見ていたのだから、自然と守護の力が発揮されていたとしてもおかしくはない。
こんな危険度の高い場所で、それなりの人数が暮らしているのに、大きな事故が一度も起こっていないのは当たり前のことではなかった。
男はそれを護ってくれるものがいるからだと悟っていた。
男は懐から二束の糸を取り出し、泉の方へ掲げて見せる。
「こっちはここへ来る前に染めた糸、そしてこっちはこの泉の水を使って染めた糸だ……」
どちらも美しい孔雀色。
だが最初の糸よりも、この泉の水で染めたという糸の方が艶がより深かった――。
まるで緑色の真珠のような、そんな光沢を放っていた。
「ずっと探しておったんだ、儂の望む色を出すことの出来る何かを……」
誰よりも、何よりも美しい布を作ること……。
それが男の望み――。
若いころから染織に関しては、人より優れた技術、技を持っている自負があったが、望む色はなかなか出来ずにいた。
美しいのは美しい――けれど、男の望みはそれ以上の美しさ……。
先人の話を聞き、渡来人を訪ねたりもした、何度も何度も染めを繰り返した、様々な染料、材料を試した……。
「そんな中で、水を変えたら色が変わることがあると言うもんがおった。そして地の神様の恩恵を受けた水には力があると……」
半信半疑だったが、手掛かりの一つと思って、歩き回り、探し回り……そして、この泉を見つけた――。
「ここに来て、一口飲んでこれだと思った……」
この水を使えば、望むものを作ることが出来る!
そう確信したから、ここに住み、ここで染織をすることにした――。
「そうしたら、こうなった……」
思いもかけず、結構な所帯になってしまった――。
そう言って苦く笑う。
「だが……儂も、もう全盛を過ぎた……。この先どこまで突き詰めていけるかわからん……。いつこの息の根が止まるかわからん――」
男の言葉を聞いて緑花は戸惑う。
(え?まだ、ほんの数十年しかたっていないのに……)
(私はまだ満足していないのに……)
「だが儂はまだ諦めん…」
男はきっぱりと言った。
「たまに見に来とっただろう?儂が染めをしとったり、織りをしとるところを見に来とったろう?」
自分の気配が悟られていたことに気づいて、緑花は息を飲む。
「誰やも知れん、何かも知れん……。ただ、儂を…儂らを護ってくれとるものに、礼を伝えたかった……。あとはまぁ…出来れば儂の布をどう思っているのか知りたくてな……」
それだけだ……。
そう言って男は糸を懐にしまうと、ゆっくり立ち上がり、泉の辺を立ち去ろうとした。
――と、その前に小さな子供の姿が立つ。
「な……」
いきなり現れたその姿に男は息を飲む。
「名前をつけて」
艶やかな孔雀色の着物を来た子供――女の子は、そう男に言った……。
座敷童が生まれた――。
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