座敷童の去った家
当たり前にあるものは、なくなるまでそのありがたさに気がつきにくいものですよね。
八真名家――。
リビングのソファでぐったりしている夫を見つけて、妻の真理は声をかけた。
「お帰りなさい。ずいぶん遅かったわね……。お食事はどうするの?」
「ああ……。疲れすぎたんで、飯はいい。悪いが、お茶を入れてくれ」
「ええ、緑茶でいいかしら?」
「ああ……」
ソファの背もたれから、グッと身を起こした八真名冬也は目の間を軽くつまむ。
「ずいぶんなお疲れ具合ね?」
そう言いながら、真理は夫の前に湯呑を置いた。
「酷い目にあった……」
湯呑を手に取りつつ、息を吐きだしながら冬也はぼやく。
「今日は取引先との契約更新の打ち合わせ会議があって、大切な取引相手だから遅れないように早めに会社を出たんだが……」
湯呑の中を見つめながら、冬也は困ったように首をふる。
「やたらと信号に引っかかって、このままだとギリギリになるかもしれないと思って道を変えたんだ――」
大切な取引先との大事な会議だ。
ギリギリな時間に行ってバタバタしたくない。
出来れば余裕を持って臨みたいから……と、最善な道を選んだはずなのに――。
「そうしたら、右にも左にも後ろにも逃げられない一本道で、前方で事故があった……」
「あら、最悪」
「ああ最悪だ……。事故処理が終わるまで足止めを食らって、結局会議に大幅に遅れた……。相手に大謝りする羽目になったよ」
「会議は?」
「可もなく不可もなくだ。まぁ、長い付き合いの相手だし、不可抗力だったし、なにより互いに利のある契約だからな。そこに関しては幸いだった……。ただ、それにしても……」
息を吐きだし、冬也は天井を仰ぐ。
「儂は今まで、こんな不便な思いをしたことがなかった……。事故渋滞だと?そんなもの、ニュースの中で聞くものだとずっと思っていたのに…」
八真名冬也にとって、イラつくほど信号に何度も引っかかったり、事故渋滞に巻き込まれるなんて今だかつてなかったことだ。
テレビや新聞のニュース、知人の話に聞くことはあっても、自分が経験するなんて思いもしなかった――。
嘆く夫に真理は頷く。
「ええ、そうね……。私も最近思い出したけど、あなたと結婚してこの家の人間になるまでは、そう…やたら信号にひっかかっちゃう日があったり、うっかり体に合わない物を食べてお腹壊したり、箪笥の角に足の小指ぶつけてうずくまったりとか結構あったわ」
「なんだそれは?」
妻の告白を苦笑しながら聞く冬也だが、見れば真理は結構な真顔で、ふざけているわけではなく真剣な告白なのだと悟る。
「小さな不幸ってやつよ。私、この家に来てからそういうものから縁遠くなっていたことに、この頃やっと気がついたの……」
贅沢になっていたのね――と小さく笑う。
「他所のお宅と違うことはわかっていたわ。実体験もちゃんとあった。だって、活けた花がとにかくこの家では長持ちするんですもの。普通はあんなに持たないわ。よそで活けたら三日で萎れる花が、この家だと十日は持つのよ?お義母様は、それはこの家に座敷童がついているからだとおっしゃっていたけど……」
そこまで言って、少し真理は言葉を探すように少し止まる。
「ふーんって感じだったわ。この家が他所と違うって自分の体感でわかっているのに、それが座敷童のおかげって言うところが、ちゃんと理解できていなかったみたい……」
ありがたさをわかっていなかったと反省する真理を、冬也は責めることはない。
「そうか……。まぁ、存在を察知できるのは親父と大樹だけだからな。今は大樹一人だし」
「座敷童の存在を疑っていたわけじゃ無いんだけど……」
「日常の当たり前のことに、人はあまり感謝の念を覚えることはないからな……」
仕方がないことだと冬也は言う。
冬也自身も、殊更に蔵の王に感謝をすることはなかった。
居るのが当たり前――その恩恵を受けた状態が、当たり前だったからだ。
「で、母さんは?」
「あまりご自分の部屋から出ていらっしゃらないの……。閉じこもりってばかりだと足腰が弱ってしまうから、せめてお庭の散歩くらいしてくださいってお願いしてるんだけど……」
妻の言葉に、冬也は頷く。
「大樹に、蔵の王様の気配がこの家からなくなっていると聞かされて、かなりショックを受けたようだからな……。華子の事故のこともあるし……」
「蔵の王様の花壇を、あの子が滅茶苦茶にしたこともあるわ……。お義母様の目の前でやったのよ?あのまま、寝込んでしまわれなかっただけましだわ」
「そうだな……」
華子の事故のあと、蔵の王の気配が八真名家から消えたことに大樹は気がつき、そのことを早々に家族に告げていた。
座敷童が居なくなったということは、それまで受けていた加護――恩恵が無くなるということ、それは大変なことなんだと大樹は家族に伝えた――。
「おそらくうちで誰よりもショックを受けたのは大樹だろう……」
蔵の王の存在を察知できるのは大樹だけ――。
物心ついた時から、大樹の側には蔵の王がいた。
大樹の喪失感を思うと、冬也はなんとも言えない気持ちになる。
「私、華子の躾けを…」
「いうな」
真理が言葉にしかけた繰り言を冬也は止める。
「今更言っても仕方がない。それに正直儂は、あれは華子が持って生まれた性格の問題だと思ってる。儂らの躾けどうこうでどうなるもんでもないとな。大樹は何の問題も無くあれほど優秀なんだから」
そう言い切る冬也に、真理は諦め顔で頷く。
「そう、ね……。ああ…もう!あの子、なんだって、あんな馬鹿なことをしでかしたのかしら!」
あんな馬鹿なこと――。
大樹のお祝いパーティーが催された日。
兄の大樹ばかりが持て囃されることにいら立ち、ヒステリーを起こした華子は無免許でスクーターを暴走させ、自損事故を起こして大怪我をした。
八真名家の門扉につけてあった防犯カメラや、通りかかったトラックのドライブレコーダーで、門から飛び出てきたスクーターがトラックの目前で横っ飛びに吹っ飛んでいく様子がしっかりと確認されていた。
たまたまその時ほかの理由でトラックが速度を落としていなければ、もし路上に落ちていたペットボトルでスクーターの前輪が滑らなければ、華子はトラックと正面衝突しておそらく即死していただろう。
残されていた映像から、スクーターの速度はかなりのものだと推測されている。
「命が助かったのは、奇跡みたいなもんだ。小さな幸運が重なって、死なずにすんだ……。大樹はわからないと言っていたが、きっとあの時点までは蔵の王様がいたんだろう」
「そう…奇跡よね……」
「医者はなにか言っていたか?」
夫の問いに真理は頷く。
「お医者様は傷はもう治したっておっしゃってるわ。あとは本人の頑張り次第ですって」
「そうか……」
華子は派手に吹っ飛んだ割には重体にまではならなかった。
スクーターは全損で、二度と使い物にならないほどにグシャグシャになったし、事故当初はさすがに気を失っていた。
吹っ飛んで転がったせいであちこちに打撲、擦り傷、切り傷を負い、輸血が必要になるほどの出血もあった。
背中を強打したせいで下半身にしびれが残り、リハビリしないと一生歩けなくなる可能性があるとも言われている。
つまり、かなりの重傷ではあった。
が、頭は打っていなかった。顔もだ。
不思議なことに首から上は無傷――。
普通は重たい頭から、人は落ちることが多いのだけど……。
ノーヘルだったのでトラックとの追突がなくとも、頭を打てばまず助からなかっただろう。
「ほんと、奇跡よね。女の子だもの、顔に傷が残ればきっと今以上に大変だったと思うわ」
「いっそ、少しくらい頭を打てばよかったと思うぞ。そうしたら……」
「冗談でもやめて!」
冬也のぼやきを真理がとがめる。
「すまん……」
自分でも言ってはいけないことを言った自覚があるので、冬也はすぐに謝る。
ローテーブルに両肘をつくと、組んだ手の上に額をのせて目を閉じた。
「儂は産まれたときから、この八真名家の人間だ……大樹も、そして華子も……。座敷童のいない家なんて……」
なんて、しんどいんだ――。
そう言った冬也に、真理は困ったように息を吐くしかできなかった。
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