井戸
「……へ?」
クロは思わず間抜けな声を上げて黄魚を見る。
というのも、黄魚がおもむろに立ち上がるなり、スカートの裾をふわっとひるがえして、川の真ん中にある石に飛び移ったからだ。
「おい!どこ行くんだよっ!」
クロ的にはまだ会話の途中だったので、黄魚の行動に混乱してしまう。
「……お山、行こう?」
ちょっと振り返ってそう言うと、黄魚はまた向こう岸に向いて次の石へと飛び移る。
スカートの裾をひるがえし、軽やかに飛ぶ姿は美しい――が、クロには見とれる余裕はない。
黄魚の突飛と思える行動に、意識がなかなかついて行かない。
「はい?山って、いきなりなんだよ?何しに行くんだよ?」
「白波に、山ブドウ……」
その返答に、クロはやっと「ああ…」と思う。
確かに、山の幸を持っていけば、白波が喜ぶという話をしていた。
だから黄魚的にはクロとの会話の流れで、今のこの行動になったようだが――。
クロ的には、無い――。
白波が喜ぶとは聞いたが、持って行くなんて話には一切なってなかったはずだ。
「行かねーよ」
そう返すと黄魚は不思議そうな顔をする。
「お山、行かないの?」
「そのうち行くけど、今じゃねぇし、行くなら一人で行く。山に行くのに、タロ以外の連れはいらねー」
ぶすくれた顔で若干乱暴にクロが言うと、黄魚は少しションボリした表情になった。
「この前行ったとき、まだ青かったけど、今なら黒くなってるかもしれない……。甘いの持っていったら、白波が喜ぶよ?」
「なってるかもしれねーけど、俺は今は行きたくない。そう言っただろ。それに白波、水無月作ってたぞ。そろそろ囲炉裏部屋行く頃合いじゃないのか?」
クロの指摘に、黄魚はあっという顔をする。
おやつのことはすっかり忘れていたらしい。
「戻る」
そう言って、またふわっ、ふわっと石を飛んでクロの横へと戻ってきた。
「ったく……」
きっと毎回こんな感じで、おやつの時間を忘れて遊び惚け、紅に手間をかけさせているのだろう。
当の黄魚に、悪気がいっさいないのが余計に腹立たしい。
この前、紅がきーっ!となっていた気持ちが良くわかった。
「んじゃ、屋敷に戻るかー」
「…ん」
クロは黄魚の先に立って、来た道を戻って行った。
※※※※※
畦道を行きながら畑の方に視線を向けると、相変わらず精霊の気配が濃いのがわかる。
黄魚から彼らが逃げて来たんだと教えられて、行きしなに「くわばらくわばら」なんて言ってしまったのが、なんだか気まずい。
「詫びたほうがいいかなぁ……」
ついポツリとつぶやくと、黄魚が後ろからクロのシャツを引っ張った。
慌てて振り向くと――。
「悪いことしたんなら、ごめんなさい言った方がいい。早い方がいいよ?」
真顔でそう言われた。
「う、うん……」
今のクロの呟きを聞かれたようだが、たった一言の呟きで、いったい何がわかってそういうのか……。
恐らくは、クロが何に対して、なぜ詫びたほうがいいのかなんて、わかった上で言ったわけでは無いと思うが――。
でも――。
クロは足を止めると畑の方に向いた。
謝りたい気持ちが湧いているんだから、謝るのが正解だ。
「さっき横通るとき『くわばらくわばら』なんて言ってごめんなさい!」
そう言って頭を下げた。
「うん」
満足そうに黄魚が頷き。
畑から吹いてきた風が、優しくクロを撫でていく。
胸のどこかに、ちょこっと引っかかっていたものが取れたみたいで、クロもほっと息を吐いた。
「ちゃんと謝ったぞ!」
「うん。良かった」
どや顔で、なぜか黄魚がクロの頭を撫でる。
「なんで撫でるんだ?」
「なんとなく?」
「……まぁ、いいけど……」
首を傾げる黄魚にクロも首を傾げるが……ま、いいかと館へと足を向ける。
そんな少し気の抜けた間に、何かがクロの気を惹いた――。
――『何か』
その何かが何なのか、クロにはわからない。
ただその気になる何かが井戸からなのがわかる。
クロは吸い寄せられるように井戸へと足を向けた。
井戸は勝手口の真ん前――三メートルくらいは離れている――にある、四隅に柱が立った立派な屋根付きで、石積み製。
大人の拳ほどの石が積み重ねられ、漆喰でしっかり固められている。
縁の高さは八〇センチほどあり、側でうっかり躓いても、中に転げ落っこちることはないだろう。
井戸の脇には使い込まれた真鍮製の手押しポンプがある。
井戸に蓋はなく、つるべも備えられているが、ほとんどポンプを使うのだろう、桶は梁の上に巻き上げられていた。
「クロ?」
井戸に足を向けたクロを黄魚が呼ぶが、井戸のほうが気になるクロは返事をしない。
黄魚は井戸に向かうクロを数歩追いかけたが、クロが井戸にたどり着き、そのヘリに手をかけた様子を見て足を止める。
そして声をかけた。
「井戸、覗くの、やめた方がいいよ?」
そんな黄魚の声を聞いて、クロは首を傾げて振り返る。
黄魚が心配そうにクロを見ていた。
(やめた方がいい?どうしてだ?……ていうか、なんで俺は井戸なんか覗こうとしてるんだ?)
不思議に思いながらも、動きが止まらない。
黄魚から顔を戻して、井戸のヘリに置いた手に軽く力を入れて、井戸の中を覗き込む。
そして井戸底を見た途端、そこに映った光景に声を上げた――。
「華子っ!」
井戸の底に映っていたのは、クロの守護家の末の子である華子の姿。
末の子と言っても、すでに一六歳にはなっているのだが――。
その華子が髪をなびかせてスクーターで暴走していた。その進路の先にはトラック―――。
「やめろっ!」
クロは叫ぶ。
この時の状況をクロは覚えていた。
ヒステリーを起こしてスクーターで家を飛び出した華子はヘルメットも被っておらず、激情のままアクセル全開で家の門から飛び出していて……。
クロは井戸のヘリにかけていた両腕に力を込めた――。
井戸って、神秘的だと思います。
色々言い伝えを持つ井戸も多いですしねぇ…。
一昔前は井戸での取水が当たり前で、あれがあちこちに当たり前のようにあったというのが、なんだか不思議です。
ちなみにぐらごんの叔母の家は、台所の床下に今は使っていない井戸があります。
大雨の時とか、水音が下から響いてくることあるんで、掃除したらまた使えるんだろうなぁ……。
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