岩を穿つ水
「配達終了~!」
紫鏡の部屋を出ると、紅がそう言ってお盆を持った手を突き上げる。
「ああ、ごくろうさん」
銀河がそれに応じる。
「あたし、お盆を白波に返しに行くからー。あとは銀河、よろしくー!」
「ああ、わかった……」
じゃあねーっと、階段を軽快に降りていく紅の背を見送って、クロはため息をつく。
「……あの子、なんであんなに、元気なんだ?」
力を使い過ぎて力を失ったから、この療養所に来てるんじゃなかったのか?
っと、疑問が出る。
悪気はなさそうだが、相手をするのはどうにも疲れる。
「そう言うてやるな……。あれは優しすぎるだけだ――」
銀河が苦笑いで言う。
「……優しい…かなぁ?」
クロは首を傾げるが、確かに疲れる――とは思ったが、意地悪はされていないと思いなおす。
「『優しさ』というのは、自分以外の誰かの憂いに寄り添うことを言う――。そういう造りの文字になっているだろう?」
銀河の言葉に、クロは優の文字を思い浮かべる。
言われてみれば、確かに人偏――『人』の横に『憂』となっている。
「言葉が荒いし、うるさいし……。かまわれている方にしたら、うっとおしいこともあるだろうが、紅が相手の憂いに寄り添って、なんとか改善してやりたいと願っているのは確かなことだ」
だから嫌ってやらずに、たまにでいいから相手をしてやってくれと銀河は笑う。
「……わかったよ……」
先輩童にそこまで言われ、クロは若干面倒に感じながらも、ため息半分で頷く。
「で、次は誰の部屋?そろそろ、俺の部屋?」
緑花と紫鏡の部屋は、クロにとって結構な衝撃があった。
自分の部屋――界がいったいどういうものなのか、期待と怖さが胸でせめぎあっている。
「ああ、そうさな……。次は、わしの部屋に案内しよう」
銀河はそう言うと、自分の脇にある襖を開けた。
※※※※※
銀河に招かれたのは、だだっ広い畳の部屋だった。
テニスコートほどあった緑花の部屋ほどではないが、恐らく三〇畳以上はあるだろう。
周囲の壁は木目の美しい板張り。欅だろうか?
畳の目も美しく、目に嬉しい。
が……。
――何もない……。
「……」
襖を開いて数秒、クロは目の前の状況にあっけにとられていた。
「えっと……。座布団くらい、置かないのか?」
我に返って、銀河に言ってみる。
「うん?確か、昔はあったな……。わしもここにきて久しくてなぁ、気が付けばこの状況だ」
「……そういうもん、なのか?」
物があふれるような人界から来たばかりのクロとしては、なんだか落ち着かない気分になるが、銀河はクロの言葉に肩をすくめるだけだ。
部屋の主が好むのがこの状況だというのなら、新参者のクロがこれ以上言い募ることはできない。
「……窓は…。あっちか……」
すぐに気持ちを入れ替えて、気になる窓を目で探す。
窓は入口の正面ではなく、左手の奥にあった。
緑花、紫鏡たちの部屋にあった窓と同じく、腰高の窓だ。
今いる入ってすぐのところからでは、角度のせいか、窓の外がどんな景色なのか見ることができなかった。
「気になるなら見てきていいぞ」
そわそわしているクロの様子に気付いて銀河が言う。
緑花の部屋、紫鏡の部屋――どちらも特異な部屋で、その窓の外の景色はそれ以上に普通ではなかった。
そして、それは部屋も含めて、その部屋の主のための『界』だという。
界とは本来境を示す言葉……。
(そこに何か意味があるのか?)
銀河も紅も緑花も、部屋の『界』がなんなのか、知らないと言っていたが、クロはその部屋の主の魂に紐づけられているのでは?と、察していた。
もちろん、そんなことは先輩童たちも気付いているんだろうが、言えないわけがあるんだろうと……。
ここは『座敷童療養所』、ここがそうである理由――きっと、その理由の一つが各々の部屋だ……。
クロはそう思って――。
窓に近寄る。
「え?……岩?」
景色――というより、窓の目前は巨石。
灰色の岩肌が、目の前に聳えていた――。
それは、一瞬それ自体が山かと思うような巨石。
巨石の表面は風雨で研がれたようになっていて、雑木や草の気配はない。
恐る恐る窓を開けると、轟々と水が流れる音が下から響いて来る。
音に引かれて視線を下に向けると、巨石の下方がトンネルに抉られていて、そこから吹き出た水が川になって流れて行っているのが見えた。
おそらくその水が、この巨石に穴をあけたのだろう。
川があるせいなのか、裾の方から白い靄が立ち込めていて、巨石を取り巻いている。
靄で霞んで遠くは良く見えないが、巨石は岩山の一部となっているようだ。
目前の迫ってくるような巨石、下方にある流れの速い川――。
離れているのでよくわからないが、川幅は狭そうだ。
人の世の、深山にありそうな景色ではある。
「なんだか、深い峡谷を覗きこんでいるみたいだ――」
引き込まれそうな気がして、クロは思わず窓枠をつかんでいた。
「飛び込んでくれるなよ……」
からかうように銀河は言うが、シャレになら無いとクロは思う。
「あの川は、どこに繋がってるんだろう?」
もしうっかり水に落ちたとして、助かるようなところだろうか?
「さあな?」
「これ、銀河の界だよね?」
心当たりもないのか?と、クロは界の主である銀河に問うが……。
「そうさな……」
投げやりな気配で、銀河は窓枠にもたれて言う。
「わしらが、わしらの全てにおいて、ままなることが有ると思うか?」
「……」
自分が思うまま――なったことなど、数回……いや――。
……無。
「無い、なぁ……」
クロはその言葉を、噛締めるように吐き出した。
千年過ぎて生きているという白波。クロは流石にそれほどではないが、千年近くは存在してきた。
それほど長い時を過ごしてきて、すべてが己の気持ちにままなったことなど記憶に無かった……。
轟々と、笑うように川の音が響いて来ていた。
物が置かれていない部屋はとっても広くて、同時に少し怖いような気がします――。




