9
大変お久しぶりです。
今日はこのまま夕方まで自室にいるので、自由にして良いと言う団長を残し、私だけ部屋を出た。
それにしても困った。
王子には、私と幽霊さんとの関係を考えてみると言ったが、正直どれだけ考えても全く身に覚えがない。
「どうしたものかしら…」
「危ない!」
「…え?」
考え込みながら中庭を黙々と歩いていた私にかけられたその声に、驚いて振り返るのと同時に、顔の横をものすごい速さの何かが通りすぎていった。
がしゃんと大きな音を立てたそれを恐る恐る見ると、そこには無残な姿の植木鉢。
「もう!上階に飾る植木鉢はしっかり固定しておかないといけないと危ないのに!侍女たちはなにをやっているのかしら」
呆然としている私に、ぷりぷりと起こりながら近づいてきたのは私に声をかけてくれた女性だ。
見覚えのないお仕着せを着ているが、どこかの侍女だろうか。
お礼を言うのも忘れてぼうっと彼女を見ていると、つり目がちな大きな瞳がこちらを向いた。
「大丈夫?当たらなかった?」
先ほどとは打って変わった優しげな声で私を気遣ってくれる。
その声でようやく我に返った。
「あ!ありがとうございます!あなたの声がなかったら今頃…」
今頃、私の頭はこの無残な植木鉢と同じ運命を辿っていたか…運が良くともただでは済まなかっただろう。
そう思うと、震えが止まらなくなる。
思わず自分をぎゅっと抱きしめていると、目の前の命の恩人は痛ましそうに眉を顰めた。
「怖かったわね。もう大丈夫よ。とりあえず中に入りましょ」
そう言って私を室内に促してくれる。
今更ながら、背筋がひんやりとするのを感じた。
「ありがとうございます。本当になんてお礼をいったらいいか…えっと、お名前を伺ってもよろしいですか?」
「気にしないで。私はエル。衣装係をしているの。本当に災難だったわね…一番悪いのは落ちてきた植木鉢よ」
そう茶目っ気たっぷりに笑ってくれるエルさんにようやく笑みが溢れた。どこか近寄りがたい雰囲気のある美人さんだが、笑うと途端に親しみやすい雰囲気になる。
「私はティナです。私は掃除女中なんですが…エルさんのことは存知上げなくて…すみません」
「ああ、あなたも掃除女中になったのね」
「え?」
あなたも、とは、どういう意味だろうか。
しかし彼女は頭を振り、「気にしないで」といって話を続ける。
「担当区域が違ったら全く顔を合わせないことも多いし、仕方ないわ。私もとある部署専属でやっているから、顔を知らなくても不思議じゃない」
そういってにこりと笑う。
その綺麗な笑顔は、先ほどまでの温かみのあるものとは異なり、それ以上問いかけることを許さないようで。
「そうですか…」
そういうしか、なかった。
「それにしても、あんなところでぼうっとしてどうしたの?何か悩み事?」
まだ動揺している私を部屋まで送ると言ってくれたエルさんと廊下を歩いていたら、そう問われた。
先ほどの私は遠目から見ても余程ぼうっとしていたらしい。
エルさんは私の命の恩人とはいえ、まだ会ったばかりの人だし、何より私の悩みごとはある種国家機密だ。
おいそれと相談するわけにもいかず、うんうん唸っていると、エルさんが眉を下げた。
「ごめんなさい。会ったばかりの人間にそんなことは聞けないわよね」
「そんなんじゃないです!」
命の恩人であるのみならず、気遣ってくれた相手に気まずい思いをさせてしまったことに動揺し、ついつい大きな声を出してしまった。
急に大きな声を出したことに自分でも驚くと、同じように少し驚いたようなエルさんと視線が合う。しばらく二人でぽかんとしていたが、段々面白くなってきてしまい、最終的にくすくすと笑い合った。
初めて会う人だし、どこか近寄りがたい雰囲気を持っている人なのに、なぜかこの人なら大丈夫という気がして、無意識に口が開く。
「エルさんは…。自分の知らないはずの人が自分を知っていたら…どこで知り合ったんだと思いますか?」
なんとも曖昧な問いかけだと思う。
けれど、この曖昧な問いが今の私が一番不思議に思っていることだ。
幽霊さんは、なぜ私の前に姿を見せないのか。
彼女は皆が言うように私の知り合いなのだろうか。
彼女はしばし悩んだあと、口を開く。
「そうね…。あなたが出会ったことを忘れているか…もしかしたら、その人はあなた自身ではなくて、あなたによく似ている人を知っているのかもね」
だって、あなたはどこか懐かしい香りがするわ。
そう言って、彼女は薄らと笑みを浮かべた。
彼女にお礼を言って別れたのち、自室の椅子に座り込む。
「私ではなくて、私によく似ている人か…」
先ほどの彼女の言葉が頭の中でぐるぐるとこだまする。
しばらく悩んだのち、「よし」と思い立って、部屋を出た。
部屋の扉を閉める頃には、不思議とその言葉も声の主である恩人のことも、どこか朧げになっていた。
「領地に帰ることにしたのか?」
「もう心当たりとなると、私の親族しかいなくて…。ウォルター領に帰れば親族に会えるだけじゃなく、亡くなった伯母や祖母の妹の話も聞けますから」
「なるほどな」
旅装の私と共に馬の準備をしてくれるのはドルトムンダー副団長。私が馬の前でもたもたと準備している様子を見かねて手伝ってくれているところだ。
昨日、ランビック団長を訪ねた理由はこれだ。
中庭で一人悶々と考え込んでいたときに唐突に思いついたのだ。
私が覚えていないことも、父や母は覚えているだろうし、亡くなった伯母や祖母の妹についても詳しい話を聞けるだろう。自分の親族が幽霊になっているとは思いたくないが、何か手がかりにはなるかもしれない。
流石に急に故郷に帰りたいと言ったら、怪しまれるかと思ったが、ランビック団長経由で王子から直々に女官長に話を通しておいてくれたらしく、休暇取得は容易だった。
ちなみに王子が用意した言い訳は。
「またシラミか…」
「そのうち本当にシラミに悩んだ時に信用してもらえなくなりそうなレベルで使ってますよね。この言い訳」
お前、嫌なこと言うなよ、とドルトムンダー副団長が肩を落とす。
そう、シラミという言い訳が甚くお気に召したと思われる王太子が、直々に「またシラミに騎士団が悩まされることがあれば、国の一大事であるから、ウォルター領からハーブを仕入れてきなさい」と命じられたのだ。
領地に向かう事情が事情なので、王太子殿下は至極真面目な表情であったが、ドルトムンダー副団長曰く、抑えきれない笑みを浮かべていたとか。
「そう言えば、殿下がついでに王妃と王太子妃に差し上げるポプリの材料も仕入れてきてくれってよ」
「お二人も我が領のポプリを使ってくださっているのですか…!」
ドルトムンダー副団長からもたらされた情報に思わず感動に打ち震える。
なんと、セレスティナ王妃は我がウォルター領から献上されるポプリをいい香りだと、北部の厳しい自然環境の中でもたくましく生き抜く草花の力強い香りがすると愛用してくださっているらしい。父母に伝えたら喜びのあまり飛び跳ねかねない話である。
「お前、王妃様の侍女にポプリを渡したらしいじゃないか。そのポプリに癒されていると療養中の侍女から手紙をもらったらしくてな。最近気疲れするようなことばかりだったから、ぜひ欲しいと」
なんと、リオナの叔母様は王妃様の手紙に記すほど気に入ってくれたのか。ますます嬉しい。
それに、少しでも癒しになっているのであればよかった。
「私の手持ちのハーブも減ってきたところでしたし、新鮮なハーブを仕入れて献上しなければいけませんね」
シラミのためにハーブを仕入れてくるのは完全に冗談のつもりでいたが、別の理由で本当にハーブを仕入れなければならないようだ。
「というか、お前…」
「ウォルター嬢、もう準備はできているようだな」
副団長の声にかぶさるようにかけられたその言葉は、ここにいるはずもない人のもの。
声の方向を見ると、そこにはやはり。
「ランビック団長?どうしてここに?」
「あー団長はどうしたんだって言おうと思ったんだが…。その様子じゃ一緒に行くこと聞いてなかったみたいだな」
今度は、私の訝しげな声と副団長の呆れたような声が重なった。
一緒に行く、とは、どういうことだろうか。
頭の中に疑問符をたくさん浮かべていると、少し困ったような団長が口を開いた。
「今の私が君と離れるのは危険なのではないかという殿下の判断でね。申し訳ないが、同行させてくれ」
「殿下の判断ねえ…」
あまりに突然の事態に、意味深な副団長の言葉にもその副団長に少し顔をしかめる団長にも気付けるはずもなかった。
田舎貴族令嬢にとって、乗馬は必須スキル。
その例にもれず、私も長時間馬に乗っているのはさほど苦ではなかったが、流石に騎士ほど早く駆けさせることはできない。
国の端近くにあるウォルター領までも、道中で最低1泊は必要だ。
「そろそろ日が暮れる。このあたりで宿を取ろう」
「は、はい…」
王都とウォルター領の間で一番大きな都市アジャンクトは、交易で栄える都市であり、宿屋の数も多い。
急なことではあったが、ちょうど星祭りが終わったばかりのこともあり、そこそこ綺麗な宿で無事2部屋確保することができた。
食事も出す宿ではあったが、「せっかくだから、外の店に行ってみよう」というランビック団長の誘いに頷き、何度かアジャンクトを訪れたことのあるという団長おすすめの店へと向かう。
「これ!おいしいです!とても!」
「そうか、それはよかった。アジャンクトには何度も来たことがあるだろうし、アジャンクト料理も食べ飽きていたらどうしようかと思ったが、ここに連れてきて正解だったな」
国の各地からいろいろな食材が集まるアジャンクトは、料理の味付けも王都や北部とは異なっていて、とても面白い。
「確かに立ち寄ることは多いのですが…。どうしても通過点というイメージが強くて、なかなか美味しいお店を探そうと思ったことはなかったんです。素敵なお店を教えてくださってありがとうございます」
「そう言ってもらえると私も嬉しい」
そう、目の前でにこにこする団長に思わず頬が緩む。
今の私はさぞかし締まりのない顔をしているだろう。
「君にはずっと世話になっているからな…。少しでも恩返しさせてくれ」
「そんな、私こそ団長にはお世話になりっぱなしです」
幽霊さんを避けるためかもしれないが、けれど、団長は私をきちんと一人の人間として扱ってくれている。
だからこそ私も、彼の力になりたいと思ったのだ。
アジャンクトを後にすると、徐々に街道沿いに畑が広がり始める。
ウォルター領が近づいてきた証拠だ。
慣れた景色をランビック団長に紹介しつつ、街道を行くと、遠くの方から「おーい」と呼びかける声が聞こえた。
遠目から見てもにこにこしていることがわかるその人は、私にとってひどく見覚えのある人で。
「お父様!!」
「おかえり、ティナ。おや、そちらは…?」
「王国第一騎士団の団長を務めております、アルト・ランビックと申します。僭越ながらお嬢様の護衛を務めさせていただきました」
「え!騎士団長!?」
悲鳴じみた声を上げながら馬から落ちそうになるお父様を慌てて支える団長。
親子揃って偉い人に慣れていなくて申し訳ありません…。
先に送った手紙を見たお父様は、領地の視察ついでに娘を出迎えにきてくれたらしい。
ランビック団長の同行を直前に知った私が事前に伝えているわけもなく、「お客様用の部屋を用意しなくては!」と挨拶もそこそこに馬を駆けさせ、風のように去っていった。
「落ち着きがない父で申し訳ありません…」
「いや、突然訪れたのは私の方だ。父君には申し訳ないことをしたな」
そう言ってくれるランビック団長に頭が上がらなかった。
「ティナ、よく帰ってきたわね」
「おばあさま!」
慌ただしくしている父母の代わりに、私を屋敷で出迎えてくれたのはおばあさま。
父と祖母に話を聞きたいと事前に手紙を送っていたからか、父が事前に別邸から呼んでくれていたらしい。
「王宮での様子を聞きたいところだけど…。お客様もいることだし、色々と話すのは食事の後にでもしましょうね」
優しいおばあさまの声に促され、懐かしの我が家へ足を踏み入れたのだった。
「それで、手紙に書いてあったおばあさまと私に聞きたいこととはなんだい?」
食事をすませ、ようやく本題に入る。
「うーんとね、色々あるんだけど…。とりあえず、亡くなった私の伯母様…お父様のお姉様とおばあさまの妹さんのことが知りたくて」
「姉の?うーん…。あの人は、生まれた時から病弱で、一度も領地を出たこともなければ、ほぼ屋敷で療養していた人だからなあ…。穏やかな人ではあったけど。叔母様もなあ…実は私もあったことがないんだよ。母上の双子の妹とだけしか知らなくてね。確かティナと同じように王宮に務めていたんじゃなかったっけ?」
「ええ、そうよ」
ゆっくりと口を開いたのはおばあさま。その表情はどこか懐かしそうな色を帯びている。
「ティナの名前はあの子のティアナ、という名前からもらったのよ。あの子もティナと同じように掃除女中として王宮に務めていたのだけれど、王宮で東部の貴族に見初められてね、そのまま東部へ嫁いだわ」
けれど、嫁いで間も無く、風邪をこじらせて亡くなってしまったのだという。
「職場が大好きだったし、同じ貴族とはいえ相手の方が格上で、東部に嫁ぐのも渋っていたのだけれど、王宮の同僚たちの後押しもあったみたいでね。だから嫁いでまもなく亡くなったときは、みんな後悔している様子だったわ。あの時後押ししなければって」
「じゃあ、妹さん…大叔母様も嫁いだことを後悔していたのかしら…?」
もし、断りきれず、無理に嫁がされたのだとしたら。
もし、それを恨みに思っていたのだとしたら。
もしかしたら、幽霊さんは。
ランビック団長も私が問うた意味を悟ったのか、真剣な顔でおばあさまの答えを待つ。
しかし、思い詰めたような私たちとは対照的に、おばあさまは微笑んで否定した。
「それはありえないわ。最初こそ渋っていたけれど、あの子は夫となった方のことを心の底から愛していたし、新しく故郷となった東部の領地のことも大好きだと手紙をくれたわ。それに…」
とても優しくて、まっすぐ女性だったのよ、と。
「私の大切で素敵な妹だったから、あなたにもそんな子になって欲しくてあの子の名前から音をもらったのよ」
だから後悔なんてあったはずがないと、そう優しい顔でおばあさまは教えてくれた。
広間の扉を静かに閉め、ランビック団長を来客用の部屋へ案内するために足を進める。
しばしの沈黙ののち、最初に口を開いたのは私だった。
「すみません、わざわざ領地にまでついてきていただいたのに、なんの収穫もありませんでした」
完全に手詰まりになった。
それなのに、同時に安堵している自分がいる。
そんな自分に後ろめたさを感じ、呟くように告げたが、ランビック団長は穏やかだった。
「いや、君の家族とは関係がなさそうだということがはっきりしただけでも収穫だ。ウォルター嬢の名前の由来も教えてもらえたしな」
そう言っていたずらっぽく笑う団長に心が温まるのを感じる。
時間を無駄にしたと言われても仕方がないようなことしかわからなかったが、同じように思ってしまった自分がいる。
「祖母がティナ、と私の名を呼ぶとき、どこか懐かしそうにする理由が分かった気がします」
「ティナ、か」
団長はただ反復しただけだろう。
けれど唐突に彼の口から呼ばれた私の名に、鼓動が早まるのを感じた。
「あ、明日も長い道中ですし、今日はもう休みましょう!」
「そうだな。本当ならもう少しゆっくりしたいところだったが」
「え?」
意外なその言葉に思わず目を瞬かせる。
そんな私の表情に団長が少し照れ臭そうに笑った。
「いや、過ごしやすくて良い土地だなと思ってな。ゆっくり休暇を過ごすのに良さそうだ」
憧れの人に、大好きな領地を褒められて、胸がいっぱいになる。
「そうなんです!何もないと言えば何もないんですが…。でも!ゆっくり過ごすにはとても良い土地なので、幽霊さん騒ぎが落ち着いて、お休みがもらえそうでしたらぜひ…!」
思わず熱弁を奮ってしまった自分に気づき、慌てるのと、ランビック団長が思わず破顔するのはほぼ同時だった。
「いや、笑ってしまってすまない。落ち着いたらぜひまた訪れさせてもらうよ」
「はい…。あの、今日は幽霊さんも絶対出ませんし、ゆっくり休んでくださいね」
先ほどのことが気まずくて思い出したように付け加えたその言葉に、団長は微笑んでくれる。
「ああ、ありがとう。…おやすみ、ティナ」
「はい、おやすみなさい」
そう言って挨拶を交わし、扉が閉まった後にようやく団長に名前を呼ばれたことに気づき。
今度こそ顔が真っ赤になってしまった私は、結局夜がだいぶ更けるまで、気持ちを落ち着かせることができなかった。