色鉛筆の落とし物
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と、内容についての記録の一編。
あなたもともに、この場に居合わせて、耳を傾けているかのように読んでいただければ、幸いである。
せんぱ〜い、ちょっといいですか〜?
突然で申し訳ないんですけど、ポスターカラーの色、何本か借りていいですか? 前の時間で使い果たして、補充するのをすっかり忘れていたもので……。
――美術室に置いてあるものを借りればいいだろ?
え〜、それだとロマンがないでしょう? こうやって別のフロアにいる異性の先輩に、借りものをして助けてもらう……「ひゃあ、もえる!」て奴ですよ! ビバ、異性の先輩後輩関係です!
どうか、哀れな後輩のために人肌脱いでもらえませんか? ……ていうと、先輩はブレザーを脱ぎ始める! そのボケるネタ、読めていますよ。ふふふ。
それじゃ、ありがたく借りていきます! 埋め合わせは今日の帰りにでも!
す、すいません。さすがにギブですよ〜。
まさかこんながっつり系のラーメン屋に来るとは。こ、この私がどんぶりに麺を残すなど……不覚。
――お前の分、食べるけどいいか?
どうせならその言葉、もうちょっとこじゃれたお店で聞きたかったですよ。そしたら、さぞ妄想がはかどったでしょうね。
ええい、お腹ごなしに声出しますよ! 先輩の好きそうな、不思議体験という奴をね。
私が学校で先輩からポスターカラーを借りた理由、実はさっき話したロマン重視だけではないのですよ。
持ち主が判明しているものを、直に借りる。そこに重大な意味があると教えてくれた出来事なんです。
私には、少し年が離れた兄がいます。
兄が高校に受かって一人暮らしを始めた時、私はまだ小学校3年生でした。
兄はかねてよりの希望通り、美術を学べる学校に進学。学校まで徒歩5分足らずの場所に部屋を借りました。
六畳の和室と、四畳半くらいのキッチンがくっついたつくり。お手頃価格だったとか。
「少しでも長く、家で絵の構想を練りたいんだ。通学とかいう無為な時間に、毎日何十分もかけられっかよ。むしろ、学校の方から俺の部屋にこいってんだ」
ひとことでいうと、燃えていましたね。
うちの親は親で心配性ですから、いつ兄が、筆を握ったまま部屋で大往生をしているか、と気が気でなかったようです。かといって、仕事をおろそかにできず、私にしばしば「昨夜の残り物」を持たせて、様子を見に行かせていたことを覚えています。
私の家から兄が住んでいるところまでは、電車で片道30分程度でしたが、小3の私にとってはちょっとした冒険。わくわくしましたね。
兄の影響もあってか、私も自由帳を持参し、よくお絵かきしていましたよ。他にも絵日記の課題が出ると、兄に手ほどきを受けたこともありました。
スケッチブックに見本を書いてくれたこともありまして、私とは雲泥の差です。兄は、画材を持った自分も描く、カメラマンのような視点の絵を好んで描いていましたね。
私は次第に、親から頼まれなくても、兄の部屋に入り浸るようになっちゃいました。
夏休みのある日。私はまた兄の部屋を訪れたんですが、いざ到着して荷物を広げてみると、困ったことに気づきます。
いつも使っている色鉛筆。そのいくつかの色を前回使い果たし、そのままにしていたんです。今も昔も、このザマなんですよ、私。
私は兄に色鉛筆の余りがないか、尋ねましたが、「自分で探せ」と一刀両断。いつもは構ってくれる兄も、学校から出された課題があるらしく、今日は和室に閉じこもり、キッチンとの間をガラス戸で仕切っていました。私も今日は、キッチン側に隔離されています。
兄の性格ゆえか、絵筆や予備のスケッチブックを始めとする画材道具たちが、洗濯機や冷蔵庫の脇や頭の上に、ところ狭しと乗っているのです。今までも兄の監視のもと、何回か拝借したことがありました。でも、自力で探すのは、これが初めて。
私は自分なりに真剣に漁りましたが、なかなかしっくりくるものに合いません。更に、探す音さえ気に障るのか、兄が無言で壁をドン、と叩いてきて、ちょっと涙腺が緩んじゃいました。
そこへ「コトン」と何かが転がる音。
見ると、今まさに必要な色を携えた鉛筆があったんです。その頭の方には、兄のイニシャルが掘ってあります。
「ラッキー!」と思いながらすぐさまそれを使って、絵日記に取り掛かる私。
当時の私は、目立ちたがり屋でした。素直に「兄の部屋に行きました」とは書いてもつまらない。だから、嘘だらけの日記をでっち上げたんです。
その日は、友達のミヨちゃんと一緒に川へ遊びに行ったと、嘘をつきました。それだけでもまだ面白くないので、ミヨちゃんが川の石をどかした時に、はい出てきたサワガニに足をはさまれたとも付け足します。
そして絵は、川の中でカニに左足の親指をはさまれて、泣いているミヨちゃんと、それを見て慌てた顔で駆けよる私の姿を描いたものに。先ほど拾った色鉛筆で、サワガニを黒と赤に染めて完成です。
心なしか、今までの絵よりも上手く描けた気がしました。つい力も入ってしまい、続きのページの何枚かにも、塗った跡が裏写りするほどに。
浮かれた気分で兄の部屋を後にして、家に帰る私。けれども、血相を変えた母親から驚くべき報を受けました。
ミヨちゃんが足を怪我したというのです。サワガニに足を挟まれて。
私はすぐにミヨちゃんの家に行きました。インターホンを押すと、ミヨちゃんのお母さんが出てきて、ミヨちゃんのいる居間へ通してくれました。
左足の親指。そこに白い包帯が巻かれていました。ちょうど私が描いた絵の通りに。
家族で川遊びに行ったら、突然、現れたカニに足を挟まれて、早めに帰って来たんだそうです。
「近くに生き物の気配はなかったのに、油断したかなあ」
ミヨちゃんは笑っていましたけど、私は顔が引きつっていたと思います。お大事にしてね、と伝えて、早々に立ち去りました。
偶然かも知れない。けれども、こんなにタイミングよく起こるものだろうか。
私は帰りの足で、無くなっていた色鉛筆を補充し、家へと戻ります。二度とあの鉛筆のお世話にならないように、と。
それからしばらく、兄の部屋を訪れるのは控えました。また同じような事態に出くわすのはごめんだったからです。私は新しく買った色鉛筆で、引き続き絵日記を書いていきました。
変わらず、嘘の内容も書きました。でも、目立つためじゃありません。ミヨちゃんの怪我が偶然であることを証明するために、わざとやったんです。
けれども、思惑は外れました。晩御飯がそうめんだったのに、カレーだったと日記をつけた翌日には、カレールーのパッケージがゴミ箱の一番上に捨ててあり、朝ご飯が「昨日の残り」だというカレーになります。
ミヨちゃんの足が治ったと書いたら、その日の午後にはミヨちゃんが電話をかけてきて、足が良くなったから今度遊ぼうね、と連絡をくれました。
その日はお父さんが早く帰って来た、と書くと、いつも夜遅くに帰ってくるお父さんが「急遽、早帰りになった」と、玄関の戸を開けて、入って来るんです。
私は怖くなりました。
もし、最初にミヨちゃんがケガをすると書き、実際に彼女が傷ついていなかったら、おそらく私はこの出来事に対して、調子に乗っていたでしょう。次々にヘンテコなことを書き、あるいは取り返しのつかないことを書きつけ、後悔していたかも知れません。
この「奇妙」をどうにかしないといけない。私は翌日の朝早く、親がスペアとして作っていた兄の部屋の合鍵と、自由帳たちを手にして、ことの始まりである兄の家に向かいました。何か助言がもらえないかと思ったんです。
インターホンを押しましたが、兄は出てきません。鍵もかかっていました。
その日は日曜日。まだ眠っている可能性もありましたが、私の気持ちは急いています。合鍵を取り出しかけたところで、不意にドアの向こうから鍵を開ける音。
顔を出したのは兄でした。よく見かけるジャージ姿ですが、すこぶる顔色が悪く、思わず身体を引いてしまいましたね。
けれども今、頼れるのはこの人だけ。私は絵日記の一件を打ち明けました。
見せて欲しいと言われて、私は自由帳一式を渡します。兄は、私が最近書き、内容が実現してしまった数ページを丹念に指でなぞりながらうなずき、今度は箱に入った色鉛筆たちを手に取ります。
鉛筆を一本出すと、兄は「なるほど」とうなずきました。私が「何か分かったの」と尋ねると彼は答えます。
「いや、お前が盗みをしていたことが分かった」
兄が鉛筆の頭を、私の目の前に突き出します。そこには、あの日見たものと同じ、兄のイニシャルが刻まれていました。
「そんな」と思わず、口に出してしまいましたね。確かに私はあの時の鉛筆を手放し、自分の手で買い換えたのですから。しかし、兄は聞いてくれません。
「こいつは返してもらう。元々、俺のものだからな。落としちまった物を、拾ってくれたことに関しては、礼を言っとくぜ」
和室の中へ消えていく兄。追おうとする私の鼻先でガラス戸が閉められ、したたかにおでこをぶつけてしまいます。
痛みにふらつきながら戸を開けると、そこにいるはずの兄は、いませんでした。ただ、部屋の真ん中のテーブルの上には、一冊のスケッチブックが開きっぱなしになっています。
それを覗き込んで、私は息を呑みました。見開きの2ページに渡って、絵が描かれていました。それぞれのページにいるのは、二人の兄。
右側のページの兄は、うつぶせに倒れながら、コンクリートでできた道路を血で染めています。
左側のページの兄は、ちょうどこの部屋のベランダから見下ろすようにして、右側のページの事故の様子を、スケッチブックに書き留めています。その手には、先ほど私から取り上げたものと、うり二つの色鉛筆セットを握りしめて……。
遠くから救急車の音が迫って来るのが聞こえました。
搬送されたのは、近所のコンビニに朝ご飯を買いに行き、ワゴン車にはねられた兄。
その事故現場は兄が流した血で、真っ赤に染まっていたんです。あのスケッチブックの中と同じように。