反転:春の目覚め
秋人が春の目覚めと名付けた出来事に遭ったのは、五月に入ろうとしている頃のことだった。
硬直した指先で挟んだハガキの両面を何度も見返したのは、現実の中にいることが信じられなかったからなのかもしれない。次の停留所のアナウンスが流れ、あわや乗り過ごしてしまうというところで秋人はボタンを押してバスを降りた。秋人を現実に引き止めたのはアナウンスの音であり、また車内から見えたある風景であった。それはごく平凡な、川沿いの道だった。秋人は自然と、ある日の出来事を思い返していた。
それは、桜の咲き誇る春の麗らかな日のことだった。
秋人は春日と吉野の二人と、誰から誘うともなく春の散歩に出かけることにした。尋常な、何でもないような春の散歩に。
三人は大学で待ち合わせると、坂を下って国道を横切り、踏切を越えて川に面した遊歩道に出た。いつか見た日のように、子供から大人までもが桜を見上げて、その先の青空に浮かぶ大輪の光を浴びていた。途中、紙風船で遊んでいる子供を見かけて、秋人は何とも言えない気分にさせられるのを感じた。どんな気分なのか、それを解剖するよりも早く吉野が口を開いた。
「ねえ、あれ」
そう言って彼女が指差したのは、川面に浮かんだ桜の舟だった。その舟は灯籠流しの夜を思い起こさせるものがあり、秋人は実際に自分の目で見た覚えがないものをどうして思い起こしたのか、分からなかった。さっきの何とも言えない気分に繋がるものがあるのではないかと思い至った瞬間に今度は春日が言葉を発し、せっかく掴みかけていた何ものかが霧散した。
「写真、撮ろうよ」
三人は思い思いの道具を取り出した。吉野は最新型のスマートフォン、春日はよく使い込まれた一眼レフカメラ、秋人は数年前に買ったデジタルカメラを手にした。春日は楽器や車や酒など様々な物事に興味を持てる男で、写真もその一つだった。そして、広範で旺盛な好奇心を支えきれるだけの財力があった。もちろん、父母の財力ではある。しかしそうした背景を持っていることが彼の魅力に影響していることは間違いのないことで、秋人はそうしたところに対して、持たざる者の嫌悪を抱いたりもした。所詮、親の力ではないか、と。ただ、嫉心と好意とが並立し得るのは言うまでもないことで、少なくとも秋人にとって彼は良い友人だった。彼は気持ちの良い性格をしていて、嫌味なところがなく、酒を酌み交わしても崩れることがないので、よく他の友人を含めて何人かで飲み歩いたりすることもあった。
ただ、そうした交友関係は単純明快なものではなく、複雑に折り重なっているところがあって、秋人と春日は近しいグループに属しているわけではなかった。彼ら二人を繋いだのは、今も二人の間に立っている紅一点の吉野だった。……
二つのシャッター音が、秋人の意識を現実に呼び戻した。吉野と春日に続いて、秋人も桜の様子を写真に収めた。そして三人は何事もなかったかのように、またぶらぶらと歩き始めた。
吉野を挟んで歩きながら、秋人は置き忘れた何かを探すようにして、この三人で目的もなく歩き回るようになった経緯を回想し始めた。
秋人と吉野は大学でとある講義を受けたときに偶然隣同士になった。座席は決まっていないからどちらかが気まぐれに座る場所を変えようとすれば千切れてしまうような関係性だった。二回目、三回目と回を重ねても二人は決められたかのように同じ座席に座り続け、自然と交流が生まれていった。彼女はよく一人で街中を歩き回るのが好きだと言った。彼女の口から漏れ出した好きという言葉、初めて出会った彼女の好きという言葉に、秋人の意識が注がれた。それでつい、自分も街中を歩き回るのが好きなんだと言ってしまった。それが、第一の段階だった。
その翌週、二人は駅前で待ち合わせて街中を歩き回ることにした。秋人にとっては女性と二人きりで個人的な時間を過ごすことは実に久しぶりだったので、舞い上がる気持ちを抑え込もうと努めた。その、過度に抑制的な態度が彼女の目にどう映ったものかは分からないが、このときの街歩きは失敗に終わった。予期せぬ通り雨に遭ったためだった。秋人の真っ白な靴が泥水に汚されてしまうほどの激しい雨で、二人の衣服も荷物もずぶ濡れになり、秋人はそれからの三日間を風邪と同衾して過ごした。都会の狭苦しい部屋の天井を見つめながら、秋人は始まりかけた何かが終わってしまったことを嘆いた。そんな秋人が次の講義に出たとき、思いがけず出会ったのは二度目の街歩きの誘いだった。
二人の街歩きは秋から冬にかけて続いていった。秋人はやはり抑制的な態度で、吉野は自然な態度で、街歩きを楽しんだ。そんな、二人だけの楽しみにいつしか春日が加わるようになっていた。その経緯を秋人はもう覚えていない。何故なら、春日が加わったことも重要であったが、そのことによって認めた自分自身の強い気持ちに胸を打たれたからだ。秋人は、吉野を好きになっていた。
「あーっ!」
行き過ぎたところから聞こえてきた声に吉野と春日が振り向いた。秋人も遅れて振り向き、川に飛び込もうとするほどの勢いで水面を叩いている少女が声を発したのだと気付いた。桜の舟に乗って紙風船がこちらへと流れてくるのを見て、秋人は何事が起こったかを知ったが、しかしそうしたところで何か行動に出ようとはしなかった。川幅が広いので水の流れは遅く、また特別に水深があるようにも見えなかったが、紙風船を取り戻すには足元を濡らす勇気が要った。
一つの風景としてその様子を眺めることが秋人にとって唯一の選択肢だった。しかし選択肢は、この世界に生きている以上は限りなく存在するものであった。
春日が何事かを言って荷物を吉野に預けたとき、秋人はそこに黙契を見た。他の選択肢があると気付いたときには、世界はもう次の段階に入っていた。
川に入って春日が紙風船を取って戻ってくるまでの間、吉野は少女を宥めていた。紙風船はきっと駄目になってしまうだろうが、その虚ろに込められた少女の思い出を流してしまうわけにはいかないのだと、吉野はそんなことを言った。その価値観を春日が共有していることは言うまでもないことで、秋人はそこから外れたところに立っていることに気付かされた。否定ではないが、しかし肯定でもない。そんな微妙な距離にいて、秋人の靴はまだ真っ白なままだった。
それからどのくらい経っただろう、秋人はいつかどこかの春にいた。その出来事が昨日のことのようにも思えたし、もう何年も前のことのように思えた。けれどハガキだけは残酷で、吉野が姓を改めたことを秋人は春の目覚めと名付けた。