新婚状況
腕に一冊の本を抱えたわたしは、新居の居間に足を踏み入れた。
真新しいソファーに腰を下ろす前に、後ろを歩いていた侍女に話しかける。
「お願い。フィルが帰って来たら、すぐに教えてちょうだい。フィルがこの部屋に来る前によ」
真剣な顔で言うわたしに、彼女は心得ているとばかりに深く頷いた。
「わかっておりますわ、奥様。ちゃんとエントランスを張っておきますから、ご安心なさってください」
自然に告げられた奥様、という言葉にわたしはむず痒さを覚えた。
毎日言われているのだから、そろそろ慣れてもいいはずだけれど、今までわたしにとってそう呼ばれる存在というのはお母様のことだったから、長年の刷り込みのせいでどうしても違和感が拭いきれない。
でも別に、そう呼ばれるのが嫌なわけじゃない。
本心を包み隠さず吐き出すならば、むしろもっと呼んでほしいかもしれない。
だって彼女たちが口にする「奥様」という言葉はつまりは「フィルの奥様」という意味なのだから。
初めて呼ばれた時にそう思い至って、心の中で悶えまくってしまったことは誰にも言わないでおくことにしている。我ながらこの新婚という状況に浮かれているようで恥ずかしい。
ただこの奥様というのは、使用人たちにとって女主人という意味になるのだけど、彼らはこの屋敷の家庭の力関係はフィルが上だと判断しているようで、基本的にはフィルを第一に考えて行動する。
当然の判断ですし、わたしは家庭内の権力者になるつもりは毛頭ないのでそれでいいのですが。
ただし例外は必要です。常にわたしの味方でいてくれる侍女という存在はなくてはなりませんわ。
今のようにわたしがフィルに隠れて何かをしたいと思えば、彼女を頼ればいいのですもの。他の人では困った顔で感心致しませんと言われるかもしれない。
「いえ、そこまでしなくていいのよ」
「でも今日はいつお帰りになられるのかわからないのでしょう。用心するに越したことはありませんわ」
同年代だというのにとてもしっかりしている彼女は、任せろと言うように胸を張る。本当に頼りになるわ。
「・・・ではお願いしようかしら。辛くなったら言ってちょうだいね」
「かしこまりました。でもどうぞ気兼ねなくお楽しみくださいね」
「ふふ、フィルが留守でなくてはこれは楽しめないものね」
「ええ、その通りですわ」
二人してイタズラをしようとしている子供のような顔で笑い合う。大袈裟な言い方をしているだけで、単に仲のいい女主人と侍女という立場に浸りたいだけですわ。だってそういうものに憧れていたんですもの。
でもこの時はタイミングが悪かった。
思いもよらぬほど近くから、とても聞き慣れた声が届く。
「何の話しをしているんだ?」
部屋の入り口で壁にもたれ掛かるようにして立っているフィルがいた。
少なくともたった今ここに来たわけではないという体勢で、わたしは大いに慌ててしまった。
「フィ、フィル?! もう帰って来ましたの!」
どもりながら手に持っていた本をさっと背中に隠す。怪しさ満点のこの行動に、フィルはどう反応すべきか迷っていたような表情をムッと険しくさせた。
やっちゃいましたわ。目の前で隠してどうしますのよ。せめてさりげなく視界から外すべきでしょう。
「・・・何を隠したんだ?」
にこりと笑いながら静かな声で尋ねられる。はい、怒っていますわね。
でもここであっさりコレを差し出せるなら、初めから隠していませんわよ。だからといって隠し通せるわけもありませんけど。
「ええっと」
往生際悪く言い訳を考えようとしたわたしを見て、フィルは無言で動いた。大股で歩いて来て、わたしのすぐ隣に立つ。早っ。
「あっ」
気がついた時には背中に隠していた本を取り上げられていた。
わたしの手が届かないように高く本を掲げながら、フィルは表紙の文字を確認する。
するとあからさまに怒っている笑顔という器用な顔をしていたフィルが、そこから怒りだけ抜け落ちた奇妙な顔になった。
何か言いたげに見下ろされて、いろいろなものを誤魔化すために笑って首を傾げる。
とても大きなため息を吐かれた。
「・・・まだこんなものを読んでいるのか、君は」
「読んでいるだけですわよ!」
本の表紙に印刷された文字は『後宮』。はい、国王の妃や側室である女たちのドロドロとした戦いを描いたアレです。最近二年ぶりに新章が刊行したのですわ。読まないわけにはいきません。
「これと同じことをしようだなんて思っていませんわ。ただ読んで楽しんでいるだけですわよ」
わたしは力を込めて自分の無罪を主張した。喧嘩を売られてもそれを楽しむようなことはもうしていないし、今後するつもりもありません。わたしがしているのは純然たる読書です。
そう言って何気なさを装いつつ本を取り返そうと手を伸ばせば、フィルは下ろしていた腕をまた上げて遠ざける。
「没収だ」
「ええっ?!」
わたしは驚きの声を上げた。
こうなることを恐れてコソコソ読んでいたわけですけど、まさか本当に没収までされるとは思っていなかった。
「コレは君にやたら悪影響を与えている気がする」
「そんなことありませんわよ。とても参考になりますわ。もしも夜会で意地の悪いご夫人方に目を付けられた場合の対処法ですとか」
「まさに! 同じことはしないんじゃないのか!」
「喧嘩は買いませんし、売りませんわ。でも売られた時に上手くあしらいつつ、やり込めなくてはいけませんもの」
「それならむしろコレを参考にするな!」
わたしの言い分にフィルはもっともな反論をする。説得があっさり失敗したので、わたしはとにかく本を取り返そうとした。
「返してちょうだい。今とてもいいところなのよ。第三妃が正妃の横暴を国王に訴えたのに、そのせいで自分が第二妃を毒殺しようとしたことが知られて、自分付きの女官に罪をなすりつけようとしているのよ」
「えげつないな」
背伸びをしてフィルの肩にしがみつきながら手を伸ばすも、当然ながら平均身長のわたしでは背は高いほうであるフィルに敵うはずもない。
「こんなの序の口ですわ。実はその女官は彼女たちが争っている隙に、妃たちの諍いに疲れていた国王を従順さを装って優しい言葉で懐柔していたから、第三妃の主張が通るはずもなく、むしろ妃の位を手に入れた女官の下剋上が始まりそうな予感なのよ」
「ドロドロすぎる!」
「そこがいいのですわ!」
わたしは声を大にして言い切った。
フィルが脱力したので、再び背伸びをして本を奪い返そうとしたのに、またしてもさっと避けられる。
「か、え、し、て」
「駄目だ」
ギリギリと本をかけた力業な攻防が始まる。
おかしいわ。そろそろ折れてくれてもいいはずなのに。
わたしは何か変だと感じて、フィルの顔を覗きこんだ。
「フィル・・・もしかして怒ってますの?」
「・・・当たり前だろう」
とっくに怒りは呆れにとって変わっていると思っていたわたしは驚いた。
「せっかく予定を早く切り上げられて家に帰ってきたというのに、結婚したばかりの妻は夫が家にいないほうがいいようなことを言って、挙げ句にもう帰ってきたのかなんて口にするんだからな」
「うっ・・・!」
確かにそう捉えられてもおかしくはない言動をしていた。改めて聞かされて自分の酷さに胃が痛む。本の内容は問題じゃなかったわ。
「違いますわよ! そんなつもりで言ったわけではありませんわ。あれは何と言うか、冗談のようなものですわ」
本当に早くには帰ってきてほしくないのだと思われてしまってはたまらない。わたしは必死になって弁明した。後ろで侍女が援護するようにコクコクと何度も頷いてくれている。
「へぇ」
フィルはあまり信じていなさそうな、気のない返事をした。
疑っているわけではなくて、きっとそう簡単には機嫌を直すつもりがないのだわ。
さっきだって本を没収するだなんて、フィルにしてはやり過ぎな行動も、ただ不機嫌になっていただけなのよね。
「早く帰ってきてくれたほうが嬉しいに決まっていますわ。いないほうがいいなんてことあるわけないでしょう」
素っ気ない態度を取るフィルの腕を掴んで揺さぶる。わたしは自分が言われたら傷つくとわかっていることを言った自覚があるので、かなり下手に出た。
「フィル、本当に違うから、機嫌を直してちょうだい」
困りきった顔をすると、フィルはわたしのほうを向いてじっと見つめてきた。
「・・・アイリーン、俺がどうしたら機嫌を直すかなんて、知ってるだろ」
真顔で何やら含みのある言い方をする。どういうことかと首を傾げると、フィルが同じように首を傾けた。
その顔を見て、言葉の意味を理解する。ジワリと頬が赤くなった。
多分、わかる。どうすればフィルの機嫌がよくなるかは。そしてフィルがそれをしなくては許すつもりがないのだということもわかった。
わたしは背後をチラリと窺った。侍女はいつの間にか姿を消している。なんて素早い。
別に理不尽な要求をされているわけじゃない。むしろそれくらいで許してくれるなら優しいと、友人たちなら言いそうだった。
仕方なく覚悟を決めて、わたしはフィルの上着を引っ張った。
顔の熱が引かないまま、腰を屈めるフィルの顔を見ていると、口元がほんの僅かに緩んでいた。
この人、既に機嫌が直っているのじゃないかしらと思わないでもなかったけれど、それを指摘するわけにもいかない。わたしは両手で包むようにフィルの顔に手を添えた。こうしないとまだ距離感が掴めないから。
緊張で少し心音を大きくしながら、自分から顔を近づけて唇を重ねた。触れるだけのキスをしてから閉じていた瞼を開けると、フィルと目が合う。
思わずさっと顔を逸らした。いつから開けていたのだと聞きたいけど、声が出てこない。するとククッと楽しそうな笑いが聞こえてくる。
「なんで今更これくらいのことで、そんなに恥ずかしがるんだよ」
すっかり上機嫌になったフィルがからかうように言った。
「う、うるさいですわ!」
フィルの腕をバシッと叩きながら、わたしは更に顔を赤くさせて叫んだ。
最後までお付き合いくださいまして、ありがとうございます。