ブリジットの恋 4
ウエストロードから帰って、明日家に行ってもいいかというお伺いの手紙をブリジットに送ろうとしたところで、彼女のほうから手紙が届いた。
内容も明日訪問してほしいという、わたしと全く同じ用件だったから、すぐに了承の返事を書く。コレットも呼んでいるらしいから、前回のように三人でのお茶会になるのでしょうけど、ブリジットがただおしゃべりがしたくて呼んだわけではなさそうで心配だわ。
今すぐにでも行きたいところだけど、もう予告なしに訪ねていい時間じゃない。
ジリジリしながら夜を明かしたわたしは、その日の昼食を終えるとすぐに家を出た。
ブリジットの家までは少し遠いから、早すぎるということもないはずだわ、多分。
そうして約一日ぶりに顔を合わせたブリジットは、明らかに泣いていたのだとわかる赤い目をしていた。
「ブリジット、あの・・・」
失恋したのだと思い込んでいるのだと思った。でもそうじゃないのかもしれないと説明したい。ただどう言えばいいのかわからなくて、わたしはまごついた。
「いいのよ、もう。今日は愚痴に付き合ってほしかっただけ。気を使ってくれなくてもいいわ」
表情とは裏腹にブリジットの口調はさっぱりとしている。わたしは彼女が座っている三人掛けのソファーに並んで腰かけた。
「それって諦めるということですの?」
「・・・アイリーンも見ていたでしょう。あれだけ他の人との結婚を熱心に薦められたら、これ以上食い下がることなんてできないわよ」
「でもそれはベイクウェルさんがご自分の身分に負目を持っているからではありませんの?」
ブリジットに対する気持ちが全くないからではないはずですわ。
「わたしも初めはそう思っていたわよ。姉妹の中でもわたしのことを特に気にかけてくれていたように見えたし、好意を向けても困っているポーズをしながら照れていたんだもの。大丈夫なんじゃないかって思うじゃない。でもきっと拒絶しにくかっただけなんだわ。わたしの勘違いなのよ」
俯きながら話すブリジットは酷く落ち込んでいるように見える。
そんなことはないと言いたいけど、確証がないから無責任な慰めなんて口にできない。
「でもまだそうと決めるのは早いかもしれませんわよ」
「これ以上がんばれと言うの? 十年近くがんばってきたっていうのに」
恨みがましい目を向けられて言葉に詰まった。
言えるわけがありませんわ。わたしだって好きな人が自分のことを好きではないのだと思っていたら、拒絶されているのに何度もアプローチなんてできませんわよ。
でもブリジットが長い間ずっと抱えていた想いなんですもの、成就してほしい。わたしにはまだ可能性があるように思えてしまうから。
簡単にそんな人はもう忘れて新しい恋をすればいいと言えない。
わたしがとても困った顔をしていると、ブリジットは少し笑った。
「本当にいいのよ。ちょっと目が覚めたわ」
「え?」
「自惚れてたのよね、結局。わたしみたいなこんな濃い赤毛のそばかすもあってお淑やかでもない女を好きになってくれる男性なんてそうそういるわけがないのよ。それなのにきっと大丈夫だと思っていたなんてね」
「ブリジットはお淑やかじゃなくても可愛いですわよ。髪だって綺麗な色ですし、そばかすももうそんなに目立たなくなっているではありませんの。そんな外見だけ気にする男性ばかりではないでしょう」
「外見だけじゃないわ。気が強いとも言われるもの。これでも良家の娘なのにね」
「しっかりしているだけですわよ」
普段はほとんど口にしないネガティブ発言がどんどん出てきてしまいましたわ。本人は冷静なつもりでも、暗い思考に嵌まっているのではないかしら。
「やっていることもよく考えれば酷かったわよ。ハロルドさんが家に来る度に忙しいのか聞きもしないで引き止めようとしたり、買い物の予定なんてないくせについでに送ってほしいと言って馬車に乗り込んだり」
「たまにしか会えないなら、それくらい酷くなんかありませんわよ」
「わたしだって男なら、こんな女は嫌よ」
「わたしは好きですわよ!」
段々聞いているのか怪しくなってきたので、わたしは大きな声で言った。
するとようやくブリジットは口を閉ざす。自嘲するような表情が、子供みたいな頼りないものに変わった。
「わたしも好きよ」
突然、別の声が聞こえてきた。顔を上げるといつの間にかコレットがいる。
彼女はわたしとは反対側のブリジットの隣に腰かけた。そして珍しく怒った顔を見せる。
「まったく、見る目のない男性だわ」
慰めるためではなく本気で怒っていたからか、ブリジットは気が緩んだらしく、小さく笑い声を漏らした。
「そんな人、早く忘れちゃいなさい。生涯独身になって後悔すればいいのだわ」
コレットはどこから聞いていたのか、相手がつまらない理由でブリジットを振ったのだと思ってしまっているようですわ。
「ふふ・・・そうね。そうよね」
ブリジットが同意してしまったわ。
「そうよ。ハロルドさんだって全然モテないじゃない。かっこよくないし、三男だし、もうおじさんだし」
「まあ、それなのにブリジットじゃあ不満だっていうの。いい気なものね」
「全くだわ。あの年で選り好みなんてするんじゃないわよ」
「それは本当にずっと独身になるわ、きっと」
話の行方がおかしな方向へ向かっている。なぜだかベイクウェルさんの悪口の言い合いになっていますわ。
別に選り好みをしているわけではないと思うのですけど、ここで彼のフォローに回るのは、気分が浮上してきているブリジットに水を差すことになりますわよね。まあ、ベイクウェルさんは少しぐらいボロカスに言われてもいいと思いますわ。ブリジットをこんなに悲しませているのですもの。
わたしは悪口に参加しない代わりに止めもしないことにした。ブリジットはどんどん白熱していく。
「弁護士なのに普段は口数が少ないし、優柔不断なところがあるし」
「紳士はユーモアと決断力がなくちゃくけないわよね。デリックみたいに」
コレットが最後にボソッと惚気を付け加えた。ハルトンさんにユーモアがあるなんて初めて知りましたわ。
「ユーモアなんてないわ。かといって堅物でもないし、もう何なのよ」
言っているうちに腹も立ってきたみたいですわ。
「あの人がはっきりしないのが悪いのよ。その気がないなら好意を抱いている娘に優しくなんてするものじゃないでしょう。そんなの勘違いさせようとしているようなものじゃないの」
さっきまでは自分に非があるかのような言い方をしていましたけど、一転してベイクウェルさんが悪いことになりましたわ。
でもこれにはわたしも同意します。
「その通りですわ。優柔不断すぎますわよ」
「女性に勘違いさせて振るなんて、酷すぎるわ」
力強くわたしとコレットは頷く。ところがブリジットはすっきりした顔をしたかと思いきや、また頼りない表情になって俯いた。
「そうよね・・・。確かにそうなのよ・・・。でも、いいところだってあるのよ」
今日のブリジットは感情の起伏が激しい。驚いているわたしを余所に、コレットはそう言い出すのがわかっていたみたいな優しい顔をして言った。
「どんな?」
「誰にでもほとんど態度を変えないところとか・・・。昔ね、ハロルドさんがウチに来るようになったばかりの頃、忙しかったのかスーツの皺が目立っていた時があったの。だらしないと思ってわたし言ったのよ。『ちゃんとメイドにしっかりアイロンをかけるように言い付けなきゃダメよ』って」
ブリジットはふふっと笑った。
「すごく生意気で偉そうな子供だったと思うわ。普通は小さな子供にそんな口の聞き方をされたら腹が立つわよね。でもハロルドさんは笑ったの。笑って『ありがとう。ブリジット嬢はいい奥さんになるな』って言ったの」
当時のことを思い出すようにブリジットは目を細めた。
「もうどんなのか忘れてしまったけど、その時の笑顔を見て、わたしがこの人の奥さんになるって思ったのよね」
わたしとコレットは顔を見合わせた。
悲しそうに微笑んでいるブリジットは今でもそうなりたいと願っているようにしか見えない。未練とかではなくて、気持ちの区切りなんて少しもできていないのだわ。この部屋に入って来た時に言っていた「もういい」なんてことは全然ないのよ。
やっぱりここで諦めるべきじゃない。
これ以上がんばれとは言えないけれど、諦めることはやめるべきよ。
「ねぇ、ブリジット・・・」
「やだ、わたしったら!」
ブリジットは急に慌てたように立ち上がった。
「まだお菓子も用意していなかったわね。ちょっと待っててちょうだい」
口を滑らせてしまったと感じているのか、誤魔化すように早口でしゃべる。そして呼び鈴があるというのに、わざわざ部屋を出て使用人を探そうとした。
「ちょっと、ブリジット・・・」
「きゃあっ!」
呼び止めようとしたところでブリジットが悲鳴を上げた。扉を開けてすぐの場所で口に手を当てて固まっている。
何事かと思ってコレットと駆けつけると、ブリジットの視線の先にいるのはベイクウェルさんだった。
わたしもつられて固まってしまう。まさか昨日この家に来ていたはずのベイクウェルさんが今日も訪問しているだなんて予想していなかった。彼の顔を知らないコレットだけがブリジットと彼を交互に見ている。
「ど、どうしてここにいるのよ」
「いや、その・・・」
ベイクウェルさんも動揺しているのか、かなりしどろもどろになっている。でもそれが感情が不安定になっているブリジットには気に食わなかったのか、キッと睨みつけた。
「もう、本当になんなのよ! せっかく諦めるって決めたのに、どうしてこんな時に現れるのよ!」
まさしくどうしてこんな時にだわ。仕事なら仕方がないのでしょうけど、タイミングが悪すぎるわよ。
「用が済んだらお帰りくださいね! わたしはこの部屋から出ないことにしますから!」
ブリジットは顔を見たくないとばかりにそう言って、部屋に引き返そうとした。
「ちょっと待ってくれ!」
かなり慌てた様子でベイクウェルさんが引き止める。ブリジットはビクッと体を揺らせて立ち止まった。
「君は・・・その・・・もう、私のことがどうでもよくなってしまったのか?」
恐る恐る尋ねるベイクウェルさんに返されたのは沈黙だった。シンと辺りが静寂に包まれる。
それをどういう意味で捉えたのか、彼の顔色が青くなっていった。
ただわたしにはブリジットがとても怒っていることがよくわかった。拳を震わせながら彼女はゆっくりと振り返り、恨めしそうにベイクウェルさんを見る。
「あなたはわたしを馬鹿にしていますの?」
「え? いや・・・」
更に動揺したベイクウェルさんが言葉を詰まらせる。
「どうでもよくなったですって?! よくもそんなことが言えますわね! 昨日の今日でそんなに簡単になくなってしまうくらい、軽い気持ちだと思っていましたの?! そんなに簡単なら、もうとっくの昔になくなっているわよ。いつから好きだったと思っているのよ!」
ブリジットは怒りが爆発したように畳み掛ける。
泣きそうな顔で責め立てられたベイクウェルさんのほうは、ハッとして目を輝かせた。期待するようにブリジットを見る。
「それなら・・・」
「何をしているんだ、ブリジット」
ベイクウェルさんの声に被さるように、いきなり渋くて大きな声が聞こえてきた。
誰かと思えばベイクウェルさんの背後に背の高い赤毛の、髭を生やした男性が立っている。
ブリジットのお父様でこの屋敷の主である伯爵ですわね。
彼は呆れたようにブリジットを咎めた。
「何だ、さっそく喧嘩をしているのか? 全く仕方のない娘だ」
「え?」
ブリジットは意味がわからないという顔をする。わたしも何がさっそくなのかわかりませんわ。別に会う度に喧嘩をしていたわけではないでしょう。
「すまないね、ベイクウェル。こんな娘で。愛想を尽かさないでやってくれるか」
「そんな、とんでもありません」
ベイクウェルさんはブンブンと首を振った。
「ブリジット、せっかくお前のような気の強い娘を嫁にほしいと言ってくれているんだ。つまらない理由で癇癪なんて起こすんじゃないぞ」
厳しい顔をして放たれた伯爵の言葉に、わたしとブリジットとコレットの三人はポカンとした。
嫁とはどういうこと。
まるで伯爵はブリジットとベイクウェルさんが結婚することが決まっているかのような話し方をする。でもそんな事実はないはずよ。少なくともブリジットは知らない。
「では私はこれから出掛けなくてはいけないから、失礼するよ」
大きな謎を残して伯爵はあっさり去って行った。
わたしたちの視線がベイクウェルさんに集中する。きっと全員が説明してと目で訴えているわ。
「その・・・ますば伯爵に求婚の許可をいただくのが筋かと考えたんだ」
相当気まずそうな様子で、ベイクウェルさんが弁明するように言う。
「求婚・・・」
確認のつもりでわたしはその単語を繰り返した。
上流階級の結婚というのは、まずは親の許可がなければできませんから、男性は本人よりも先に父親か後見人にその旨を打診しなくてはいけませんわ。
つまりその話を先程伯爵にしていて、許可をもらったということですの。昨日、夜会でもっといい相手を見つけろと言っていた彼が。
不可解な眼差しが送られるなか、彼は覚悟を決めたように表情を引き締めた。
「ブリジット嬢。今まで酷いことを言って申し訳なかった。ただ私は本当にそれがあなたの為になると思っていたんだ。こんなドレス一着仕立てるのにも苦労するような、年を取った男と結婚しても苦労するだけだと」
「・・・わたしドレスぐらい自分で仕立てられるようになるつもりでしたわ」
ブリジットはベイクウェルさんをじっと見つめながら呟いた。彼が何を言うつもりなのか、息を詰めるように窺っている。
「そうだね。あなたはそれぐらいのことは抵抗なくできてしまうんだろう。私が侮っていたんだな」
苦笑したあと、彼は痛みに耐えるような顔をした。
「今年に入ってから私はずっとあなたに夜会に出るように言っていた。でもあなたはずっと聞く耳持たなかったな。本当にそうした方がいいと思っていたはずなのに、どこかでそんなあなたに安心していたんだ。だから昨日、私のことを諦めると言われてとても衝撃的だった。馬鹿みたいな話だが、覚悟がないのは私のほうだったんだな」
ベイクウェルさんはゆっくりと歩いてブリジットの前で止まった。
「ブリジット嬢。こんな男だがどうかもう一度チャンスを与えて貰えないだろうか」
真剣に見つめられてブリジットは顔を真っ赤にさせた。みるみる瞳が潤んでいく。
諦めると決めたばかりのブリジットにこんなことを言うなんて遅すぎる。
彼の願いを聞き入れるも突っぱねるもブリジットの自由だった。
黙ったまま何も言わない彼女を、ベイクウェルさんは根気強く待つ。
やがでブリジットは小さな声で答えを出した。
「プロポーズなら、もっとちゃんとしてください」
「あっ、ああ、そうだな」
ベイクウェルさんはかなり慌てて頷いた。それから周囲を気にするように視線をさ迷わせる。
コレットがわたしの肩をつついた。振り返ると身振りで帰りましょうと言っている。
つい見入ってしまいましたけど、確かにお邪魔だわ。
ここまできたらもう心配しなくても、上手くいかないはずはないわよね。
わたしとコレットはがんばってねという意味を込めてブリジットに笑顔を向けてから、その場を後にした。
後日、正式に婚約したという報告を恥ずかしそうに笑うブリジットから受けることになる。