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カントリーハウスにて 3

 屋敷の中に入って、わたしはとにかく自分の客室に向かった。

 後ろからメイドが小走りに追いかけて来る。

「お嬢様! お嬢様、よろしいのですか?」

 彼女はいくら婚約者の弟で昔からの顔馴染みだろうと、公爵家の息子に手を上げたりしていいのかと言いたいのだろう。

 そんなのいいわけがない。どう考えてもあれはわたしのやり過ぎだった。

 でもそれなら謝るべきだという当然の結論には、嫌だという答えしか持っていない。

 だってわたしのやり過ぎだとしても、ジェームズが酷いことを言ったのだという事実は変わらない。わたしから謝ってしまえば、あの言葉を無条件に許すことになりかねないじゃないの。

 だから放っておけばいい。

 いえ、それでいいわけがない。

 ぐるぐると纏まりのない考えが頭をよぎっていく。

 それに気をとられていたせいだった。

 前方に注意を向けていなかったから人影が見えていなかった。ドンッと誰かにぶつかって、驚いて顔を上げる。

 かなり焦ったけど、そこにいたのはフィルだった。

「アイリーン?」

 フィルは一体どうしたのかというような顔でわたしを見ていた。今のわたしはきっととても情けない表情をしている。

 甘えたいという気持ちと罪悪感がせめぎ合っていた。つい昨日にわたしが大人にならなくてはいけないと思っていたのに、この体たらくなんて。

「・・・ジェームズをひっ叩いてしまいましたわ」

 本当はちゃんとわかっている。ジェームズ相手にムキになってはいけないことくらい。

 今回はいつもより少し酷いですけど、彼は嫌なことがあったり気が立っていたりすると、わたしやフィルにきつい言葉を浴びせる。それは珍しくもないこと。

 そして後になってとても気まずそうな顔をするのよ。ジェームズは別にフィルのことが嫌いなわけではなくて、コンプレックスを拗らせているだけだから。

 でもそんな顔をするくらいなら、始めから言わなければいいのにと余計に苛立ってしまう。

 フィルは怒る時は怒りますけど、基本的に弟たちには甘いせいで、それだけで許してしまっていますけど。わたしはジェームズにはあまり優しい気持ちにはなれない。

 頭の上にぽんと手のひらが置かれた。

「アイリーン、ジェームズが悪いのなら、怒ったっていいんだ」

 心配そうな声だった。

 そんな風に言われたら、じゃあ怒るわなんて言えるわけがない。

 やっぱりこれから同じ家に住むことになる人にあんな態度を取るべきじゃなかったわ。

「いえ、ひっ叩いたのはよくなかったですわ。後で謝らなくてはいけませんわね」

 力なく笑うと、フィルは口を開いて何か言いかけた。でもその言葉は飲み込むようにしてフィルの中に消えていって、ただ「そうか」という返事だけが出てくる。

「ちゃんとやりますわよ」

 結局喧嘩になるのではないかという疑惑を持たれているのかしら。

「ああ、でも無理に我慢する必要はないからな。酷いことを言われたのなら、俺に言えばいい」

「これくらいのことでフィルが仲裁なんてしなくてもいいですわよ」

 大したことではないのだと証明するように、軽い口調をした。

 今度はフィルも何も言わなかった。



 でもそうは言っても、すぐに謝れるほどわたしは思考の切り替えが早くない。

 それに正直なところ、必要性があるから謝るという結論に達しただけで、やっぱりわたしだけが謝るというのは割に合わないと思っている。

 嫌になったわけではありませんけどね。やり過ぎたことだけは本当にそう思っているので、そのことについてだけ謝ればいいですわ。明日にでも。

 とそこまで考えたところで、わたしははたと気がついた。

 そういえば今日のお昼に小父様が戻って来るのでしたわ。

 もしわたしとジェームズがギスギスした空気を作っていて、小父様がそれに気づいてしまったら。せっかく結婚式の準備のために早くに呼んでくださったのに、すごく申し訳ないですわよ、それは。

 明日なんて言っている場合ではありませんわ。仕方ありません。面倒ですけどすぐにでも話をしなくてはいけなくなりました。

 ジェームズはどこにいるのかしら。もう部屋に戻っているのなら、わたしが出向くわけにはいきませんわね。女性が男性の部屋になど行けませんもの。

「お嬢様」

 長い廊下を考えごとをしながら歩いていると、公爵家の従僕に呼び止められた。

 この家には娘がいないせいか、ここの使用人たちはほとんど皆わたしのことをお嬢様と呼ぶ。

「なあに?」

「ジェームズ様が話をしたいと仰っています。宜しければ今から回廊ギャラリーまでお越しいただけますでしょうか」

 わたしはびっくりして従僕の顔をまじまじと見てしまった。

 喧嘩をした後にジェームズの方からわたしと話をしたがるなんて初めてのことではないかしら。もしかしたら腹を立てての呼び出しかもしれませんわ。

 それだと謝るのがもっと憂鬱になりそうですけど、でもジェームズの性格を考えると違うのかしら。わたしが叩いたことには怒っていそうですけど、自分の言ったことはきっと今頃後悔しているはずですもの。

 どの道、わたしも謝りに行かなくてはいけなかったので好都合ですわ。

「わかりましたわ。すぐに向かいます」

 ギャラリーなら個室ではありませんけど人通りは少ない。話をするには持ってこいですわね。



 呼び出された場所へ行くとジェームズは既にいた。

 ソファーがあるのに立ったままで、わたしを見るととても気まずそうな顔をする。

 いつものジェームズですわね。怒っているわけでもなさそうですわ。

 とはいえ、どういうつもりなのかがわからないので出方を窺いたいですわ。わたしは黙ったまま、ただ彼をじっと見た。

 しばらく沈黙が続いた後、耐えかねたようにジェームズが口を開く。喉に石でも詰まらせているかのような、引っ掛かりながら絞り出したみたいな声だった。

「・・・わる・・・かった」

「は・・・?」

 本気で何を言われたかわからなかったわたしは、数秒経ってからそれを理解すると、大声を上げそうになった。

 だって謝りましたわよ、あのジェームズが。決して自分からわたしに謝ることなどなかったジェームズが、ですわ。

「どうしましたの?!」

 思わず一歩後ずさって、この変化がどこから来たものなのか、探るように凝視した。

 ジェームズはますます気まずそうにしながら、わたしから目を背ける。

「ビルに・・・謝らなきゃいけないって言われたんだよ」

 段々と声を小さくしながら説明する。

 ビルって森の管理人のビルかしら。ジェームズも子供の頃はよく遊んでもらっていてお世話になっているから、彼には頭が上がらない部分はあるのでしょうね。

 彼に諭されたからこうなったわけなの。今まで謝ったことなんてないくせに。

 でもわたしと喧嘩した時にジェームズを叱るのはだいたいフィルの役目だったから、もしかしたら余計にムキになって謝れなかっただけなのかもしれませんわ。

 何だか拍子抜けした。

「いえ、わたしもひっ叩いたのはやり過ぎでしたわ。ごめんなさい」

 わたしがそう言うと、ジェームズはホッとしたように強張っていた表情を弛めた。本当に悪いとは思っているのよね、この人は。

 ここで終われば円満に解決するのでしょうけど、わたしは一言言っておかなくてはいけなかった。

「でもフィルは遊び歩いているわけではありませんわよ」

 ジェームズはわたしに謝っていますけど、本来ならフィルに謝るべきなのですわ。それを指摘すると、とてもややこしいことになりそうですからやりませんけど。でもジェームズがあんな勘違いをしたままなのは許しがたいですわ。

「知っている。・・・いや、知っているけどちゃんと知ろうとしなかったというか・・・とにかく遊び歩いているなんて、もう思ってない」

 落ち込んでいるかのように俯きながら言う。

「それならいいのですわ。この件についてはもうお互い何も言わないことにしましょう」

 わたしの言葉にジェームズは黙って頷いた。

 いつになくまともな会話ができていますわね。せっかくですから今後のことも話し合っておこうかしら。

「ねえ、ジェームズ」

「何だ」

「あと数カ月でわたしはこの家に嫁ぎに来ますわよね」

「・・・ああ」

 急に身構えるような姿勢を取って、ジェームズはわたしが何を言い出すのかと警戒し出した。どういうことよ、それは。

「今よりもずっと顔を合わせる機会は増えるのですし、いい加減に諍い合うのは止めにしません? あなただってわたしのことが嫌いなのでしょうけど、少し我慢していただけないかしら。お互いのためにもよくないですし、周りの人たちも迷惑でしょう」

 今回のことが珍しく平穏に解決しても、これまでを考えれば、次また同じことを繰り返すのは必至ですわ。

 そう思ったからこその提案だったのですけど、ジェームズは顔を陰らせて口を閉ざした。

 もしかして言うまでもなくそうするつもりだったのかしら。だとしたら少し申し訳ないですけど、今までがずっと険悪だったのですから、そんなのわかるわけないですわ。

 微妙な空気になってしまい、何を言うべきかわからなくなる。

 するとジェームズが決意を秘めたような顔をしてわたしを見た。

「わかった。でもその前に聞きたいことがある」

 緊張感のある声を出されて、思わず目を丸くした。

 


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