○○ができました 前編
お茶会から帰り、エントランスで帽子と手袋を脱いでいると、背後で玄関扉が開く音がした。
振り返れば金髪の上品そうな貴婦人とその侍女が立っている。わたしと同じくお茶会にでも行ってきたらしき姿だった。
「お母様、お帰り・・・」
「まあ、アイリーン。いいところに! ちょっと聞いてちょうだい!」
言葉を遮ってまくし立てられる。口を開けば彼女の雰囲気はガラリと変わり、表情豊かな瞳がわたしを捉えてキラリと輝いた。
これは話が長くなる前兆ですわ。
「お母様、待ってください。お話なら居間で聞きますわ」
「ええ、そうね!」
さすがにエントランスで話し出したりはしませんでしたけど、待ちきれないのかわたしの手を引いて居間に直行しようとする。
わたしは近くにいた執事に目配せした。彼は心得たようにお辞儀をして、スッと下がっていった。
お茶を飲んできたばかりですけど、お母様の話は長い。それに今日は特に暑いので、飲み物を用意してほしかった。できればレモネードなんかを。
お母様は居間に入ると、早速会話を始める。
「やっぱり知ってらしたわよ、ボールズ夫人! 夫が愛人を囲い始めたことを!」
「まあ」
「王都郊外に別宅が二つありましたわねって聞かれた時に、一つしかありませんと言っていましたもの。そんなはずありませんのに。この間そのことを自慢してらしたばかりなのよ。それに答えた時の顔が引きつってましたもの。あれは絶対にご存知ですわよ!」
確信を持って言いきるお母様はとても楽しそうですわ。
お母様はサロンの女王と言われるだけあって、上流貴族の奥方にとって最も大切な要素である社交性をしっかりと身につけてらっしゃる人です。おまけに人脈が広いだけではなく、人を見抜く力もあるので、お茶会を開くにあたって誰を招待すればいいのか、誰と誰を引き合わせれば上手くいくのか、どんな会話をすれば場が盛り上がってお茶会が成功するのか、そういう采配がとても上手なんです。
貴族の女性社会で常に頼りにされている人なのですが。
ですが残念ながらその実態は、大のゴシップ好きなのです。
むしろゴシップ情報を手に入れるために、サロンの女王という地位を維持しているのではないかと思うところですけど、お母様によれば、あんなに疲れることは、これくらいの楽しみがなければやってられない、らしいです。
貴族夫人の付き合いがとても大変なのはわかるので、わたしとしてはその考え方に大いに賛同できるのですけどね。将来参考にさせていただくかどうかは悩むところです。
でも手に入れた情報はほとんど娘か夫にしか話さないので、それほど害があるわけではありませんわ。たまに有効活用することもあるみたいですけど。
「ボールズ夫人は見て見ぬフリなんてできない人ですわよ。絶対に近いうちに夫か愛人とやり合うに決まっていますわ。わたしの見立てでは、証拠を集めてから夫に突きつけて、主導権を握る心積もりですわね。彼女は自分が優位に立てれば、愛人のことは水に流しますわよ」
「まあっ、家庭内の立場を逆転させるつもりですのね。ご夫君は応戦しますかしら!?」
俄然興味が湧いたわたしはお母様に詰め寄った。
「しても勝てないでしょうね。ああ見えて小心者に違いありませんもの。近い将来、恐妻家になると予想しますわ」
「ああ、見たいですわ、その様子。やるなら徹底的に負かせていただきたいですわね」
お母様のこういう予想は大抵当たるのですわ。経緯が見れないのが残念ですわね。
こうしてわたしはお母様の話術に嵌まって、今日も楽しくゴシップ話に花を咲かせてしまったのですけど、お母様はまだとっておきの情報を隠し持っていましたわ。
話が一段落ついた時に、口に手を当てて笑いを堪えるようでいて全く堪えていない顔をしたお母様は、勿体ぶった言い方をした。
「面白いお話を聞きましたのよ、アイリーン」
「何ですの?」
こちらが興味を持つほどに話が長くなってしまうので、そろそろ疲れてきたわたしは素っ気なく返事をした。
「メリッサ嬢・・・いえ、シズリー夫人ですわ」
「・・・メリッサ様?」
意外な名前が出てきて、わたしは目を見張った。
彼女はつい先日あのダミアン・シズリーと結婚したのですわ。
貴族は通常、一年以上の婚約期間を設けるものなのですけど、彼女の世話役である侯爵夫人とシズリーの父親がとにかく早く結婚させたがったようなのです。
結婚直前にシズリーの父親はメリッサ様の家にあまりお金がないことを知ったみたいなのですけど、今更お金目当てだったなどと言えませんわよね。それなら結局のところお金持ちで格下の家の、利害が一致しそうな令嬢など捕まえられそうにない息子を、さっさと結婚させようと思ったみたいですわ。
噂では侯爵夫人が結婚費用のほとんどを出したそうですし。もし本当なら、相当早く責任逃れしたかったのですわね。
まあ、お母様を敵に回すかもしれない恐ろしさを思えば、妥当な判断かもしれませんけど。
シズリーの父親は結婚することによって、遊び呆けている息子が少しは落ち着くかもしれないという期待もあったかもしれませんわ。
でもとにかく結婚したばかりなので、その後の様子などは聞いていないのですけど。
「あのシズリー家のご子息、結婚しても遊びぐせは直らなかったみたいですわね」
「・・・・・・まあ」
それはそうですわね。彼は故意に遊んでいるわけではなくて、何も考えてないから遊んでいるのですもの。結婚したからといって簡単にそれが直るはずありませんわ。
メリッサ様は没落させないと言って意気込んでいましたけど、前途多難そうですわね。
「それでね、乗り込んだようなの」
お母様はますます笑みを深くして言った。
「乗り込んだ?」
「シズリー夫人が。浮気現場に」
「・・・ゴフッ!」
わたしはレモネードを気管に入らせて噎せてしまった。ゴホゴホと喉を鳴らして苦しさを軽減させようとする。
「とても恐い形相で、夫を引きずって帰ったらしいですわよ。勇ましいですわね」
お母様は女性にとって全く誉め言葉になっていないことを、素晴らしいことであるかのように言った。
確かにすごいですわ。それが事実なら。
「・・・それ、本当ですの?」
お母様は聞いたのだと言っている。つまりは噂話なのよね。
「さあ、どうかしらね。でも似たようなことはあったのだと思うわ。わたしの見立てではね」
わざとのようにあやふやな言い方をする。でもこれはお母様が確証だと思えるものを掴んでいないせいであり、わたしの反応を伺うためでもある。
わたしとしてはメリッサ様とはお互いもう関わらないということになっているので、彼女が夫に対してどんな破天荒なことをしようと、こちらに被害が及ばなければどうでもいい。
最終的に彼を夫に選んだのはメリッサ様ですし、そのせいで苦労したとしても、わたしに言えることなどこれしかない。
「大変ですわね。メリッサ様も」
この時のわたしは完全に他人事だった。
夜とはいえ、夏の夜会は人の熱気もあり、やはり暑い。
わたしは少しでも涼みたくて開放されているテラスの近くの壁の前に突っ立っていた。
フィルはすぐに戻ると言って席を外している。知り合いが多い夜会なので、いつものように一人になるなとは言われていない。
ぼんやりしていると、なぜか急いでテラスに出ようとする男性が目の前を通りすぎて行った。特に注意を払うことなく見送ると、その男性は何かに気づいたように振り返ってこちらを見た。
その顔を見た時、わたしは心の中で呻き声を上げていた。
昨日、お母様が話題に出したばかりの男性、シズリーだったのだから。
「アイリーン嬢、すまないが匿ってくれないかい?!」
挨拶もなく、彼は急に距離を詰めてきたので、わたしは思いきり後ずさって間を取った。
「ああ、すまない」
単に驚かせただけだと思ったらしい彼は軽く謝る。
「大したことじゃないんだ。ただそこにいて僕を探している人間に、ここにはいないって言ってくれるだけでいい。頼んだよ!」
余程急いでいたのか、要求を押し付けてさっさと行ってしまった。
近くにいた老紳士が心配そうな顔でこちらを見ていたので、何でもないと手振りで示した。
勝手に頼み事をされただけで、引き受けた覚えはない。わたしは早くこの場を離れることにした。
しかし踵を返した先に立ちはだかる人物がいて、危うく悲鳴を上げそうになった。
「え・・・?」
そこにいたのは既婚女性らしい装いをしたメリッサ様だった。
隠すこともなく怒りのオーラを立ち登らせている。
「アイリーン様、わたしの夫を見ませんでしたかしら?」
「・・・そこのテラスにいらっしゃいますわ」
わたしが答えると、彼女は淑女にあるまじき速度でテラスに駆け込んだ。
思わず見送ってから、出て来るのを待ってしまう。
あまり間を置かずに彼女は更に怒りの増した顔で、夫の腕をがっしりと掴んで現れた。その夫は売られていく仔牛のような悲壮感を漂わせている。
「あっ、アイリーン嬢、酷いよ。匿ってくれと言ったのに」
「まあ、奥様から逃げているとは思いませんでしたの。ごめんなさい」
わたしは申し訳なさそうな顔を作って、嘘を吐きつつ謝った。簡単に信じてしまったらしいシズリーは、言葉に詰まって項垂れる。
それからなぜかわたしをじっと見た。
「相変わらず可憐だね、アイリーン嬢は。僕の奥さんも君くらいの淑やかさがあれば・・・って、痛い痛い!」
見えないところに物理的打撃を加えられたのか、シズリーは悲鳴を上げた。
この状況でよくそんなことが言えますわね。この人やっぱり馬鹿ですわ。それにメリッサ様がここまで強くなってしまったのは、絶対にあなたが原因ですわよ。
「アイリーン様、わたしの夫に色目を使うのはやめていただけるかしら?」
「はい?!」
メリッサ様は怒りの視線をわたしにまで向けてきた。どうしてそうなるんですの。すぐに立ち去らなかったせいで、ややこしいことに巻き込まれそうですわ。
といいますかメリッサ様、夫の浮気にかなり気が立っているんですのね。
「君たちの夫婦喧嘩にアイリーンを巻き込まないでもらえるかな」
静かに怒りを孕んだ声が背後から聞こえてきた。
「フィル!」
ほっとしたわたしは、彼の後ろにさっと隠れた。
フィルの登場でメリッサ様は怯んだようですけど、一人空気の読めない人がおりました。
「フィリップ、いいところに! 助けてくれよ。今日は何もしていないのにメリッサがすごく恐いんだ。別に女の子を誘ったりしていないんだよ、今日は」
メリッサ様が夫をギッと睨み、フィルがイラッとした空気を発しました。
なんで今日はって二回も言ったんですの。
「知らないな。それよりも君はこんな処に来る余裕があるのか?」
フィルは冷え冷えとした口調で突き放すように言った。
それわたしも思っていましたわ。今日の夜会は上流貴族が多くて彼にとっては少し格式が高いのです。
招待されたのか誰かに付いてきたのか知りませんけど、この人って借金がかなりあるのですわよね。貴族の付き合いはお金がなくてもやらなくてはいけないのはわかるのですけど、わざわざ格上の夜会に来るのは無駄なお金を使っているだけのような気がするのですけど。没落まっしぐらじゃありませんの。
「ああ、うん。大丈夫だよ、それは」
全く信用できない軽い調子でシズリーが言う。全員から疑いの眼差しを向けられて彼は慌てた。
「大丈夫だって! 僕って結構、運がいいんだよ」
自慢するように胸を張る。でも、運ってまさか。
「あなた・・・もしかしてまたギャンブルをするつもりでしたの?」
メリッサ様が地を這うような声を出した。
「だから大丈夫だって! この前だって勝っただろう?!」
「その後に二回負けていましたわね」
冷静に返されるとシズリーは冷や汗を流しはじめた。
「いや、それは・・・でもギャンブルぐらいさ、フィリップだってするだろう?」
助けを求めるようにフィルを見る。
「嗜み程度だ」
そうですわよね。男性なら誰だってギャンブルぐらいします。それが嗜みとしてか、のめり込むのかで大きく変わってくるのですけど。ギャンブルで身を滅ぼす人って珍しくないんですのよ。
シズリーがギャンブルで借金を返そうとしているのなら、破産する未来しか見えませんわ。そして楽してお金を作ろうという発想しかありませんのね。
もしかしてこの夜会に来たのも、より大きな賭け金で勝負できそうだからとかかしら。
フィルは馬鹿馬鹿しくなったのか、黙ってわたしを連れて立ち去ろうとした。
しかしシズリーに逃がさないとばかりに上着を掴まれる。
「待ってくれ、フィリップ。メリッサを説得してくれよ。これが一番いい方法なんだって。というかこうするしかないし」
ギャンブルに頼るしかない状況ってかなり危ないのではないかしら。本人に危機感がほとんどありませんけど。
それにしてもこの人は自分が何をやったのか、完全に忘れていますわ。よくフィルにこんな話し方ができますわね。
フィルはわたしに恨みがましい目を向けて、小声で文句を言った。
「なんで君はこんなのにからまれていたんだ?」
「向こうが勝手にからんできたんですわよ。フィルこそどうしてお友達だと思われていますの」
「向こうが勝手に思っているんだ」
フィルは振り返って命綱とばかりに上着を掴むシズリーを見る。
そして天を仰いで大きくため息を吐いた。
明日、後編を投稿します。