夏の夜会 (フィル)
大変お待たせしました。
本編終了後です。
「来年の三月くらいでいいんじゃないかい?」
伯爵はまるで邸で主催する夜会の話でもするかのような気軽さで言った。口元に笑みを称えて、執務室のソファーで珈琲を啜る様子は普段と何ら変わりない。
反対されることも覚悟していたので、拍子抜けする。
彼は穏やかで人の意見を尊重する人だが、娘の結婚ともなれば厳しい態度を取ることもあるかもしれないと思っていた。しかし杞憂だったらしい。
むしろ俺がその話をすることがわかっていたみたいに、可否ではなく日程の話が一足飛びに始まっている。
「それ以上早いのはちょっとね・・・」
黙っていたせいか、伯爵は日取りに不満があると思ってしまったらしい。慌てて答える。
「いえ、それでお願いします」
今シーズンはもうすぐ終わる。そろそろ領地へ帰る人も出てきているので、結婚式が来シーズンになるのは当たり前のことだ。
そして公爵家の結婚式をひっそりと行うわけにはいかないので、王都に人があらかた集まった三月頃が、常識的に考えて一番早い時期になる。それをこちらが言う前に提案してくれているのだから、かなりありがたい。
しかしあまりにも抵抗がなさすぎるのではないか。
「いいのですか?」
尋ねてみるとアイリーンの父親である伯爵は何の話だと問うように眉を上げた。
「いえ、少しくらいは反対されると思っていたので」
できるだけそうなる要素は排除してから話を切り出してはいる。でも年齢的にまだ早いという事実はどうしようもない。反対とまではいかなくても、少し渋るぐらいのことは絶対にされるだろうと思っていた。
こんなにもあっさりと承諾されるのはさすがに意外だ。
「いいも何も・・・」
伯爵は笑いを堪えるような表情をした。
「君とアイリーンを見ていたら、仕方がないかと思ってしまうよ」
からかおうという意図はないのかもしれない。でも思わず目を逸らした。
アイリーンはよくわかっていないのは本人だけだと言われていた。しかしあまり表に出さないように気をつけていた自分の感情も予想以上に漏れていたのだと言われれば、羞恥に襲われる。
「君たちを婚約させたのは私とあいつだからね。責任は取らせてもらうよ」
「ありがとうございます・・・」
伯爵はくすくす笑った。
「あいつにはもう言ったのかい?」
公爵である父のことを彼は遠慮なくあいつと呼ぶ。
スクール時代に先輩として面倒を見ていたので、卒業してもその時の感覚が抜けきらないらしい。個人的な付き合いでは爵位の違いを考慮しても、二人は対等だった。
しかしスクールという身分の通用しない特殊な環境の中であろうと、子供の頃から気難しかったらしい父の面倒を見れたこの人はすごいと思う。
「いえ、これからします」
まだ父の許可はもらっていない。公爵である父が承諾してしまえば、伯爵に話す前に決定事項になってしまうかもしれない。先に伯爵に話すのが筋かと思ったのだ。
「了承してくれそうかい?」
「・・・わかりません」
こればかりはわからなかった。もし俺が婚約者のいない身で、夜会で知り合った女性とこの歳で結婚したいと言えば、確実に反対されるであろうことはわかる。
しかし俺がすぐにでも結婚したいのはアイリーンなのだ。
「アイリーンですからね。頭ごなしに反対はされないでしょう」
本当に父はアイリーンには甘い。息子としていろいろと複雑な気分にさせられるくらいには。
彼女が嫁に来るのなら、伯爵と同じくらいあっさりと許すかもしれない可能性すらある。
「そうだろうねぇ」
伯爵は面白いことでも思いついたみたいに、にやりと笑った。
「ねぇ、フィル君。あいつがあの子に甘い理由ってわかるかい?」
今更そんなことを聞かれて戸惑った。
「アイリーンが父に物怖じしないからですか?」
そんな人間はあまりいない。あらゆる種類の人から恐れられている父だが、子供には特に酷く、今だかつて父を怖がらなかった子供はアイリーンしかいない。そんなところを気に入っているのだろうと思っていた。
「それも理由の一つではあるのだけどね」
しかし伯爵によると違うらしい。
「じゃあ、女の子だからですか?」
息子しかいない父は子供全員に厳しいが、娘がいたら甘かったのかもしれない。
「それも違うね」
伯爵は楽しそうな顔をしながら否定する。どうやら俺が正解を出せないとわかっていて言っているみたいだ。答えが知りたかったので、降参することにした。
「じゃあ、何ですか? 教えてください」
「それはね、あの子が昔っから君のことを大好きだったからだよ」
伯爵はくすくすと笑いながら言った。
一瞬、意味を理解できなくて、唖然とする。
「フィル君、親っていうのはね、自分の子供のことを大好きな子には、甘くなってしまうものなんだよ」
いたずらが成功して喜んでいるかのような伯爵の態度に、気恥ずかしい思いをさせられた。
「自分の子供には甘くないのにですか?」
「そういうものなんだよ」
父のことを困った奴だと思っているかのように伯爵は苦笑した。
しかし俺にも何か含みがあるような目で見てくる。それには気づかないフリをさせてもらった。
「さて、今日もあの子と夜会に出掛けるのだろう。そろそろ用意ができる頃じゃないか?」
言いたいことを言って満足したのか、伯爵は話を打ち切った。
「・・・はい。迎えに行ってきます」
いつもはエントランスで待つのだが、俺が既に到着していることを彼女は知っているはずだ。部屋まで迎えに行ってみよう。
席を立つと伯爵は座ったまま声をかけてきた。
「あいつが反対するなら、私が賛成していることをちゃんと伝えるんだよ」
穏やかな笑顔でそう言ってくれる。
「ありがとうございます」
彼の心遣いに感謝した。
夏になり夜会の開催は段々と減ってくる。
しかし出席者の人数は見た目にはほとんど変わりない。今日の夜会は規模としては大きい方なので、人数もそれなりだ。
ただそろそろ出席してもやるべきことがなくなってきている。若い男女の第一目的である結婚相手探しはやる必要がないし、人脈も必至になって繋げなくてはいけないわけではない。むしろ繋げたがる人間を識別するほうが大変だ。
退出しても失礼ではない時間になったら帰ろう。
そう思っていると知りあいの侯爵が声をかけてきた。彼は隣にいる若い男を紹介した。
「息子のアーサーです。最近社交界に出入りさせることにしたのです」
同い年ぐらいの息子は丁寧に挨拶したものの、俺の隣にいるアイリーンをチラチラと見ている。
「こちらは私の婚約者のアイリーン・オストンです」
礼儀として紹介すると、あからさまにガッカリした。おい、少しは隠せ。
彼の態度の意味をわかっていないアイリーンは、大人しく愛想笑いを浮かべている。そのせいなのか、彼はその後も話をしている最中にアイリーンを何度も見ていた。
不愉快になってくる。早々に話を終わらせて立ち去ることにした。
しかしその後も気がつけば彼女を遠くから見ている。距離を取っていても、視線があからさまでなので不作法だ。淑女をジロジロ見てはいけないと習わなかったのか、こいつは。
侯爵は息子を社交界に出す時期を見誤ったな。個人の失態は一家の失態になるのが社交界だ。女性と違い明確な社交界デビューの時期が決まっていない男性は特に気をつけなくてはいけないのに、あの息子はそれを理解していない。これでは侯爵の評価も下げざるを得ない。
「フィル」
アイリーンが腕の上着を引っ張った。
見下ろすともう一度上着を引くので、屈んでみる。彼女は耳に顔を近づけてこっそり言った。
「何かありましたの?」
どうやら俺が不機嫌なことを察知したらしい。戸惑うような様子をしている。
「いや・・・」
何でもないと言おうとした。しかし周囲の視線に気づいてやめる。
彼女のこの何気ない仕草でも、周りには微笑ましいものとして映るらしい。最近は特に仲がいいと冷やかされているので、温かい表情で見守られている。
「さっきの男が君を見ている」
アイリーンは首を傾げた。
「話の最中にチラチラと見ていらした方?」
「その時だけじゃない。ずっと何度も見ている」
気分を害したようにアイリーンは眉根を寄せた。
「淑女をそんな風に見るなんて不作法ですわ。言いたいことがあるなら言えばよろしいのに」
やっぱり理由をわかっていない彼女は憤慨している。
「言えないだろう。婚約者のいる女性を口説かないくらいの分別は持っているらしいからな」
きょとんとした彼女に丁寧に説明した。
「他の男に君を物欲しそうに見られているせいで、俺はすごく苛苛している」
カアッと彼女の顔が赤く染まった。照れて恥ずかしそうに俯く姿はかなり可愛い。
「そんなことくらいで苛苛する必要ないでしょう」
「なぜ? 君が俺のものだということに変わりないから?」
自分で思っていた以上に鬱憤が溜まっていたらしく、そんなことを口にしていた。
「ちょっ・・・フィル!」
少し大きな声を出したのでアイリーンが慌てて周囲を見回した。そしてとても微笑ましげな表情をしている人々に注目されていることを知って、ビシッと固まっている。
遠くに目をやると、さっきの男が悲しそうな顔でこちらを見ていたので、少し溜飲が下がった。
視線を戻してアイリーンを見る。しまったと思った時にはもう遅かった。
彼女は恥ずかしすぎたのか、更に赤くなって涙目になっている。潤んだ瞳をポカンとした顔で周囲の男たちが見ていた。
マズい。咄嗟に手を引いて歩き出した。
前に立ってなるべく彼女の顔が隠れるようにする。
そのまま会場の外に出た。もう退出してもいい頃のはずだ。馬車を呼んでもらってその場で待つ。その間アイリーンはずっと黙ったままだった。
馬車が到着して彼女を正面ではなく隣に座らせる。会場にいる時と表情はあまり変わっていなかった。
「アイリーン、悪かった。悪かったから、泣かないでくれ」
「泣いてませんわよ!」
彼女はこちらをキッと睨んで言い返してきた。その瞳はさっきよりも潤んでいる。
「いや・・・泣いてるだろ」
指摘すると、とても屈辱的なことを言われたかのように、彼女は顔を歪めた。
「・・・フィルのせいでしょう!」
「ああ、俺が悪い。悪いってわかっている。だから頼むから人前で泣いたりしないでくれ」
そう言うと彼女はショックを受けたかのように、ますます顔を歪めた。
ああ、違う。そうじゃない。淑女らしくない行いをするなと言いたいわけじゃない。
「アイリーン、俺が悪かったんだ、本当に。でも頼むから人に泣き顔を見せるのはやめてくれ。頼む」
あんな顔を男たちに見られると、邪な目で見られることがもっと増えてしまう。それは何としても避けたい。懇願するように言うと、彼女は少し落ち着いたように肩の力を抜いた。
俺の顔をじっと見る。体裁のために言ったのではないことはわかってくれたらしい。こくりと頷いた。
「わかりましたわ。人に泣き顔は見せません」
理由はきっとわかっていない。でもそれでもまずは俺の願いを聞き入れてくれるそのことに、信頼と愛情がしっかり伺える。
安心させられる。──でもまだ、少し足りない。
俺はある一言を彼女に言わせたくて水を向けた。
「・・・俺以外には?」
アイリーンは躊躇いなくあっさりとそれを口にした。
「ええ、フィル以外には」
口元がだらしなく弛んだ。本当に可愛くて仕方がない。
抱きしめるために、彼女に手を伸ばした。