17 なぜかそうなりました
「アイリーン?」
背後から名前を呼ばれて、わたしは花を眺めるために折り曲げていた腰を真っ直ぐに戻し、振り返った。
二十歩ほど先に新品のモーニングを着て、普段よりもきっちりと髪をセットしたフィルがいる。
「こんなところにいたのか。そろそろ戻らないとまずいぞ」
近付いてくるフィルにわたしは花壇の薔薇を指差した。
「髪に飾るための花がもう一輪あった方がいいと思いましたのよ」
花壇には色とりどりの大輪の薔薇が咲いている。この中で一番綺麗な花を選ぼうとしていたら、思っていたよりも時間が経っていたみたいだわ。
「ああ・・・」
納得したフィルはふと気がついたように、わたしの全身を見渡した。
今日のわたしはレースがたくさん付いた、クリーム一色のドレスを身に纏っている。この日のために誂えたもので、試着以外では初めて着たドレスだった。
髪が亜麻色のせいで似合う似合わない以前に、なんだか地味になってしまっている。まあ、それくらいでちょうどいいのですけど。
「ドレス、似合っているな」
なぜか嬉しそうにフィルが言った。
自分ではそうは思っていなかったせいで、わたしの頬がほんのり赤くなる。
「・・・ありがとう」
フィルはわたしの目の前で立ち止まって、頬に手をそっと添えてくる。そのまま顔を近づけてきてーー。
べしっと手のひらでわたしはそれを遮った。
「今日は、キスはしないと言いましたわよね?!」
あまりにも自然にやろうとするフィルに、わたしは真面目に怒った。
普段は約束を破ることなんてほとんどないくせに、こういうことに関しては守ってくれることのほうが少ないのはどうしてなの。
フィルはわたしの手をどかしながら、真顔で言った。
「いや、記憶にないな」
悪びれてもいない。
そう来ますのね。わかりましたわ。
「まあぁ」
わたしは大袈裟な身振りをした。
「記憶喪失かしら、大変だわ。頭に衝撃を与えたら治るのだったかしら」
「待て、待て!」
周囲をきょろきょろと見渡して、何かを探すフリをし出したわたしを、フィルは慌てて止めた。
「わかった。悪かった」
ジト目で睨むわたしに、素直に謝ってくる。
全く、最近調子に乗りすぎなんですのよ。
「ちょっと、アイリーン!」
そんなことをしていると、今度はわたしが怒った声で呼ばれた。
さっきフィルが現れた場所にブリジットがいて、両手を腰にあてて憤然とした態度で立っている。
彼女はわたしと同じクリーム色の、お揃いのドレスを着ていた。
「ブライズメイドが主役を放っておいて、何をイチャついているの?! もうすぐ式が始まるわよ!」
わたしはイチャついてなんかいない。そう反論したいけれど、更に怒られそうな気がして、大人しく謝った。
「ごめんなさい。すぐに行きますわ」
白い薔薇の花を差したベールを被って、幸せそうに微笑むコレットを遠くから眺める。
彼女はわたしやブリジットとよく似たデザインのドレスに身を包んでいるけれど、彼女のものだけは純白で、それは素晴らしい花嫁衣装だった。
隣にはずっと締まりのない笑顔で付き添っているハルトンさんがいる。
あの顔のおかげで二人をお金と爵位目当ての結婚だと思う人はほとんどいないでしょうね。
もっともそれでなくともハルトンさんはコレットを夜会のパートナーとして連れて歩くようになってから、彼女に処構わず甘い言葉を囁き続けて、惚れ込んでいることを主張していた。
初めは冷ややかな目で見ていた人たちも、ハルトンさんが全く手をゆるめないものだから、段々と信じるようになってしまったのよね。
フィルはどれだけ嘘臭いと思っていたことでも、何度も繰り返し言われたら、人間は信じてしまうものだって、詐欺の手口のような説明をしていましたけど。
そんなわけで挙式が終わり、ハルトンさんの屋敷に移って披露宴を行っている今は、二人は温かい目で見守られている。
ハルトンさんが社交界での地位を盤石にするという問題も、結構すんなりと解決している。
わたしも協力したのですけど、彼は商売で女性を味方にした。
なぜか貴族の女性たちに理想のカップルという認識をされているわたしが、フィルから貰ったものを身に着けていると、女性たちはそれがとても気になってしまうらしく、どこで買ったのか聞いてくる。そしてハルトンさんの経営するお店らしいと答えれば、そこに直行してくれるようになった。なんだかわたしと同じものを身に着けていると恋が叶うとかいう、恐ろしいデマを耳にしたのですけど、それは聞かなかったことにしましたわ。
ハルトンさんもここであるだけ売るようなことはせず、数が少なくて手に入りにくいのだということにすれば、どうしてもそれが欲しい女性や、その女性にねだられた男性が、コネでなんとかならないかと進んでハルトンさんに接触を持とうとしてくれるというわけですわ。
これ、フィルが状況を利用して考えたのですけど、いつから計画していたのかちょっと気になるところです。
まあ、あのネックレスは女性が自分からねだるようなものではないですし、ハルトンさんとは関係のないお店で買ったようですけど、でもわたしが女性から羨ましがられる立場になっていることに、なんだか策略を感じられるような気がしないでもないです。
コレットが幸せそうですから、別にいいのですけどね。
それよりもわたしには今とても困っていることがある。
「おめでたいことですわね、アイリーンさん」
知り合いのご婦人がにこにこと話し掛けてくる。
「身分を越えての熱愛なんて、とてもロマンチックですわ。そう思いませんこと?」
「ええ、わたしも友人として喜ばしい限りですわ」
ここで彼女の目が猛禽類のように光った。
「ところでアイリーンさんたちはいつ頃結婚式を挙げられますの? 噂ではもうそろそろとか」
これ、これですわ。最近はわたしとフィルがもうすぐ結婚するのだと勘違いする人が増えているのです。
普通なら早すぎる結婚は眉をひそめられるのに、まるで待ちわびているかのように聞いてくる人もいるのですわ、彼女のように。
原因はもちろんわたしがこのネックレスを着けているからなんですけど。
夜会でこれを発見されてからというもの、何度同じ様な質問をされたことか。両親まで早いけどそろそろいいか、という態度になってきてしまっている。
なんだか嵌められているような気分になってしまうのは、わたしの穿ちすぎなのかしら。
「いいえ、さすがに早すぎますし、まだ決まってはいませんわ」
事実を言ったというのに、かなり疑わしい目を向けられた。
「本当ですの?」
「ええ、本当に決まってはいませんよ」
後ろから声が聞こえてきて、振り返るといつの間にかフィルが立っていた。
「でも皆さんもうすぐだと言うんですのよ。隠していらっしゃるのではありません?」
このご婦人はどうしてもわたしたちがいつ結婚するのか知りたいらしく、食い下がってくる。
フィルは困った顔をして言った。
「隠してなんかいませんよ。いつ式を挙げるのか決めるのはこれからです」
わたしは悲鳴を上げそうになるのをどうにか堪えた。
目の前のご婦人は喜色満面になっている。
「まああ、でしたら決まりましたらすぐに教えていただけるかしら?」
「いえ、ちょっと・・・」
「わかりました。すぐにお知らせしますよ」
わたしの言葉を遮って、フィルがあっさり頷くと、彼女は満足して去っていった。
呆然とそれを見送ってから、わたしはフィルに向き直る。
「ちょっと、フィル!」
「何だよ」
何をそんなに怒っているのかという顔をしている。いえ、騙されませんわよ。
「あんな言い方ではすぐに日取りが決まるみたいではありませんの。わざとですの?!」
もうすぐ結婚という噂を否定するどころか、真実味を持たせてしまっている。
「これからって言っただけだろ。すぐに決めるとも、近いうちに結婚するとも言っていない」
「そうですけど、でもあの方は誤解しましたわよ!」
あの年代のご婦人は人の話をちゃんと聞かないと、フィルだって知っているはずだわ。絶対にわざとなのよ。
フィルは抗議しているわたしに不満そうな顔を向けた。どうしてあなたがそんな顔をするのよ。
右肩に手を掛けられる。何なのと思っていると、フィルの顔が降りてきて、左肩の上で止まった。
耳のすぐ傍で、小さく囁かれる。
「嫌なのか、ディアレスト?」
途端にわたしの顔は音を立てそうな勢いで真っ赤に染まった。
「なっ・・・!」
言葉が出ない。
すぐに元の体勢に戻ったフィルは、ただ問いかけるような表情をしているようでいて、わたしをこんな状態にしたことに満足しているのだと、隠していてもわかった。
あの言葉を言えば、わたしが何も言えなくなるのだとわかっているのよ、この人は。
悔しいからその認識を覆したくて、わたしはいつも反論しようとするのだけど、上手くできた試しはない。
今だって嫌だと、そんなことをフィルに向かって言えやしない。
ただ赤くなって、周囲から微笑みかけられているだけだった。
「アイリーン」
フィルがわたしの名前を呼びながら、手を差し出してくる。まるで機嫌を取ろうとするかのように。
きっと拗ねているかのように見えているだろう目で、その手を少しの間じっと眺めた。
でもすぐに降参する。
わたしはゆっくりとフィルと手のひらを重ねながら、絶対に彼にしか聞こえないような声で言った。
「嫌じゃ、ないわ」
読んでくださってありがとうございます。
本編はこれにて終了です。
しばらく間が空くかと思いますが、番外編も書かせていただきます。