16 ものすごく呆れられました
わたしは子爵夫人のことがとても気になっていた。
前回訪れたときのあの反応。恨みがあるのかと聞いた時に見せたあの呆然とした顔に、一体どんな意味があったのかが知りたかった。
わたしが言ったように、本当に恨みを持っているのだとしたら、あんな顔はしなかったのではないかしら。
でもそれにしてはやっぱり子爵夫人の態度は、ただ平民を見下している人のものとはちょっと違うと感じる。そうしなくてはいけないからしているようにも見えてしまうのよ。
とにかく気になったわたしはコレットに頼んで、あれからまたすぐに屋敷を訪問させてもらうことにした。
この前は夫人が混乱しているみたいだったので、早々に帰りましたけど、今回はしっかりと話がしたい。出迎えてくれたコレットに、二人だけで話をさせてもらえるように頼んだ。
そしていつものように応接間へ行くと、子爵夫人はいつもと同じ言葉を口にした。
「また来たのですか・・・」
それなのに態度がこれまでと全く違っている。
毅然としてこちらを突っぱねるような空気を持っていた人が、今日は気力もなく、疲れた様子で、わたしに対する拒絶をまるで感じられない。何でも好きに話せばいいとでも思っていそうだった。
「何かございましたの? 子爵夫人」
思わずそう聞くと、彼女はゆっくりとこちらを向いて、わたしの顔をじっと見た。
そのままぼんやりと考えごとをしているみたいに口を開かない。
どうすればいいのかしら、これは。
コレットが少しだけぼうっとすることが多くなったと言っていましたけど、これは少しだなどとは言えないのではないかしら。
やがて子爵夫人は何かに気がついたかのように、目線を僅かに下げた。でも相変わらずわたしを見ている。
いえ、わたしではなくて、わたしを通して全く別のものでも見ているのではないかと思えてきた。
「子爵夫人?」
とりあえず呼びかけてみると、ようやく彼女の目の焦点があった。
目線はほとんど動いていませんけど。
「ディアレストですね」
「え・・・?」
唐突に意味がわからないことを言われる。
でも戸惑いを顔で現すと、思い切り呆れた表情をされてしまった。
「知らないのですか?」
「・・・ええっと」
ちょっと心にグサリと来るくらいの呆れようですわ。でも何を言われているのか本当にわからない。
そんなわたしを見て、子爵夫人は大きくため息を吐きながら立ち上がった。
そしてわたしの隣に腰を下ろす。近くに来られたことで、ようやく彼女がわたしの顔ではなくて、首元を見ているのだと気づいた。
そこにはフィルからもらったネックレスがある。
子爵夫人はそれを指で差した。
「diamond、emerald、amethyst、ruby、emerald、sapphire、topaz」
そこにある宝石を順に指で示しながら、名称を口にしていく。
でもいくら何でもこれらの宝石の名前くらいは、わたしでも知っている。
子爵夫人が何を言いたいのかやっぱりわからなくて、わたしは彼女の顔を見上げた。
それを待っていたかのように、はっきりと含めるように彼女は言った。
「頭文字を繋げてDearest(最愛の人)です」
「え・・・・・・?」
急に現実感のないことを言われたような気になって、わたしは目を瞬かせた。
子爵夫人は何も言ってくれず、ネックレスを見つめている。
そして少しずつその言葉がわたしの脳に浸透していった。
ディアレスト。最愛の人。
ーー何それ。ちょっと待って。
カアァァと勢いよく顔が赤く染まっていく。心臓がドクドクとうるさく脈打ち始めた。
そんな、そんなの知らない。ただ流行りかけのデザインなのかと思っていたのに。
「えぇ?」
わたしは軽くパニックになって、涙が出そうになった。誰かに助けを求めたくてきょろきょろと辺りを見渡すも、ここには子爵夫人しかいない。
でも頭は混乱を来たしていても、胸の奥からはとても素直で純粋な気持ちが湧き上がってくる。
まずいわ。どうしよう。嬉しい。すごく嬉しい。
ぎゅうっと喉の奥が締め付けられて熱を持ち始める。
咄嗟に顔を両手で隠した。もしかしたら人に見せられたものではなくなっているかもしれないと思った。
でも手で抑えているというのに、顔は勝手に弛んでいく。表情筋はわたしの感情を如実に現そうとしていて、口角が上がるのを止められなかった。
口では伝えないくせに、こんなことをするフィルはとんでもなくひどい。
どうしてこうも予想外なの。
こんな場所で、子爵夫人が見ているのにと思うのに、顔の熱は治まってなどくれないし、何も言うことができない。
ひたすら小さくなって、せめてまともな会話ができるようになるまで、自分の暴れまわる心臓を宥めすかさなくてはいけなかった。
だから、わたしはしばらく体中の熱を落ち着かせるのに必死になっていて、そんなわたしのことを子爵夫人がじっと見ていることなんて、気づきもしなかった。
ようやくわたしが顔を上げられるくらいまでになると、彼女はまたネックレスを見つめていた。
他に何も目に入っていないかのようで、やっぱりこれを通して別のものを見ているように感じる。
わたしは照れ隠しも含めて彼女に聞いてみた。
「子爵夫人も、旦那様に贈られたことがあるのですか?」
すると彼女はわたしが急に外国語でも話し出したかのような顔をした。
「いいえ・・・いいえ、主人はこんなものを贈ったりはしません」
その言い方が、主人からは贈られていないと言っているかのように聞こえて、わたしはまたもや沈黙してしまった。
子爵夫人は目を閉じて、ソファーの背もたれにもたれ掛かった。
深く考えごとをしているみたいだった。
声をかけづらい。また余計なことを言ってしまうかもしれないという思いもあって、わたしはただ彼女の様子を見守ることにした。
しばらくの間、部屋の中が無音になる。
そして長いのか短いのかわからないくらいの時間が経って、子爵夫人は目を閉じたまま口を開いた。
「あの子はーー」
それはわたしの注意を引くための言葉だったらしく、一度区切ってまた言い直した。
「あの子は幸せになれますか?」
誰のことなのかとか、どうなった場合のことなのかとか、そんな説明は一切なかったけれど、わたしは彼女が何を言っているのかを理解した。
答えを知りたいがための質問ではなかった。詰問でも、確認でもない。
淡々とした言い方はわたしがどう答えるのかわかっていて、それを待っているだけのように思える。
だからわたしはそれを口にした。無責任にも思える言葉をはっきりと断言する。
「はい、なれますわ」
子爵夫人が瞼を上げた。わたしを見る。
彼女のこんな優しい顔を初めて見たと思った。どこか呆れたようでも諦めたようでもあるけれど。
「彼がちゃんと、社交界での地位を確立できなくてはいけません」
厳しさを捨てるつもりはないとでもいうように、少しだけ澄ました態度を取り戻して子爵夫人は言った。
「・・・はい」
「それから事業を失敗させるなんて以ての外です。あの子に一生、何不自由ない暮らしをさせてやれなくてはいけません」
「はい」
「それから貴族の仲間入りをするのですから、それ相応の立ち振る舞いや儀礼を身に付けてもらわなくてはいけませんよ」
「はい」
「お金で娘を買っただなんて、決して周囲に思わせてはいけません。思い合っているのだとちゃんと理解させなくてはいけませんよ」
「はい、もちろん」
「それからーー」
子爵夫人は思い付くものがなくなったのか、急に口を閉じた。
わたしは嬉しくて、笑いながら彼女に告げた。
「ちゃんと、一つも違えることなく、ハルトン氏にお伝えしますわ」
子爵夫人は憮然とした表情で、それでもしっかり頷いてくれた。
「ええ、頼みましたよ」
それに勢いよく返事をしたわたしは、それから大急ぎでコレットを探しに行った。
子爵邸を出た後、わたしはそのままの足でフィルの家へと向かった。
コレットとハルトンさんのことを知らせたいということもあるけれど、それよりももっと伝えなくてはいけないことがある。
家にいるかどうかなんてわからなかった。でもいなくても帰ってくるまで待っていればいい。
馬車の中でネックレスを見る。自然と顔が笑み崩れて赤くなった。
わたしが感じていたよりもずっと、フィルはわたしのことを想っていてくれているのかもしれないと、そんな浮かれたことを考えてしまう。
クッションに顔を埋めて、冷静になれと何度も念じなくてはいけなかった。
そして公爵邸に到着すると、執事がフィルの在宅を教えてくれた。
わたしは淑女らしく案内を待つことができずに、私室にいると聞き出すと一人でそちらに足を向けた。
周囲の使用人たちが驚いた顔をしていたけど、誰も止めようとはしない。駆けているかのような速度で廊下を進むわたしを、黙って見送っていた。
フィルの部屋の前に立ってから、少しだけ息を整える。
急いで来たことは悟られないようにしようと思ってから、やっぱりいいかと思い直した。
扉をノックする。
執事か誰かだと思っているらしく、気のないフィルの返事が聞こえた。
ゆっくり扉を開けると、書き物机に向かって座っているフィルの横顔が見える。
フィルはすぐに顔を上げた。そして部屋の前に立っているのがわたしだと気がつくと、驚いて立ち上がる。
「アイリーン?! どうしたんだ、急に」
そんなフィルにわたしは突進した。
ドンッとぶつかって、そのまま両手を背中に回し、ぎゅうと抱きついた。考えてやった行動ではなくて、衝動だった。
「アイリーン?」
動揺した声が頭上から降ってきたけど、何も答えられない。
今になってわたしはこの、胸のあたりで熱く渦巻いている自分の感情を、どんな言葉で伝えるか考えていなかったことに思い至った。
ありがとうとか、嬉しいとか、そんな社交辞令でも使われるような言葉を言っても意味がない。
どうしようかと悩んでいると、フィルが耳元に顔を寄せて囁いた。
「ディアレスト?」
それがアクセサリーのことを言っているようでもなく、気がついたのかという確認のようでもなく、ただわたしを呼びかける言葉の、いつもアイリーンと呼ぶ、あの声のトーンと同じように言うものだから、わたしは泣き出しそうなくらい恥ずかしくなった。
なんでこの人は、先にそんなことを言ってしまうのだろう。
理不尽にもわたしは腹が立って、フィルの腕をバシバシ叩きながら、もう片方の腕はより一層力を込めて抱きしめた。
「フィル」
「何だ?」
短い返事でも彼が笑っていることがわかってしまう。
特に理由もなく、わたしはもう一度名前を呼んだ。
「フィル」
「何だよ」
優しい声が応えてくれる。
わたしは胸にある熱い塊に押し出されるようでいて、その熱そのものが形を変えたかのように、口から息を吐き出した。
「大好き、よ」
肩に顔を押し付けながら、それでもちゃんと聞こえるように伝えた。
他にも言わなくてはいけないことがたくさんあるはずだけど、今はこれが精一杯だった。
「う゛あ゛ぁ・・・」
でもそれに対するフィルの返事は呻き声だったものだから、わたしはまたしても彼の腕をバシバシと叩いた。
「ディアレスト」というアクセサリーは実際に在りました。
七つの宝石を綴り順に並べなくてはいけないというデザイン性の乏しさから、現在は廃れているようです。
それにしても漢字のルビが打てない(泣)