14 微かな疑問です
あまり寝られませんでしたわ。
おまけに顔の熱がまだ平常値に戻ってはいないような気がします。
もう正午を過ぎているというのに、この状態ってどうなんですの。
昨夜はあの後すぐに夜会会場を退出しましたけど、帰りの馬車ではわたしが黙っていたせいか、フィルもほとんどしゃべらなかった。
でもたまに目が合うと、フィルは口元を綻ばせる。わたしはどうすればいいのかわからなくて、この空気が心地悪いような、そうでもないような、とにかく落ち着かない気分にさせられた。
やっと家に着いたと思っていたら、フィルはいつもと違う別れの挨拶をしますし。
普段は次の予定を確認してから、わたしが送ってもらったお礼を言って、ではまた、となるのに昨日はそれだけではなかった。
馬車から降りるのに貸してくれていた手を、わたしが地面に降り立ってもフィルは離さず、くいっと軽く引っ張った。そして額にキスを贈られる。
「おやすみ、アイリーン」
そう言ってフィルは目を細めて微笑むものだから、また顔に熱が溜まる。
いつもと違うだけで、どうということもない挨拶のはずなのに、どうしてこんなにも恥ずかしくなってしまうのか。
やっぱりフィルのわたしを見る目がよくないと思う。あの目で見られたら、心臓が何かの信号を送られたかのように、どくどくと早く動き出してしまう。
うんと小さな頃から知っている相手に、今更こんな反応をしてしまうなんて、わたしはどうかしているのではないかしら。
逃げ出すように「おやすみなさい」と返しながら玄関に向かった。
でも屋敷の中に入った後には、メイドにお酒を多く召されたのですか、なんて聞かれたものだから、もう泣きたいくらいに恥ずかしくなってしまった。
こんな状態でぐっすり眠れるわけがない。
いろいろと考えたり、思い返したりしてしまって、全く眠気がやって来なかった。すごく疲れたわ。
でもおかげでじっくり時間をかけて、一応は頭の中を整理することができた。
まずフィルがどうしてわたしの気持ちを知っていたのか、いつから察していたのか、これについてはもう置いておくことにする。
わたしはフィルのことが好きで、そのことをフィルは知っている。これが事実で、否定のしようもないことだった。
問題はフィルの気持ちだけれど、彼はわたしのことが好きだとは言っていない。
わたし以外の女性とは絶対に結婚しないとは言ってくれたけど、そのことと好きということは同義じゃない。
だからフィルがわたしを好きかどうかはわからないーーなんてことはないですわね、さすがに。
いくら何でも、あんなことを真剣な口調で言っておいて、あんな顔をわたしに向けておいて、好きではないなんてことはないでしょう。
幼なじみとしてとか決められた婚約者として大事に思っているだけで、好きというわけではないなんて、そんなすっとぼけたことは、いくらフィルでも言わないわ。
もしそんなことを言い出す男がいたら、百年の恋も冷めるというものですわよ。
フィルもわたしのことを好きでいてくれている。
そのことに思い至ると、わたしは眠れないベッドの中で枕を抱きしめてダンゴムシのように丸まってしまった。
なぜそんなことをしたのか自分でも理解不能ですけど、とにかくしばらく丸まった後に、わたしは気が済んで元の体勢に戻った。
フィルは態度で気持ちを示してくれている。そういうことなのでしょう。
それもちゃんとわたしにわかるような、あやふやではない態度で。
でもわたしの中のわがままな部分が、はっきりと口で言って、もっとしっかりとした確証を持たせてほしいと小さく訴えている。
いえ、わかっていますわよ。わたしだって言っていません。言い当てられただけで、自己申告はしていない。
だから言ってくれないと嫌だというわけではありませんわ。
ただフィルは確信しているようなのに、わたしは極々小さな引っかかりを胸に抱える状態にさせられていることが、ちょっと狡いと思う。
気がつけば昨日のことやフィルのことばかりぼんやり考えている頭をどうにかしなくちゃいけない。
今のわたしが周りからどういう風に見えているのかを知るのが、果てしなく怖いですわ。
少なくとも、この屋敷の扉を開く前には、見かけだけでも普段通りのわたしでいなくては。
今日は前々からコレットに、お茶の時間に家を訪問すると告げていた。
彼女とおしゃべりをするだけなら、少しばかり腑抜けた顔をしていても構わないでしょうけど、もちろん子爵夫人とも話をするためにここに来ている。
あの方と半端な態度で闘えるわけがありませんわ。
しっかり頭を切り換えて、毅然としていなくては。
わたしはゆっくりと静かに深呼吸してから、手袋で覆われた両手で頬をパンパンと叩いた。
よし、問題ありませんわ。
しかし屋敷の中に招き入れられて、出迎えてくれたコレットと二言三言話しをした後、わたしをじっと見つめた彼女がこう言った。
「アイリーン、何かあった?」
「ぅぐっ・・・」
お腹を踏んづけられたような声が出た。
鋭い・・・。鋭いですわ、コレット。
ちゃんと気合いを入れて自然な表情を作って、顔の熱も見た目にはわからないくらいには引いているはずなのに。
わたしがわかりやすいわけではありませんわよ。そんなことは断じてありません。
これでも本音と建前を使い分ける社交界で、それを嗅ぎ分けられるようなヘマをしたことなどないんですから。少し話しただけで違和感を覚えるコレットが鋭すぎるのです。
「別に何も・・・いえ、その話はまた今度しますわ」
隠すのもおかしいですわね。でも子爵夫人と会う前にその話はしたくない。口にするだけで、わたしの精神力がゴリゴリと削られていきそう。確実に冷静ではいられなくなりますわ。
「ふぅん、わかったわ」
なぜかやけにいい笑顔でコレットは頷いた。何か含みがありそうですけど、考えないようにしましょう。
それ以上は何も言わないでと目で訴えると、コレットはもう一度ふふっと笑ってから、またたきほどの一瞬の間、悲しそうな顔をした。
「お母様は居間で刺繍をしているわ。そちらにお茶を持ってきてもらいましょう」
そう言って今度は作ったような笑顔を見せる。
本当に、腑抜けている場合ではありませんわ。しっかりしないと。
子爵夫人はわたしの顔を見ると、眉尻を吊り上げた。
また来たのかという文字が顔に浮かび上がっているような気がする。
それでもいい加減にしろと怒鳴ったりはしないのですから、意外と気は長いのかもしれませんわ。
「諦めませんね、あなたは」
「当然ですわ。友達を不幸になんか、したくありませんもの」
わたしがすぐさま切り返すと、子爵夫人はギッと睨みつけてくる。
「私も娘を不幸になどさせるつもりはありません。だからこそ平民との結婚など、絶対に許さないのですよ」
考えを変えるつもりはないと宣言する子爵夫人を、わたしはじっと観察してみた。
ちょっと前から気になっていたことがあった。
ハルトンさんと一緒に夜会に出席した時、彼を馬鹿にしたり見下したりする貴族たちを見て思ったのだけど、あの貴族たちと子爵夫人はどこかが違っていた。
すごく些細な違いですけど、彼らが自分たちのほうが上等な人間であることを盲信しているのなら、子爵夫人の場合はそれを信じ込もうとしているように見える。
それに彼らが人の意見を聞き入れない自己中心的な頭の固い人間であるなら、子爵夫人は頑なに聞き入れようとしていないかのように見えてしまう。
気のせいなのかもしれないけれど、わたしは違うと感じた。
彼女は古い貴族の考えを持っているようでいて、本当はそうではないのかもしれない。
「子爵夫人」
わたしは慎重に口を開いた。
こちらを見ている彼女に、ゆっくりと問いかける。
「あなたは彼らにーー平民の人たちに、何か恨みでも持っているのですか?」
もしそうであるなら、この人の態度に納得がいく。
反応を見逃さないようにしていたわたしは驚いた。
子爵夫人の表情は予想していたものの中のどれにも当てはまらなかった。
図星を指されたようでもなく、見当違いなことを言われたようでもない。
彼女の顔にあったのは、ただただ純粋な驚きだった。茫然としているようにすら見える。自分がそれだけ驚いていることに驚いているようにも。
わたしは何を言えばいいのかわからなくなった。
「・・・いいえ」
呟くように子爵夫人は答えた。
「いいえ、恨みなど何もありません」
本当にそうなのか。疑問が湧いてきたけど、問い詰めることはやめた。
わたしの直感が、今日はもう口を噤めと言っている。この話をこのまま続けても、きっといいことはない。
しばらく黙った後、わたしはどうということのない話題を振った。
そしてこの日は早々に子爵邸を辞した。