いつからか (フィル)
番外編的なお話です。
子供の頃はあまりいい思い出がない。
大きすぎる家の中はいつもピリピリしていて、父である公爵の機嫌を損ねさせないために、家族も使用人たちも常に緊張していた。
父はとにかく厳しい人で、顔を見ただけでもそれがわかる。
口をぐっと引き結び、眉間に大きな皺を寄せた、眼光の鋭い背の高い男に見下ろされれば、いくら彼の子供とはいえ、萎縮しないほうがおかしい。
父が実際に家族や使用人を怒鳴り散らすようなことはなかったが、威圧感があるせいで、怒らせたらどうなるかわからないという認識を植え付けていた。ため息を吐かれただけで使用人は震え上がっていたくらいだ。
誰に対しても要求が高かったせいでもあるだろう。
立ち振る舞いに隙を見せることなど許さず、仕事は最高の出来でなくてはいけない。子供であれど、公爵家の人間ならば、何でも出来て当たり前だと言われていた。
そして父は長男である自分には一際、全ての能力への要求が高かった。幼少の頃からあきらかに弟たちとは扱いに差があったのだ。
家庭教師はそれに応えるべく、とても厳しくなり、体罰を与えられることすらあった。
数日に一度顔を合わせる父は、ただいつも勉強の進行具合だけを尋ねて、それを聞くと、今度はより高みを目指すように諭される。
いくら周囲から父が素晴らしい人間だと教え込まされていても、この父との対面はあまり好きになれなかった。
それでも一月に一度くらい、父に呼ばれて嬉しい日があった。
貴族の子女というのはスクールに通うようになるまでは、ほとんどの時間を子供部屋で過ごすものだが、兄弟の中で自分だけは特別に父の外出に付き合わせてもらえる日があったのだ。
行き先はオストン伯爵家。物心がついた時には既に決まっていた、俺の婚約者がいる家だった。
「フィルー!!」
エントランスに足を踏み入れた途端に、待ち構えていたに違いない可愛らしい声の主に出迎えられる。
フリルがふんだんに使われた水色のドレスを着た幼い少女が、パタパタと足音を響かせて、こちらに駆け寄って来ていた。
思わず彼女の名前を呼びそうになったところで、大階段のほうから諫めるような声が飛んでくる。
「アイリーン!」
彼女はびくりと体を竦ませると、急いで立ち止まった。
そしてやるべきことを思い出したのか、精一杯淑やかな足取りで、父の前まで歩いて来る。
「ごきげんよう、小父様。ようこそいらっしゃいました」
スカートを持ち上げて腰を落とす様子は、教え込まれた礼儀作法を披露しているというよりは、澄ました大人の淑女の真似をしているようで微笑ましい。
「ああ、こんにちは、アイリーン」
父も幼い少女まで威圧する気はないのか、素っ気ないながらも幾分柔らかな口調で応える。
アイリーンはそれで及第点を貰えたと思ったのか、父を見上げてにっこり笑った。
「小父様、今日はどこかへお出かけしますの? わたし湖に行きたいわ」
小首を傾げておねだりする姿は可愛いが、父にそんなことができる彼女はかなり度胸がある。
「私は君の父親と出掛けなくてはいけない」
当然、父が子守などするわけがない。あっさり断るが、そこはアイリーンも予測しているらしく、すかさず言い返す。
「じゃあ、わたしはフィルとお出かけしてもいい?」
「・・・・・・」
父はすぐに答えず悩んだ。
俺と出掛けるのだと言っても、二人でではない。使用人や護衛は何人かちゃんと付いて来る。しかし大人の家族が付き添わないというのはあまりいいことではない。
「ねぇ、お願い。わたしちゃあんとフィルの言うこと聞くわ。フィルの側を離れたりもしないから」
アイリーンは力を込めて説得した。
ちなみに俺の意見は一度も聞いていないのだが、それはまあいい。
「・・・箱馬車に乗って行くなら構わない」
不承不承という体で、父が許可を出した。
「やったわ! ありがとう、小父様!」
アイリーンは全身で喜びを表現して、父のお腹に抱きついた。この時、父の厳しい表情は一切変化していないので、かなりちぐはぐな光景になる。彼らの背後でアイリーンの父親が軽くため息を吐いていた。
ここまでの経緯は伯爵邸を訪れた時の、よくあるパターンだった。
アイリーンは何かと外出したがる子で、しかし社交に忙しい両親や年の離れた兄たちはそれに付き合ってはくれない。だから俺が来た日にいつもおねだりする。
たった一つしか年が違わないというのに、彼女はいつも俺がいれば構わないだろうという言い方をした。
フィルの言うことをちゃんと聞くから。
これが彼女の決まり文句だった。
実際にも彼女は外出先で羽目を外してしまっても、俺が叱れば二度と同じことはしない。側を離れないという約束も破ったことはなかった。
アイリーンは少しわがままでお転婆な子。でも俺に任せておけば問題はない。それが周囲の大人たちの認識だった。
そのせいで俺はしっかりした子供だと思われるようになった。
「フィル、湖に行こう!」
全て決まってから誘いをかけてくるアイリーンに苦笑する。
「ああ」
「フィル、行きたくないの?」
思っていた反応と違ったのか、アイリーンは少し不安そうな顔になった。
「いや、俺はどちらでもいいよ。家でも湖でも」
アイリーンに申し訳なく思いながらも、俺は父の前で遊びに出掛けるほうがいいなどとは言えなかった。
今でこそ、父の厳しさの中に愛情だってちゃんとあるのだとわかっているけど、子供の頃は嫌われているのではないかという疑いが常にあった。
公爵家の跡取りとして問題がないか、父の関心はそればかりだったから。
俺の面倒を見ている大人たちに確認をとることも多かった。
それを近くで聞いていた時、アイリーンはいつも叱られるのも構わずに話に割って入って、こう言うのだった。
「フィルは大丈夫よ」
怒るでも訴えるでもなく、ただ当たり前のことを口にしているように。まるで探し物をしている人間に対して「あそこで見たわよ」と教えているかのような、淡々とした態度だった。
父と話をしていた相手がアイリーンの不作法を咎めるのを少しだけ聞いてから、父はいつも同じ返事をする。
「・・・そうか」
そして父自身がアイリーンを叱ることは一度もなかった。
この頃の、父と俺の親子の絆というものは、彼女によってギリギリ保たれていたのだろうと思う。
でも彼女が守っていたものはそれだけではなかった。
あの息が詰まる家の中で、俺にとっての出口は、たった一つだけだった。
一体いつからだったのか。
アイリーンが気づいていたのは。
いつも外に出たがっていたのは、その思いがより強かったのは、彼女ではなく俺のほうだということを。
アイリーンはいつも俺と外出したがっていた。でもいくら両親が多忙だとはいえ、彼らだって少しくらいは子供の相手をする時間はあったはずなのだ。伯爵夫妻はどちらかというと子供に甘いのだから、彼女がおねだりすれば連れ出してくれていただろう。
むしろそのほうが容易く許可を得られたはずだ。
でも彼女はそれをしなかった。
恐らく俺との外出を許してもらえなくなる可能性を、少しでも減らすために。
アイリーンは間違いなく知っていたのだ。あの頃の俺が、父の気配のない場所でしか安息を得られなかったということに。
屋敷の門を出て、森や湖で彼女と子供らしい遊びをしている時でしか、心から笑えなかったということにも。
鈍いくせに変なところで鋭い。
そんなアイリーンがいなければ、俺は今頃あらゆるものに押しつぶされていただろう。公爵家の嫡男として周囲に認められながら、夜会の場に立つことなどなかっただろう。
社交界デビューを果たしたアイリーンは、昔からそうではあったけれど、とても可愛い女性になっていた。
中身とのギャップがより大きくなった気はするけれど、そんなことは些細な問題だった。
大きな問題は彼女が男受けのする顔立ちをしていることにある。
それでなくてもデビュタントというのは注目を浴びやすい。彼女は婚約者がいなければ、男たちの中で争奪戦が繰り広げられていてもおかしくなかったのではないかと思う。
さすがに俺の婚約者だとわかって手を出そうとする男など、よっぽどの馬鹿しかいないが、そのよっぽどの馬鹿と、俺の婚約者だと知らない男たちが問題だった。
夜会に出れば常にそいつらを警戒していなくてはいけない。
アイリーンは俺がいるせいか、自分が値踏みされたり狙われたりすることなどないと思っているようだから、余計に気をつけなくてはいけないのだ。
でも彼女がちょっかいをかけられる心配はしても、彼女がそいつらに目移りする心配などはしていなかった。
だってそうだろう。
子供の頃から、あんなにも俺のことばかり考えてくれていたアイリーンが、今更他の男など好きになるはずもない。
相変わらず自覚はないようだけど、俺は彼女が自分で気がつくまで何も言わないと決めていた。
もし好きだなどと言われてしまったら、すぐにでも結婚許可証にサインさせたくなるからだ。いくら何でも男が十代で結婚だなんて何かあったのかと思われてしまう。
しかし公衆の面前でキスした時に、アイリーンが人前でそれをやったという事実だけに反応したものだから、あの時は何事もなかったかのように振る舞う自分もどうかと思った。
早く気づいてほしいけど、そうなったら怖い気もする。今でさえ可愛くて仕方がない気持ちを隠すのに精一杯なのだから。
でも焦る必要はない。彼女とずっと一緒にいられる未来は、ほぼ決まっている。その未来を守るためなら何だってする。
アイリーン、君が俺を守ってくれたから。
今度は俺が君を守ろう。